本棚の隙間

Open App

──……きて、おきてパパぁ。
愛娘の声がする。眼を開けるとお腹の上に頭を載せた娘が笑っていた。
──あ、おきたぁ! ママぁ、パパおきたぁ〜!
嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねまわる娘に、男はくすりと笑みが溢れる。ブロンド色の癖毛をくしゃりと撫でてやるといひひっと笑い手に擦り寄って来た。
娘と共にリビングへ行くと、朝食の良い匂いが漂ってきた。
──おはよう、あなた。小さな愛し子(リトル)、お役目ご苦労様。
妻は微笑み娘をひと撫でし、夫である男の頬にキスをした。
朝食は男の好きな具沢山のポトフと硬めのパンだった。木の温かみのあるリビング、朝の日が差し込む中、3人は食卓を囲んだ。男は思った───これは夢だ。

夢から覚めるとそこは屋根や壁が崩れた小屋であった。
夜明け寸前の淡い桃色と藍色の空には厚めの雲が四散している。昨晩は雨が降っていた。
奴隷市と呼ばれる地獄(ばしょ)から死に物狂いで逃げてきた。強制労働、人身売買、人体実験、臓器売買、そこで売られたものに人権はない。
「ふぅぅぅぅ────」
男は息を吐いた。季節は冷たい空気を残す春前。逃げる途中で盗んだ薄手のジャケットを着ているとはいえ、雨に濡れた衣服は少しずつ体力を奪っていく。濡れているのは衣服だけではなかった。頬に伝う雫はいつ止まるのかと男は眼を閉じた。

これは悪夢だ──男は思った。
眼に映る惨劇を前に男は動けずただ呆然としていた。鮮血が飛び散る床に横たわる2つの亡骸。一人は成人した女性、もう一人はまだ幼い女児。
「あ──あぁ」
遠くで獣のような声がする。喉が締まり痛むのは何故だ。眼から流れる液体は何だ。手の中にいる亡骸は誰だ────男は妻と娘だった亡骸を抱え慟哭した。
気づけば辺りは暗闇に落ちていた。よたよたともたつく足取りで男はシャベルを探す。妻が好きなスミレの群生地に2人を埋葬した。ここではまともな葬儀は望めない。
「俺もすぐにそっちに行くからなぁ」
男は言い残し、埋葬地を後にした。

男は再び眼を開けた。どうやら凍死を免れたらしい。
ここはスラム街の外れにある山奥。人狼や魔女、鬼の噂のある場所だった。
──いっそう、人狼や鬼に喰われて死んでしまいたい。
その思いだけで険しい山に登った。それでも男は生きている。あくまで噂は噂。
「ははっ───」
男は情けない己を自嘲した。
2人を埋葬した後、男は自暴自棄になり街をさまよっていた。街もまた悲惨なあり様である。善社会(ヒーロー)と呼ばれる者たちはどこにもいない。男が覚えていたのはそこまでであった。その後何があったのかわからない。気づいたときには奴隷市につれて来られていた。手の甲や腕には暴れたのか傷ができていた。ジクジクと痛むたび血が垂れていた。
家畜同然で檻に入れられた男がそこで見聞きしたのは善社会(ヒーロー)の裏の顔であった。
名は──アキレギア。表の顔は反社会(ヴィラン)と戦う英雄。裏では人権を奪い人身売買、臓器売買、売春で荒稼ぎする善人の皮を被った糞野郎だった。

生きているのなら──男は腹の奥から沸き立つような衝動に決心するように立ち上がった。

時は経ち────惨劇から2年が過ぎた。
復興は善社会(ヒーロー)たちと国が力を合わせ刻々と進んでいた。
あの日、現場に急行できなかった善社会(ヒーロー)たちはカメラの前で頭を下げていた。形だけの謝罪と本心ではない言葉の羅列を並べていた。
男は着々と決行の日を伺っていた。奴隷市で聞いた言葉を胸に最初のターゲットをアキレギアに決めた。
あの男を野放しにはできない。かと言って前線で戦う善社会(ヒーロー)に腕っ節が叶うわけではないので裏で動いてもらうことにした。金を詰めばいくらでも話に乗る者は多い。

レストランで食事を取りながら男は店内にあるテレビを見ていた。そこにはアキレギアが映っていた。
──今日の勝利は市民の方々の協力もありスムーズに反社会(ヴィラン)を確保することができました! 我々が戦えるのは皆様のおかげです。ありがとうございました!
猫をかぶり市民を欺く男(アキレギア)に男は静かな怒りを抱いていた。
テーブルにチップと紙を起き、レストランを後にする。
決行は今夜だ。


男は指示のあった場所へと訪れていた。スラム街から車で1時間ほど走らせた所にある廃墟となった研究施設だ。元は動物を使った実験が行われていた場所でもある。
重い扉を開け荒れた廊下を進み、階段で地下へと降りていく。手付かずのためややホコリとカビの臭いが充満していた。
地下は実験が行われていた痕跡が至るとこにあった。奥に進み自動ドアを手動で開けて入る。
そこにはアキレギアがいた。やや興奮した様子でガラス張りの小部屋に囚われていた。
「ここから出せェ! こんなことしてただで済むと思うなよォ!」
アキレギアは声を荒げガラスを叩く。前線で戦うのも頷けるほどのガタイのいい体。腕や脚も太く背も180はあるだろう。だが今は善社会(ヒーロー)という面影はなく、ボクサーパンツ1枚でそこに捕まっていた。
「……こんなに上手く行くとは思ってもいなかった」
「あぁ?」
男の言葉にアキレギアは顔を顰めた。
「はじめまして、善社会(ヒーロー)のアキレギア」
男は腰を下ろししゃがんで言った。
「誰だてめェ! どうでもいいから出しやがれくそったれェ!!」
アキレギアの怒号が飛ぶ。ガンガンとガラスを割るように叩く。冷ややかな目をした男はそれを眺めているだけで何も言わなかった。
「ちっくしょー、あの女(アマ)美人局かよォ。覚悟してろよォ、ぜってぇ娼婦に落としてやる!」
善社会(ヒーロー)としてあるまじきな言葉を吐き散らしアキレギア暴れていた。
「今のお前を見たら市民は何と言うんだろうな?」
その言葉にアキレギアは動きを止め男を睨みつけた。
男は続けて───
「お前がしてきたことは全て調査済みだ。お前が奴隷市で金稼ぎしていること、約2年前にあった街が襲われた事件も────全て知っている」
「だから何だァ?! てめェに何が関係があるんだァ? あぁ?」
アキレギアは今一度語気を強めた。
「妻子を、あの事件で殺された。その後どに連れて行かれた俺はお前の所業を知った。ただそれだけだ」
アキレギアは呵々と嗤った。
「そうか、そうか、死んじまったかァ! それでてめェはオレに復讐しようとしてるわけかァ!! 悪かったなァ救えなくってよォ」
手を叩き、それは愉しそうに言うアキレギアに男の眉が顰む。
「そうやって嗤って入ればいいさ。失ったものは戻らない。善社会(ヒーロー)くせに何もわかっていないんだな、お前」
男は小部屋の横にある装置を弄り作動させる。轟々と機械が動き出す。
「な、何をした! おい、おい! ここから出せェ!」
焦りだしたアキレギアはいっそう強くガラスを叩き出した。
「………この糞反社会(ヴィラン)」
ボソっとアキレギアが呟く。小部屋内の空気が変わったのか、
げほ、げほ咳き込みながら荒い息をしながら男を睨みつけていた。
アキレギアの息遣いに混じるようにははっと冷笑に似た嗤いがこぼれる。
「いいや、俺は反社会(ヴィラン)じゃない」
「……てめェみたいなっ、やつを反社会(ヴィラン)と呼ばずに……なんと言うんだァ!」
ゼェゼェと肩で息をしているアキレギアを横目に男は背を向けた。
「俺に反社会(ヴィラン)のような度胸はない。大層な思想も支配欲もない。ただ俺は俺の目的のためにやっているだけだ」
「馬鹿馬鹿しい……」
アキレギアは鼻で嗤った。
「お前には言われたくないよ」
男はアキレギアを見て嗤った。
「てめェは……反社会(ヴィラン)……だ。オレ(ヒーロー)たちの、敵だ」
げほ、げほと咳込み喉からヒューヒューと喘鳴する。アキレギアの体に徐々に毒ガスが回っていた。
「お前の口からまだその言葉が聞けてよかった」
息が漏れるように嗤い、男はアキレギアに背を向け地下施設を出た。


翌朝──テレビはアキレギアの死亡報道ではなく、アキレギアの不祥事で持ちきりであった。
市民は当然激昂し、善社会(ヒーロー)団体に批判殺到してしまった。一部の地域では暴動が起き、首が回らない事態に陥った。

あの後───アキレギアは男の通報により仲間に助けられ、一命を取り留めた。
男にとって目的は“殺人”ではない。悪行を働く者の厚生でもない。目的は──。

男は今日も変わらずスラム街のレストランに入ろうとしていた。
「よお、お前さん。上手く行って良かったなぁ〜」
薄汚れた面立ちで歯の抜けた中年が声をかけてきた。この男は──情報屋だ。男の計画にいち早く乗った人間だった。
「あぁ、お陰様で。どうです? メシでも奢りますよ」
「ひひっ、悪いねぇ〜。お言葉に甘えてそうさせてもらうよ」
禿げた頭を掻きむしりながら情報屋は嬉しそうに笑った。

「お前さん、これからどうするつもりだ?」
席に座ると同時に情報屋は聞いてきた。続けて──
「あの男だけじゃないだろう? お前さんは何のためにあんなことをした?」
「単純に復讐心だけですよ」
「本当に──?」
「えぇ、本当に──」
他愛もない会話をしていると注文したメシが運ばれてきた。
男の前にハンバーグランチ、情報屋の前にオムライスが運ばれてきた。
食べすすめながら男は口を開いた。
「──わかっているんですよ。俺がしていることが間違っていることぐらい。それでも失ったものは戻らない、どうしたって」
男はハンバーグを一口頬張り嚥下する。
「たとえ間違いだったとしても俺はこの生き方を変えることはできない───戦場にいた頃と何も変わらないんですよ」
男は左足を撫でた。無機質な硬い感触──義足であった。
「復讐心だけでは心が癒えることはないぞ」いたずらっぽく、声に真剣さを残しながら情報屋は言った。
「──知っていますよ」



男が2人のも元にやってきたのは情報屋と別れてすぐのことだった。スラム街からかなり離れた所に群生しているスミレの中を足取り確かに進んだ。
大きな木の下、スミレが一番綺麗に咲く場所の近くに妻と娘が眠る。
小さな花束と、複数味の入ったドロップス缶をを供えた。
2人の側に座り男は語りかける。幸せだったときにしていたような他愛のない話を。

「ごめんな……。もう少し俺は生きていないといけないらしい。こんなことしているってバレたらお前たちに叱られてしまうな。それでも俺はお前たちを殺したやつを許さない」

たとえ間違いだったとしても俺は俺のためにやり遂げる。


───そう俺は“復讐者”(ヒール)

【Heel】


4/23/2023, 3:30:57 AM