──後悔した。ただ後悔しただけだ。
私が10歳のとき、友達とボール遊びをしていた。そのとき唐突に襲ってきた後悔。
──何故私はあのとき子宮に入ってしまったのか?
その日から生について考えることが多くなった。
──何故私は生きているのか?
──何故私は私なのか?目の前にいる人間が私だって構わないはずだ。なのに何故?
ご飯を食べているとき、風呂に入っているとき、寝るときまで考えている。
──この体を操作してるのは何故?
──意識が私として存在しているのは何故?
もちろん、答えはない。
私は私だ。父は父、母は母。そして他人は他人。
理解ができるが時々どうしてか自分がわからなくなるときがある。
期待されるたび、がっかりされるたび、私の価値とは何かモヤがかって見えなくなってしまう。
それと同時に私とは何か、私を通して両親や他人は何を求めているのか、何を見ているのか、何を望んでいるのかわからなくなる。
それは本当に“私”なのだろうか?いいや、違う気がする。
私は私であることを、他人は他人であることをやめてはいけない。どちらの領域にも超えてはならないものであると私は思う。
思うだけで、他人の期待に応えずにはいられない性である。
【私と性(さが)】
──……きて、おきてパパぁ。
愛娘の声がする。眼を開けるとお腹の上に頭を載せた娘が笑っていた。
──あ、おきたぁ! ママぁ、パパおきたぁ〜!
嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねまわる娘に、男はくすりと笑みが溢れる。ブロンド色の癖毛をくしゃりと撫でてやるといひひっと笑い手に擦り寄って来た。
娘と共にリビングへ行くと、朝食の良い匂いが漂ってきた。
──おはよう、あなた。小さな愛し子(リトル)、お役目ご苦労様。
妻は微笑み娘をひと撫でし、夫である男の頬にキスをした。
朝食は男の好きな具沢山のポトフと硬めのパンだった。木の温かみのあるリビング、朝の日が差し込む中、3人は食卓を囲んだ。男は思った───これは夢だ。
夢から覚めるとそこは屋根や壁が崩れた小屋であった。
夜明け寸前の淡い桃色と藍色の空には厚めの雲が四散している。昨晩は雨が降っていた。
奴隷市と呼ばれる地獄(ばしょ)から死に物狂いで逃げてきた。強制労働、人身売買、人体実験、臓器売買、そこで売られたものに人権はない。
「ふぅぅぅぅ────」
男は息を吐いた。季節は冷たい空気を残す春前。逃げる途中で盗んだ薄手のジャケットを着ているとはいえ、雨に濡れた衣服は少しずつ体力を奪っていく。濡れているのは衣服だけではなかった。頬に伝う雫はいつ止まるのかと男は眼を閉じた。
これは悪夢だ──男は思った。
眼に映る惨劇を前に男は動けずただ呆然としていた。鮮血が飛び散る床に横たわる2つの亡骸。一人は成人した女性、もう一人はまだ幼い女児。
「あ──あぁ」
遠くで獣のような声がする。喉が締まり痛むのは何故だ。眼から流れる液体は何だ。手の中にいる亡骸は誰だ────男は妻と娘だった亡骸を抱え慟哭した。
気づけば辺りは暗闇に落ちていた。よたよたともたつく足取りで男はシャベルを探す。妻が好きなスミレの群生地に2人を埋葬した。ここではまともな葬儀は望めない。
「俺もすぐにそっちに行くからなぁ」
男は言い残し、埋葬地を後にした。
男は再び眼を開けた。どうやら凍死を免れたらしい。
ここはスラム街の外れにある山奥。人狼や魔女、鬼の噂のある場所だった。
──いっそう、人狼や鬼に喰われて死んでしまいたい。
その思いだけで険しい山に登った。それでも男は生きている。あくまで噂は噂。
「ははっ───」
男は情けない己を自嘲した。
2人を埋葬した後、男は自暴自棄になり街をさまよっていた。街もまた悲惨なあり様である。善社会(ヒーロー)と呼ばれる者たちはどこにもいない。男が覚えていたのはそこまでであった。その後何があったのかわからない。気づいたときには奴隷市につれて来られていた。手の甲や腕には暴れたのか傷ができていた。ジクジクと痛むたび血が垂れていた。
家畜同然で檻に入れられた男がそこで見聞きしたのは善社会(ヒーロー)の裏の顔であった。
名は──アキレギア。表の顔は反社会(ヴィラン)と戦う英雄。裏では人権を奪い人身売買、臓器売買、売春で荒稼ぎする善人の皮を被った糞野郎だった。
生きているのなら──男は腹の奥から沸き立つような衝動に決心するように立ち上がった。
時は経ち────惨劇から2年が過ぎた。
復興は善社会(ヒーロー)たちと国が力を合わせ刻々と進んでいた。
あの日、現場に急行できなかった善社会(ヒーロー)たちはカメラの前で頭を下げていた。形だけの謝罪と本心ではない言葉の羅列を並べていた。
男は着々と決行の日を伺っていた。奴隷市で聞いた言葉を胸に最初のターゲットをアキレギアに決めた。
あの男を野放しにはできない。かと言って前線で戦う善社会(ヒーロー)に腕っ節が叶うわけではないので裏で動いてもらうことにした。金を詰めばいくらでも話に乗る者は多い。
レストランで食事を取りながら男は店内にあるテレビを見ていた。そこにはアキレギアが映っていた。
──今日の勝利は市民の方々の協力もありスムーズに反社会(ヴィラン)を確保することができました! 我々が戦えるのは皆様のおかげです。ありがとうございました!
猫をかぶり市民を欺く男(アキレギア)に男は静かな怒りを抱いていた。
テーブルにチップと紙を起き、レストランを後にする。
決行は今夜だ。
男は指示のあった場所へと訪れていた。スラム街から車で1時間ほど走らせた所にある廃墟となった研究施設だ。元は動物を使った実験が行われていた場所でもある。
重い扉を開け荒れた廊下を進み、階段で地下へと降りていく。手付かずのためややホコリとカビの臭いが充満していた。
地下は実験が行われていた痕跡が至るとこにあった。奥に進み自動ドアを手動で開けて入る。
そこにはアキレギアがいた。やや興奮した様子でガラス張りの小部屋に囚われていた。
「ここから出せェ! こんなことしてただで済むと思うなよォ!」
アキレギアは声を荒げガラスを叩く。前線で戦うのも頷けるほどのガタイのいい体。腕や脚も太く背も180はあるだろう。だが今は善社会(ヒーロー)という面影はなく、ボクサーパンツ1枚でそこに捕まっていた。
「……こんなに上手く行くとは思ってもいなかった」
「あぁ?」
男の言葉にアキレギアは顔を顰めた。
「はじめまして、善社会(ヒーロー)のアキレギア」
男は腰を下ろししゃがんで言った。
「誰だてめェ! どうでもいいから出しやがれくそったれェ!!」
アキレギアの怒号が飛ぶ。ガンガンとガラスを割るように叩く。冷ややかな目をした男はそれを眺めているだけで何も言わなかった。
「ちっくしょー、あの女(アマ)美人局かよォ。覚悟してろよォ、ぜってぇ娼婦に落としてやる!」
善社会(ヒーロー)としてあるまじきな言葉を吐き散らしアキレギア暴れていた。
「今のお前を見たら市民は何と言うんだろうな?」
その言葉にアキレギアは動きを止め男を睨みつけた。
男は続けて───
「お前がしてきたことは全て調査済みだ。お前が奴隷市で金稼ぎしていること、約2年前にあった街が襲われた事件も────全て知っている」
「だから何だァ?! てめェに何が関係があるんだァ? あぁ?」
アキレギアは今一度語気を強めた。
「妻子を、あの事件で殺された。その後どに連れて行かれた俺はお前の所業を知った。ただそれだけだ」
アキレギアは呵々と嗤った。
「そうか、そうか、死んじまったかァ! それでてめェはオレに復讐しようとしてるわけかァ!! 悪かったなァ救えなくってよォ」
手を叩き、それは愉しそうに言うアキレギアに男の眉が顰む。
「そうやって嗤って入ればいいさ。失ったものは戻らない。善社会(ヒーロー)くせに何もわかっていないんだな、お前」
男は小部屋の横にある装置を弄り作動させる。轟々と機械が動き出す。
「な、何をした! おい、おい! ここから出せェ!」
焦りだしたアキレギアはいっそう強くガラスを叩き出した。
「………この糞反社会(ヴィラン)」
ボソっとアキレギアが呟く。小部屋内の空気が変わったのか、
げほ、げほ咳き込みながら荒い息をしながら男を睨みつけていた。
アキレギアの息遣いに混じるようにははっと冷笑に似た嗤いがこぼれる。
「いいや、俺は反社会(ヴィラン)じゃない」
「……てめェみたいなっ、やつを反社会(ヴィラン)と呼ばずに……なんと言うんだァ!」
ゼェゼェと肩で息をしているアキレギアを横目に男は背を向けた。
「俺に反社会(ヴィラン)のような度胸はない。大層な思想も支配欲もない。ただ俺は俺の目的のためにやっているだけだ」
「馬鹿馬鹿しい……」
アキレギアは鼻で嗤った。
「お前には言われたくないよ」
男はアキレギアを見て嗤った。
「てめェは……反社会(ヴィラン)……だ。オレ(ヒーロー)たちの、敵だ」
げほ、げほと咳込み喉からヒューヒューと喘鳴する。アキレギアの体に徐々に毒ガスが回っていた。
「お前の口からまだその言葉が聞けてよかった」
息が漏れるように嗤い、男はアキレギアに背を向け地下施設を出た。
翌朝──テレビはアキレギアの死亡報道ではなく、アキレギアの不祥事で持ちきりであった。
市民は当然激昂し、善社会(ヒーロー)団体に批判殺到してしまった。一部の地域では暴動が起き、首が回らない事態に陥った。
あの後───アキレギアは男の通報により仲間に助けられ、一命を取り留めた。
男にとって目的は“殺人”ではない。悪行を働く者の厚生でもない。目的は──。
男は今日も変わらずスラム街のレストランに入ろうとしていた。
「よお、お前さん。上手く行って良かったなぁ〜」
薄汚れた面立ちで歯の抜けた中年が声をかけてきた。この男は──情報屋だ。男の計画にいち早く乗った人間だった。
「あぁ、お陰様で。どうです? メシでも奢りますよ」
「ひひっ、悪いねぇ〜。お言葉に甘えてそうさせてもらうよ」
禿げた頭を掻きむしりながら情報屋は嬉しそうに笑った。
「お前さん、これからどうするつもりだ?」
席に座ると同時に情報屋は聞いてきた。続けて──
「あの男だけじゃないだろう? お前さんは何のためにあんなことをした?」
「単純に復讐心だけですよ」
「本当に──?」
「えぇ、本当に──」
他愛もない会話をしていると注文したメシが運ばれてきた。
男の前にハンバーグランチ、情報屋の前にオムライスが運ばれてきた。
食べすすめながら男は口を開いた。
「──わかっているんですよ。俺がしていることが間違っていることぐらい。それでも失ったものは戻らない、どうしたって」
男はハンバーグを一口頬張り嚥下する。
「たとえ間違いだったとしても俺はこの生き方を変えることはできない───戦場にいた頃と何も変わらないんですよ」
男は左足を撫でた。無機質な硬い感触──義足であった。
「復讐心だけでは心が癒えることはないぞ」いたずらっぽく、声に真剣さを残しながら情報屋は言った。
「──知っていますよ」
男が2人のも元にやってきたのは情報屋と別れてすぐのことだった。スラム街からかなり離れた所に群生しているスミレの中を足取り確かに進んだ。
大きな木の下、スミレが一番綺麗に咲く場所の近くに妻と娘が眠る。
小さな花束と、複数味の入ったドロップス缶をを供えた。
2人の側に座り男は語りかける。幸せだったときにしていたような他愛のない話を。
「ごめんな……。もう少し俺は生きていないといけないらしい。こんなことしているってバレたらお前たちに叱られてしまうな。それでも俺はお前たちを殺したやつを許さない」
たとえ間違いだったとしても俺は俺のためにやり遂げる。
───そう俺は“復讐者”(ヒール)
【Heel】
ボクの目から落ちる雫は真珠になって下に落ちる。カツンと乾いた音を立ててどこかへ行った。
「あくびの涙も真珠になるんだね」
足元に転がった真珠を拾い上げた信乃が言った。
「うん、そうみたい。それを見るたびボクは人じゃないことを痛感するよ」
「仕方ないよ、体質なんだから」
真珠をいじりながら笑った。長袖の隙間から包帯が見える。また……。とボクは思った。
「また機嫌が悪いんだね。お父さん」
「うん。少し手首を痛めただけ」
「どこかに相談しないの? ボクも……」
信乃は手に持っていた真珠を握ってボクの顔を見つめた。
──余計なことはするな。とでも言いたげな瞳で。
ボクがこの学校に転入してきたのは3ヶ月前のこと。海からやってきたボクは足を手に入れ、肺で呼吸をすることを学んだ。
ここは特別で海から来た者を受け入れてくれる変わった学校だった。
転入して早々ボクは保健室の住人になってしまった。クラスで挨拶を済ませたあと、学校集会のため体育館に向かっているとき、予期せぬ方向からボールが飛んできたため顔面でキャッチしてしまった。仲良くなった友人擬きは半笑いし、ボールを飛ばした本人は簡易な謝罪で元の場所へと戻って行った。
当の本人(ボク)はと言うと、初めて“鼻血”を経験したことによって途方にくれていた。
その時助けてくれたのが信乃だった。
ティッシュを渡してきたと思ったら、手を引いて保健室へ連れてきてくれた。テキパキと戸棚からワタを取り出し「鼻に詰めて」と言い、冷凍庫から氷を取り出し氷のうへ詰めていく。
「慣れて、いるんだね」
「わたし、いつもここにいるから」
信乃は小さな声で言った。振り返った彼女は先程作っていた氷のうを差し出した。
「冷やして、それで止まらないなら先生呼んでくるから」
「うん、ありがとう……」
ボクが頷いたときカツンと乾いた音がした。
手についていた血が床に落ちたからだ。目の先には血のような赤いルビーが落ちていた。
これがボクの体質。海の者によって個体差は出てくるが、体液が毒の性質の者、血肉が不老不死の性質を持つ者、歌声が命を奪う性質を持つ者など様々。ボクの性質は涙と血が宝石になること。人ではない部分。
「──綺麗」
信乃は笑って言った。
その言葉でボクは自分の性質がこれでよかったと思った。
「そう、かな?」
「うん、とても」
「じゃあ、あげるよ。キミが嫌じゃなければ……」
信乃はルビーを拾い少し悩んだあと、微笑しルビーを自分のポケットへしまった。
「ありがとう、大事にするね」
彼女はそう言い保険室から出ていった。
それからすぐ彼女が何故保健室にずっといるのか知ることになった。
下校時、裏路地に面した場所で、中年男性と言い争う信乃を見かけた。
──お父さん、待ってよ、待って! それは大切なものなの! 返して、返してよ!
保健室で聞いた声よりも大きく切羽詰まった声だった。
──うるさい! と中年男が怒鳴り信乃を突き飛ばした。その手には保健室で彼女にあげたルビーが握られていた。
しがみついてくる信乃を振り払いながら男は足取り確かにどこかへ向かって行った。
「信乃」
ボクが声をかけると信乃は戸惑ったような顔をした。
「……風海(かざみ)くん、ご、ごめんなさい」
信乃は顔伏せ震えていた。自分の拳に力がこもる。
「…ボクが取り返すよ」
「だめ!」
信乃は叫んだ。ボクの腕を掴み、ボクの目を強く睨んだ。
「…絶対にだめ」
ぼやくようにもう一度言った。震える手は彼女の可弱さを物語らせた。
その後からボクたちは保健室仲間として仲良くなった。保健室で彼女は本を読んでいた。日本文学から海外の作品まで沢山読んでいた。
「桜の木の下には死体が埋まっている」
信乃が呟いた。
「え? どういうこと」
「有名な文豪の一文なの。桜の花があまりにも美しいから何か理由があると不安に思った主人公が想像したのがこの一文なんだって」
「へー、変なことを言う人もいたんだね」
「そうだね。でもわたしこの言葉好きだな……」
信乃は呟き、視線を本に戻した。
彼女は言った。辛い、苦しい、死んでしまいたいと思ったとき本の世界に行くと現実世界の嫌な部分を忘れることができると。
1頁、1頁、わたしではない誰かになれる──と信乃はアザのついた腕をさすった。
──ボクがどうにかするよ
──ボクが君を守るから、どこかに逃げよう
──キミのためならなんだってするから
だから、信乃(キミ)に生きていてほしい。幸せになってほしかった。
彼女は絶対に首を縦に振らなかった。
例えどんなに傷つけられても、虐げられても、それでも家族だからと、見捨てられないと彼女は涙を流した。
ボクの涙は真珠になるのにキミの雫(なみだ)は水滴のまま下に落ちる。
人は無力だ。人と魚の半分ずつのボクも。
信乃の抱えた苦しみも痛みも悩みも救えない。
それでもボクの歌を聴いて涙を流し笑った顔、ボクの体質を綺麗だと言ってくれた声、小さな震えた手、ふわふわとなびく顎元で切りそろえられた髪、ボクは彼女の全てが愛おしく思っていた。
苦しいのならボクの息をわけてあげたい。
痛いなら痛みをわけてほしい。
寂しいのならキミのそばで歌うから。
どうか、どうか、一人で泣かないで。
キミの「助けて…」にボクは全てをキミに捧(あ)げたいと思った。
【ロスト】
「それじゃあ、行くね」
改札の前で大荷物を抱えたカオリが言う。
「あぁ……」
無愛想な声が出たと思った。視線を下に下に反らし、体を丸める。やや最近、腹まわりが出てきていた。カオリはそんな姿を見て「もう! 少しは体に気を使いなよ!」と文句を言っていたっけ。あぁ、行ってしまう。と湧く感情を堪えるように、地面を強く凝視(みつ)めた。
「私が居なくても、ちゃんとご飯食べてね。あ、くれぐれもバランス良く! ねっ!」
「あぁ」
「メールもするから、ちゃんとスマホの使い方覚えてね!」
「あぁ」
「あと、えっ……と……っ」
カオリの言葉が詰まる。あぁ、わかっているさ。何年、いや、何十年一緒にいたと思っているんだ?ぐっと手足に力がこもる。
「……東京には、きっと美味しいものがたくさんあるし、洋服だっていっぱい……。だから、だから、心配しないで、私は、大丈夫だから」
“お父さん”
何度も何度も話し合い、その都度反対していた上京。妻を早くに亡くし、片親で育て上げた立派な娘。強く、逞しくそして妻に似て美しく育った。
「もちろん、お父さんにも、お母さんにも東京の物買って送るね。楽しみにしていて、私、頑張るから」
「いいや」
私は首を横に振った。少しだけカオリの体が揺れる。
「いいや。何も、何もいらないさ」
「どうしっ……」
顔を上げ、カオリの困惑したような、まだ反対しているのかと心理を探る瞳を見つめた。
「ただ、お前が元気でいてくれたらそれでいい。たまに、たまにでいい……、帰ってこいよ。父さんも母さんも待ってる。東京(あっち)での土産話を楽しみに待っているよ、カオリ」
目の縁に涙をいっぱい溜めたカオリが大きく頷く。その時ぽたりと雫が落ちた。乱暴に厚手のコートの袖で拭う。
「そんな乱暴に拭くな。赤くなるぞ」
そう言うとカオリは勢い良く顔を上げ涙でぐしゃぐしゃな顔でニッと笑った。
「お父さん! 行ってきます!」
「あぁ……、行って、らっしゃい」
今度は無愛想な声ではなかった。喉の奥がツンと苦しく、言葉が詰まり、頼りない震えた声だった。
改札の奥へ歩いていくカオリの背を見つめながら思った。今は振り返ってくれるな……と。
カオリは一度立ち止まったが振り返ることなくホームへ向かった。
私は周りに気づかれぬよう顔を拭い、帰路につこうと歩みだしたとき、はらりと空から雪が降ってきた。季節外れの雪。不思議と若き日の妻と私で聴いた曲を思い出した。
カオリとは状況が逆だが何処か今の現状にマッチしていた。
カオリが言葉に詰まらせた時、きっと別れの言葉を言おうとしたのだろう。別れの言葉何ていらないさ。娘の門出を私は今、やっと喜ぶことができたのだから。
【スイートピーと季節外れの雪】