本棚の隙間

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「それじゃあ、行くね」
改札の前で大荷物を抱えたカオリが言う。
「あぁ……」
無愛想な声が出たと思った。視線を下に下に反らし、体を丸める。やや最近、腹まわりが出てきていた。カオリはそんな姿を見て「もう! 少しは体に気を使いなよ!」と文句を言っていたっけ。あぁ、行ってしまう。と湧く感情を堪えるように、地面を強く凝視(みつ)めた。
「私が居なくても、ちゃんとご飯食べてね。あ、くれぐれもバランス良く! ねっ!」
「あぁ」
「メールもするから、ちゃんとスマホの使い方覚えてね!」
「あぁ」
「あと、えっ……と……っ」
カオリの言葉が詰まる。あぁ、わかっているさ。何年、いや、何十年一緒にいたと思っているんだ?ぐっと手足に力がこもる。
「……東京には、きっと美味しいものがたくさんあるし、洋服だっていっぱい……。だから、だから、心配しないで、私は、大丈夫だから」
“お父さん”
何度も何度も話し合い、その都度反対していた上京。妻を早くに亡くし、片親で育て上げた立派な娘。強く、逞しくそして妻に似て美しく育った。
「もちろん、お父さんにも、お母さんにも東京の物買って送るね。楽しみにしていて、私、頑張るから」
「いいや」
私は首を横に振った。少しだけカオリの体が揺れる。
「いいや。何も、何もいらないさ」
「どうしっ……」
顔を上げ、カオリの困惑したような、まだ反対しているのかと心理を探る瞳を見つめた。
「ただ、お前が元気でいてくれたらそれでいい。たまに、たまにでいい……、帰ってこいよ。父さんも母さんも待ってる。東京(あっち)での土産話を楽しみに待っているよ、カオリ」
目の縁に涙をいっぱい溜めたカオリが大きく頷く。その時ぽたりと雫が落ちた。乱暴に厚手のコートの袖で拭う。
「そんな乱暴に拭くな。赤くなるぞ」
そう言うとカオリは勢い良く顔を上げ涙でぐしゃぐしゃな顔でニッと笑った。
「お父さん! 行ってきます!」
「あぁ……、行って、らっしゃい」
今度は無愛想な声ではなかった。喉の奥がツンと苦しく、言葉が詰まり、頼りない震えた声だった。
改札の奥へ歩いていくカオリの背を見つめながら思った。今は振り返ってくれるな……と。
カオリは一度立ち止まったが振り返ることなくホームへ向かった。

私は周りに気づかれぬよう顔を拭い、帰路につこうと歩みだしたとき、はらりと空から雪が降ってきた。季節外れの雪。不思議と若き日の妻と私で聴いた曲を思い出した。
カオリとは状況が逆だが何処か今の現状にマッチしていた。
カオリが言葉に詰まらせた時、きっと別れの言葉を言おうとしたのだろう。別れの言葉何ていらないさ。娘の門出を私は今、やっと喜ぶことができたのだから。

【スイートピーと季節外れの雪】

4/20/2023, 9:59:22 PM