◎胸の鼓動
#30
あのヒトの駆動音は重厚で、
集中して聞けば奥の奥のところで
少し軋むような、液体を運ぶような、
高くて低い音がする。
「奥から、心臓の音がする」
そう言うと、
あのヒトは表情を変えることなく
「私には心臓はありません。人間のそれと同等の働きをするポンプと歯車が音を立てているだけです」
と、生真面目に答えるのだ。
「そうかも知れないけれど、それらはアナタの中で心臓のように動くのでしょう?」
「私の部品は代替可能です。しかし、人間の心臓は“簡単には交換出来ないもの”であると記録しています」
そう言って自身の手を見つめて押し黙る。
機械なのに、昔を、
何処かの誰かの心臓を止めた記憶を思い出して、少しだけ表情を変えるあのヒトはまるで人間のよう。
「ならアナタがボクの心臓だね」
「人間の心臓は臓器です。もし機械で代替するとして、私は心臓になり得ません」
頑固な頭だ。
そういう所も良いんだけど。
「いつかアナタにも解るときが来るよ」
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
その時には私がアナタの心臓になれたら…
それはとても幸せなこと。
◎不完全な僕
#29
新月の夜。
青年の体はカタチを失いそうになっていた。
体が安定しない。
細部は特に、意識しないと不定形に戻ってしまいそうだ。
その腹部に深々と刺さるナイフが青年の意識を削り取っていく。
人として生きたかった。
そう願ったら、気まぐれな神がカタチを与えてくれた。
楽しかった。
皆とつるんで、助けあって、笑いあって、泣いて……
この子を庇って死ぬことに後悔なんて無い。
こんな僕を受け入れてくれた人に恩返しを出来て嬉しいくらいだ。
だけれど、
この体のうちは”人”でいたいから、
不格好でも不完全でも、体を必死に保つ。
人として認めてくれて、
一緒に生きてくれてありがとう。
つぅと青い液体が口から垂れる。
それは地面を染め、青年の正面に立つ連続殺人犯の足元に拡がった。
「青、青か……ははっ」
背後に庇った少女から見えない角度で、
口元を人外らしく歪めて青年は笑った。
「なぁ、クソ野郎。アンタの所為だぜ、せっかくの変化が解けちまった」
”人”としての意識が段々と薄れていく。
「いつか、また……今度は、人間として」
青年がその形を失っていくなかで、
頬を伝った液体が、彼が人間であったことの僅かな名残を示していた。
◎雨に佇む
#28
ぽとり
木々の間を縫って落ちてきた雫が
頬を掠めて地面にしみを作った。
ついと手を伸ばして雨滝の中に差し出すと
水が肌に弾かれて小さな珠になった。
湿り気のある山の呼吸が
大きな雲を呼び寄せて
自身を白い綿で隠してしまった。
深く息をする。
目を開けば墨で描いたような宵闇が
木々を塗り替えていく。
青い影の中から動けなくなった人影は
再び空を見上げた。
ぽとり
今度は雫が頬を伝った。
◎私の日記帳
#27
ノートをめくる。
去年の夏からつけている日記は、日記帳を買ってもらった。という文から始まっていた。
書くことが無くてイラストだけがスペースを埋め尽くしている日もあった。
しかし、それは徐々に白紙になっていく。
そして数カ月前でその記録は終わっていた。
そろそろまた書いてみるかな……
そんなふうに思ってシャーペンを握る。
スクショや写真に残した思い出は沢山ある。
あとは全てを文章にするだけだ。
「スマホの容量の為にもどんどん書かなきゃだね」
スマホの空き容量の残量を眺めながら、私は溜め息をついた。
◎海へ
#26
青と青に挟まれた場所で、仲間が声を張り上げた。
「島だ!島が見えたぞ!」
久々の陸は大きな港を開いて沢山の船を迎え入れている。
大きな時計塔が印象的なその港町は祭りでも催しているのか、遠目から見ても賑やかだった。
「立派な町だ。面白い情報があると良いんだが」
海風が、男の声をカモメと共に何処かに運んで行く。
男は世界中の話を集めるのが好きだった。男だけではない。その船の仲間は皆、物語や伝説、伝承などが大好きな者たちばかりだ。
近海の怪物の噂だとか最近の大捕物だとかその島ならではの伝承だって良い。
そういう事物をノートに纏めたらまた海に繰り出して次の島を目指すのだ。
物語に対してそれぞれの想いを抱えながらわざわざ海へと飛び出した男たちは、物語と並び立つほどに海が好きだった。
「さぁ、野郎共!この海に捧げる、自分だけの物語をつくる準備はいいか?」
「おぉーー!!」
海のため、この世で唯一つの本を作ろうと掲げた旗の下に集った者たちが、空へと拳を突き上げた。