粉砕機で珈琲豆を挽いている時
ポール・ワイスの思考実験を思い出していた。
“雛鳥の胎児を均質機で攪拌した場合
その前後で失われた物は一体なんだろうか?”
確か、そんな実験だったか…
この思考実験において
失われた物を全て確立させるべきなら
それはとても難儀な事だろう。
生物としての身体組織や機能だけではない
倫理的観点や個人的価値観…
それらを加味した喪失すら含むのであれば
これ程に語るに難しい問題も珍しい。
人間も日々の中で何かを失い
また、失う可能性を孕んだまま過ごしているが
何かしら損なう最中だとしても
主観的経験は自ずと積まれ
その積み重ねた経験で生じた
負債への対価だと仮定したならば
失った分、得た物も計り知れず
私にとっては無駄な損失など
無いようにも思えてしまうのだから
尚のこと、語り尽くせず厄介だと言えよう。
この文章を書き出し読む事にすら
今も尚、刻々と時間を消費しているが
本当にそれは“得た”とは言えないのだろうか?
人間は考え方次第だと口々に述べながらも
どうにも、減点方式を好みがちな節がある
何も失わずに在り続けるなど
形を持ったものならば、どだい無理な話なのだから
得た物を数えたって罰は当たらないだろう。
ー 失われた時間 ー
5/13/2024, 8:05:59 PM