粉砕機で珈琲豆を挽いている時
ポール・ワイスの思考実験を思い出していた。
“雛鳥の胎児を均質機で攪拌した場合
その前後で失われた物は一体なんだろうか?”
確か、そんな実験だったか…
この思考実験において
失われた物を全て確立させるべきなら
それはとても難儀な事だろう。
生物としての身体組織や機能だけではない
倫理的観点や個人的価値観…
それらを加味した喪失すら含むのであれば
これ程に語るに難しい問題も珍しい。
人間も日々の中で何かを失い
また、失う可能性を孕んだまま過ごしているが
何かしら損なう最中だとしても
主観的経験は自ずと積まれ
その積み重ねた経験で生じた
負債への対価だと仮定したならば
失った分、得た物も計り知れず
私にとっては無駄な損失など
無いようにも思えてしまうのだから
尚のこと、語り尽くせず厄介だと言えよう。
この文章を書き出し読む事にすら
今も尚、刻々と時間を消費しているが
本当にそれは“得た”とは言えないのだろうか?
人間は考え方次第だと口々に述べながらも
どうにも、減点方式を好みがちな節がある
何も失わずに在り続けるなど
形を持ったものならば、どだい無理な話なのだから
得た物を数えたって罰は当たらないだろう。
ー 失われた時間 ー
自分は成熟したという錯覚に乗じて
ただ飽き始めていた おままごとに蓋をする
齢を重ねる事を厭う他人を真似て
社会に足並みを揃えんと躍起になる
そうして事を成せば、子供は大人になれる
そんな確証も理も
何処にも無いと言うのに
貴方はまだ“大人である自分”に
固執してしまっているのかい?
いつか歳を重ねきった暁には
あの頃、若かりし頃へ戻りたいと
誰しも一度はごちる事だというのに…
大人なんて、なりたくてなる訳じゃない
子供にも戻りたい時には戻れない
貴方が変わらず貴方であるなら…
記憶の奥へと押し込めた
幼稚だとしても成したい事は
熟し切り、腐り出す前に
己の悔いとならぬ内に
手を付ける事をお勧めしよう。
ー 子供のままで ー
雨の日、傘の中では
人の声はより美しく聴こえる
雨粒に音声の波は反射され
傘の中で共鳴する。
…これは何処で仕入れた知識だったか?
生憎、何処からかは忘れてしまったが
確かな情報には違いなく愛しい者へ
叫びたくなる程の想いを伝えるなら
私は共に傘を差す空間が好ましい。
折角の君から芽吹いた愛なのだから
初心にせっつかれ、幼く叫ぶよりも
確実に 着実に 聞き入れてもらえるよう
その耳元へ口を寄せ、囁き掛けたいと
狡い大人の見本としては
そう 考えてしまうんだよ。
愛に飽和した霧雨の先に
綺麗な月も浮んだならば
私はもう 死んでもいい
なんて、少し遊び心も添えてみよう。
ー 愛を叫ぶ ー
越冬を終え、蛹化から目覚め
草花が揺れる啓蟄の日々の中
明るい色の花々へ口を付けては喜び
白い翅に垂らされた黒い袖紋を
ゆるりゆるりと優雅に振るっている
菜の花畑を漂う白無垢姿の蝶達は
気紛れに花を摘む人の手へ留まり
翅を休め、身支度を整えている
時折、空と草の色を混ぜた様な
優しい色合いの丸い瞳と目が合う
細やかな体毛にも埋もれぬ零れそうな瞳は
人間が纏う宝石にも似た存在感を放っていた。
この春を謳歌する貴婦人や紳士と
先の未来でも、また出逢えますよう…
そして、この美しい翅が
どうか他者に毟られませんよう…
そんな祈りを込めて、近くの花へと
その身をそっと帰したのだった。
ー モンシロチョウ ー
学生の頃、帰路の最中
暑い夏の日に熱中症で倒れかけ
古臭い喫茶店のマスターに助けられた事があった。
そこのマスターは偏屈な人で客を乱雑に扱ってた
私もバイトでもないのによく店を手伝わされたよ。
競馬新聞ばかり読んで昼行燈な人だったが
あの人の珈琲は、どれだけ忙しい日でも
棘の無い爽やかな酸味や後に連なる柔らかな苦味
香り高く立ち昇る湯気一つも揺らぐ事は無かった。
一度、気になって質問した時は人が変わった様に
懇切丁寧に淹れ方を教えてはくれたが…
客に出すのは店主の珈琲だけと頑なに譲らず
私は軽食や片付けだけを手伝わされていた。
忘れられないんだ、カウンター越しのアンタが
憎まれ口の後に続く、あのほろ苦い香りが…
だから、アンタが辞めた後でも
私はがむしゃらに探してしまう。
あの古臭い喫茶店の心地好い空間や
私を呼ぶ声が、ふいに聴こえやしないかって
今でも、ずっとさ。
ー 忘れられない、いつまでも。 ー