ショーウィンドウに飾られた赤いヒールの靴を見ると、いつもあの童話を思い出す。
一度履いたら、ずっと踊り続けることを強要されるあのお話。
足を木こりに切ってもらうまで、どれだけ体が疲れていても足はタップダンスを続けるのだ。
あの話は一体、なにを私たちに伝えたかったのか、おぼろげにしか覚えていない私には全く検討もつかない。
玄関の戸棚に仕舞われているヒールは、元彼が誕生日にくれたものだ。
恋に溺れ、彼をちゃんと見れていなかったのだろうか。
自分の理想を見てしまっていたのだろうか。
後悔はあるとも知れず。
恋を愛をどこかに探して、その夢を醒まさないでくれたらよかったのに。
ずっと、ずっと踊れていたなら
私は幸せだったのかしら
はかない恋だった。
きっと良くないことを言っているのでしょう、
でも言わせてください
あなたも踊りませんか?
時を告げるものと言えば「鐘」であろう。
我らの精神の中に気付かぬ間に植え付けられた「鐘」の音で、切り替える、という習慣。
学校での授業の終始を告げる鐘。
年末年始を告げる鐘。
毎日午前と午後の六時を告げる寺の鐘。
気付かないだけで他にもきっとある。
少し耳を澄まして聴き慣れてしまったその「鐘」の音を今一度心に刻んでみてはいかが?
僕の彼女は気配りができて、用意周到で、僕のことをなんでも分かってくれて、面倒見が良くて、でも甘えたがりな可愛い可愛いヒトだ。
僕の日課は風呂上がりの彼女の髪を丁寧に乾かして、長い髪を櫛でとくこと。
ご飯は日替わりで作って、お風呂を洗うのはじゃんけんで決める。
翌日の予定がお互いに無いときは、一晩中愛し合って、幸せに眠るのだ。
僕はそんな日常に満足していた。
僕も彼女も、この日常が続くことを願っていると思っていた。
『ごめんね、やっぱり飽きちゃった。今までありがとう』
僕が休日にしなければならなくなった仕事を片付けて、さあ帰ろうか、という頃に、ピロリンとLINEの着信音がした。
ロック画面に表示された彼女の名前とその文章が、不思議と僕の目にすんなりと入ってきた。
僕の心に焦りはない。
早く家に帰って確かめなければ、という気持ちも湧かない。
家に帰れば、笑顔で抱きついてくる彼女しか、僕は想像することができないのだ。
家にいざ帰ってみると、明かりはついておらず真っ暗だった。
ただいま、と呟くように溢した言葉を誰も拾ってくれやしない。
彼女の荷物がなくなっていることに愕然としながらも、僕は一人でご飯を作って黙々と食べた。
LINEの一番上に固定している彼女の枠は、相変わらず着信があることを伝える数字が表示されている。
長押しをして何度も確認して、何度もLINEを閉じた。
既読をつけないでいれば、彼女からの連絡はまだ続くのでは無いかと。
既読をつけないでいれば、彼女との繋がりは絶たれないのでは無いかと。
心のどこかで思っている。
ありえないことに気が付きながらも僕は、
僕はLINEをひらけない
僕はLINEを あ けない
私は今、
どの道を進むのがいいか分からない。
歴史には、「もし、……だったら」と仮定して話をすることができる。
今を生きる私には、「もし」なんて存在しない、
いつでも、今この瞬間の選択が、答えになっているのだから。
後悔しても、最悪な結果になってしまっても、
後悔している「今」しかない。
「あのとき、ああすればよかった」
そんなことを思うことさえ、今を過ごすための選択の一つになってしまう。
後悔するのか。
気にせずに次に行くのか。
すべてのことには、自分の意思で考えたことが反映される。
嫌だと心の大半で思っていても、
ほんの少しだけある怠慢がそこから自身を抜け出せさせないのだ。
それは誰にでもあるもの。
自分を責めることはない。
ただ、今や未来を形作ることができるのは、
「今」の私しかいない。
人は言う。
後悔しない選択を。
そんなの分からない。がむしゃらに、根拠なく自分を信じて、停滞したり、進退したりを繰り返しながら、過ごすことが、人生に課せられたものなのだろう。
先は真っ暗で、答えなんて見ることはできないけれど、足元だけ照らされておぼつかない足取りであっても、
自らが作り出した岐路を歩んでいこうじゃないか。
「それでいいです。なんでもいいので適当にしててください」
彼女は拘らない人だった。
人になら誰にでもあるはずの意見を彼女は持っていなかった。どんなことを提案しても彼女自身に関わることは 全て、俺の好きにしてくれ、と任せてきた。
きっとそれは、俺のことを信頼していることの現れではない。
自分を大切にしてないような、誰にも心を許してたまるものか、みたいな一風の入る隙間もなく閉じ切った扉のようだった。
なぜ、どうして彼女はそんな人柄なんだろう。
彼女の「それでいい」以外の言葉を引き出したくてあれこれと話しかけてみることにしたんだ。
毎日話しかけて、うざがられるかもしれないけどいろんなことを質問したんだ。ずっとそっけない、ツンとした感じだった。
友達からは「もう、話しかけてやるなよ」って感度も言われた。俺も話しかけない方がいいかと思いかけたその日に、彼女は初めて笑ったんだ。
「本当に何でもいいの。どんなことでも対応するし、物にこだわりはないからさ」
彼女の軸は柔軟だったんだ。
それはとてもいい良点だとおもう。
それでも俺は彼女が自分から選択してくれるのを待っていた。
彼女に選択してもらいたい、と思い出してから一年が経とうとして、桜の花びらが暖かい風に乗って運ばれてくる季節になった。
「あのさ、」
春は別れの季節。
俺と彼女は違う進路に進むことになる。
会える日は毎日話してたけど、これからはもう会うこともなくなるかもしれない。
「もう話さなくなってもいい?それとも話したい?」
面倒な質問だっただろう。
でも、これが俺の、意気地のない俺のけじめのつけ方だったんだ。
ただの興味本位から始まった会話も積み重ねると、たくさんの宝物になる。
俺は、彼女が好きだ。彼女と出会ってから、知った部分もまだ彼女が教えてくれてない部分だってあるだろう。
俺は、彼女がまだ話したいって言ってくれたなら、この気持ちに区切りをつけないでいれる。
暖かい日差しを背に受け、じんわりと滲む手汗を握りしめながら、彼女の返答を待つ。
彼女の長く綺麗な髪を弄ぶように風が吹く。
彼女の小さな唇が開く。
「……私、まだ話したい、な」
はにかむように笑う彼女は、今まで見たどの時よりもいじらしくて、可愛かった。