家を出る度に少し想像してしまう
記憶を落とし迷い子でありたいと
良くない考えだとは分かっている
だが、否定的な気持ちとは裏腹に
想像力は衰えを知らず豊かになり
風が肌を擽るとより鮮明さは増す
無いはずの香りすら鼻へ届け出し
景色は瞼の裏で形を変えていった
春は日向喜び華やかに開く沈丁花
夏は清楚を感じさせ甘く香る梔子
秋は色も香りも人を留める金木犀
冬は封蝋を想起する艶やかな蝋梅
美しい四季に、心は惑い揺蕩いて
世話焼きな風へ放る様に身を預け
軽い足取りも心持ちも赴くままに
誰にも報せず、終点すらも決めず
風来人としての旅路を歩み楽しむ
ここまで考えてから現実に戻った
夢がどれだけ彩り豊かだとしても
常を社会に生かされている身では
想像の域を出る事ですら難しいと
そんな現実に辟易と肩を落とした。
ー 風に身をまかせ ー
粉砕機で珈琲豆を挽いている時
ポール・ワイスの思考実験を思い出していた。
“雛鳥の胎児を均質機で攪拌した場合
その前後で失われた物は一体なんだろうか?”
確か、そんな実験だったか…
この思考実験において
失われた物を全て確立させるべきなら
それはとても難儀な事だろう。
生物としての身体組織や機能だけではない
倫理的観点や個人的価値観…
それらを加味した喪失すら含むのであれば
これ程に語るに難しい問題も珍しい。
人間も日々の中で何かを失い
また、失う可能性を孕んだまま過ごしているが
何かしら損なう最中だとしても
主観的経験は自ずと積まれ
その積み重ねた経験で生じた
負債への対価だと仮定したならば
失った分、得た物も計り知れず
私にとっては無駄な損失など
無いようにも思えてしまうのだから
尚のこと、語り尽くせず厄介だと言えよう。
この文章を書き出し読む事にすら
今も尚、刻々と時間を消費しているが
本当にそれは“得た”とは言えないのだろうか?
人間は考え方次第だと口々に述べながらも
どうにも、減点方式を好みがちな節がある
何も失わずに在り続けるなど
形を持ったものならば、どだい無理な話なのだから
得た物を数えたって罰は当たらないだろう。
ー 失われた時間 ー
自分は成熟したという錯覚に乗じて
ただ飽き始めていた おままごとに蓋をする
齢を重ねる事を厭う他人を真似て
社会に足並みを揃えんと躍起になる
そうして事を成せば、子供は大人になれる
そんな確証も理も
何処にも無いと言うのに
貴方はまだ“大人である自分”に
固執してしまっているのかい?
いつか歳を重ねきった暁には
あの頃、若かりし頃へ戻りたいと
誰しも一度はごちる事だというのに…
大人なんて、なりたくてなる訳じゃない
子供にも戻りたい時には戻れない
貴方が変わらず貴方であるなら…
記憶の奥へと押し込めた
幼稚だとしても成したい事は
熟し切り、腐り出す前に
己の悔いとならぬ内に
手を付ける事をお勧めしよう。
ー 子供のままで ー
雨の日、傘の中では
人の声はより美しく聴こえる
雨粒に音声の波は反射され
傘の中で共鳴する。
…これは何処で仕入れた知識だったか?
生憎、何処からかは忘れてしまったが
確かな情報には違いなく愛しい者へ
叫びたくなる程の想いを伝えるなら
私は共に傘を差す空間が好ましい。
折角の君から芽吹いた愛なのだから
初心にせっつかれ、幼く叫ぶよりも
確実に 着実に 聞き入れてもらえるよう
その耳元へ口を寄せ、囁き掛けたいと
狡い大人の見本としては
そう 考えてしまうんだよ。
愛に飽和した霧雨の先に
綺麗な月も浮んだならば
私はもう 死んでもいい
なんて、少し遊び心も添えてみよう。
ー 愛を叫ぶ ー
越冬を終え、蛹化から目覚め
草花が揺れる啓蟄の日々の中
明るい色の花々へ口を付けては喜び
白い翅に垂らされた黒い袖紋を
ゆるりゆるりと優雅に振るっている
菜の花畑を漂う白無垢姿の蝶達は
気紛れに花を摘む人の手へ留まり
翅を休め、身支度を整えている
時折、空と草の色を混ぜた様な
優しい色合いの丸い瞳と目が合う
細やかな体毛にも埋もれぬ零れそうな瞳は
人間が纏う宝石にも似た存在感を放っていた。
この春を謳歌する貴婦人や紳士と
先の未来でも、また出逢えますよう…
そして、この美しい翅が
どうか他者に毟られませんよう…
そんな祈りを込めて、近くの花へと
その身をそっと帰したのだった。
ー モンシロチョウ ー