花畑
私は今日、花畑にいた。
野に咲く花のことではない。宝石の花畑だ。
祖母の遺品の宝石を親族で分けあって所持しようと言われ、エメラルドやアメシスト、パール、珊瑚などのついた様々な宝飾品と鑑定証の数々に囲まれた。
本当に素敵で、手入れの行き届いた美しいアクセサリー。
こんなに綺麗なものを、私なんかが付けても構わないのだろうか?
おどおどしていると母が「それはそんなに値段張らないから」と告げた。
「そんなに……」
そんなに、とはいくらのことだろう? そんな価値の優劣で遺品を選ぶなんてことはさすがに。
母はなんてことないように言った。
「時価●K円くらいだから貰っていいよ。あっちのはお家建てられるけど」
軽い気持ちで踏みいった花畑が、途端におそれ多く感じられた気がして苦笑いを隠すのに必死だった。
空が泣く
空は泣く。
たんたんと雫をこぼす。
空は泣く。
哀しみではないなにかをはらみ、雲をつくる。
空は泣く。
しとしとと泣き止まない空は、きっとあの子の分も泣いている。
泣けないあの子に変わって水を落とす。
空が泣く。
ああ、またあの子が泣いている。
早くきて。
君からのLINE
君とはLINEの交換はしたけど、連絡ツールはずっと他のものだったね。
君からのLINEはずっと無音。
個人情報が取られるかもしれないって不安がってたけどどうも私の気づかない間に始めてたみたい。
私にも音を繋げてくれたらよかったと思ったあの頃は、もう遠い昔。
君からのLINEがくるいつかが、来世に訪れますように。
命が燃え尽きるまで
命が燃え尽きるという表現。火葬という文化のある国柄故か、はたまた生き様が燃え尽きるように苛烈だったのかはわからない。
仮に燃え尽きるまで命を燃やすということが比喩ではなく可能だとして、その燃えたものはなんだろう。
何を燃やせば、命が燃え尽きるまでと言えるのだろうか。
生き甲斐、使命、それとも生そのもの?
私は命を『燃やせる』ほどなにかに取り組んでいるのだろうか?
否。私は今、人生の岐路にて盛大な迷子状態だ。
人のために、人の喜びのために、人の幸いのためにと捧げ続けた挙げ句体を壊した。
するとどうだろう、私は空っぽだったのだと思い知ることになったのだ。
健康を犠牲にすることでしか人様に尽くせなかったのだ。
この場合は間違いなく、私は命が燃え尽きる前に精神を燃やし尽くしたのだろう。
まだやりたいことがないわけではない。
でも休んで初めて気づいた。
自分の体を休める方法さえ知らずに、エンジンをハイスピードでかけ続けてガス欠状態というのは幼子のするようなことではないかと。
命が燃え尽きるまで一心不乱に人に尽くせる身体はもう失くした。
これからは、命が燃え尽きるまで大切に身体と精神のメンテナンスしていこうと思う。
私を大事にできるのは、私しかいないから。
夜明け前
この家の夜が明けたことなど、一度もない。
いつまでも喧嘩の騒音が続き、眠れぬまま出勤。
夜が明けることなど、あるわけがないのだ。
夜明け前、というからには明けることが決まっているのかもしれない。
それはいつかは明けるかもしれないけれど、三時間か四時間も我慢した果てのことで、いつでも夜明けが決まっているわけではない。
心にどんよりと薄雲を纏いながら、それでも明けるかもしれない夜に諦めの色を乗せ、瞼を伏せた。