近頃、天気が良くない。その叔母の言葉は物静かなリビングから聞こえてきた。試しに畳部屋の窓硝子を細く開けた。しかし雲は多けれど、その殆どが真っ白なものばかりだった。
「叔母さん! 今日はちゃんと晴れてますよ! ほら、あそこなんて真っ青で偉く綺麗だ」
僕は見たものを矢継ぎ早に喋っていた。元々昨日の雨で憂鬱気味だったのが、開放感のある晴れに脳が酸素を堪能しているのが分かる。
一方、畳部屋に入ってきた叔母は顰め面をしていた。
「そう? あの辺りなんか、随分と黒っぽい⋯⋯やだ! 雨になるんじゃないでしょうね⋯⋯」
「ええ、そうかな? でも、もし降っても、きっと小雨だよ」
叔母は疑り深い。性癖の問題か、細かいことに気が引っ張られやすい方だった。もう一度、叔母と硝子窓の隙間越しに空を見つめる。少し前と何も変わらない雲混じりの青空だ。
「ねえ、なんで、そんなに天気を気にするのさ。叔母さん、なんか予定でもあるの?」
僕は呆れ混じりな問い掛けを投げた。窓を閉めると喉がひりついた。麦茶が飲みたい。畳縁を避けて部屋を出ると冷蔵庫へ向かった。叔母もその後をついてきた。
「叔母さんも、麦茶飲む?」
「ええ、あと牛乳も入れて」
「ええ? 牛乳入れるの?」
「別にいいでしょ。貴方が飲むんじゃないんだから、私はそうやって飲むのが好きなのよ」
「はいはい、わかりました⋯⋯でも、本当に飲み切れるんだね? 言っておくけど、残しても僕は飲まないからね!」
「わかったから、早く入れなさいよ。口だけ動かすんじゃないわよ」
そう言いながらも木製の食器棚から叔母と自分のコップを取り出す。ウォーターピッチャーから麦茶をコップに移した。次に叔母の麦茶に牛乳を注ごうとした時だった。
空腹時の腹鳴りのような音がした。もっとも人間が出すような間抜けたものではなかった。天候の変わりを示すものだ。
「やだ! やっぱり雨じゃないのよ!」
「雷かな⋯⋯叔母さん、洗濯物は?」
「外に干しっぱなしよ!」
僕の澄み切った思考は長く続かせてもらえないようだ。リビングの施錠が開かない窓硝子から見える物憂い気な空は、段々と雲行きが怪しくなっていた。
お終い
真唯は礼拝堂と呼ばれる場所に入るのは初めてだった。職員の話では天窓に陽の光が当たるらしい。生憎今日は曇りで、その温もりはなかった。そのせいだろうか。馴染み深くなった白装束が窮屈に感じる。何故こうまで密着サイズにするのか、真唯には理解出来なかった。
「真唯さんは、お祈り今日が初めて?」
「ええ。神様とかは信じてませんけど、祈るのは少し興味があります」
「真唯さんは正直ね」
彼女の名前を真唯は知らない。最初の頃は誰もが彼女の治療を担当すると名乗った。三井。山本。彼女達は親身に真唯と接した。
だからこそ、今の担当医は退屈だった。真唯が望むものを決して与えようとしないからだ。
「──さあ、お祈りの時間ですよ」
白装束の上から手足を押さえつけていたベルトが外される。真唯は軽く指先を曲げた。多少の痺れがあるも、体を動かす支障にまではいかなかった。両腕に力を込めて一気に腰を上げる。
「何分くらい祈るのが普通なんです? 五分? 三十分? それとも一時間近く?」
「そうですね⋯⋯なら、今日は松橋さんが終わりにしたいと思ったタイミングで、終わりにしましょう」
「終わりにしたいタイミング、わかりました」
そこからは職員の喋りは聞こえなくなった。どうやら祈りの時間は口を開かないらしい。真唯は礼拝堂の奥にある台へ歩み出す。その一メートル程前でふと足が重たくなる。
結局それ以上進むのは無理だった。真唯は後ろへ振り返る。
「どうかしましたか?」
職員の声が空間に反響する。真唯は眉唾を飲んで聞くことにした。
「──ここで祈らせることに、意味を感じることあります?」
礼拝堂中のステンドグラスが軋む。外の風が強まるにつれて太陽は更に雲隠れを始める。
「ありますよ。皆さん、ここに来る時と来ない時で顔色が違いますから」
再びガラスに風が当たったらしい。職員が静かに目を細めて仰向いていた。
「大丈夫、松橋さんもきっと肩の力が抜けますよ」
その顔に妙な心地良さを感じた。真唯は白装束の胸元を掌で押さえてみた。微かな震え。血液が静かに全身に送られるための動き。心の深呼吸。
天窓に細い光の筋が通る。真唯は静かに台へと向き直る。膝をつき、両手を合わせ、真唯は光の筋を視線で辿った。
「──私は、許されないことをしたようです。聞いていただけます?」
真唯が口を一度閉じた時だ。雲が晴れ始めた。あれ程までに、風と雲の空気に閉じ込められていた礼拝堂の床にステンドグラスの模様が浮かんだ。そこに真唯の影が伸びていく時。
本当に一瞬だった。彼女の背中に羽が生える。偶然の重なりが生んだもの。神の心情など分からない。
だけれど真唯は天井を見上げる。灰から青と変わった空が映る。誰に言われるでもなく深くお辞儀をして言葉を述べる。
「ママ、ありがとう」
真唯を産んで子宮を失った母親。全てを与えてくれた人。今は戻ることができない腹の中。
「ああ、神よ⋯⋯あたしは生まれなおしたいのです」
あの血肉の温かさに触れたい。真唯は十六の時に、母親の中へ戻ろうとした時のことを祈った。狂言を否定することはない。職員は祈りに手を加えない。
ただその先にある罪に、耳を傾けるため目を瞑るのだった。
『RebeccA』より松橋真唯の話
空覚えの記憶を手繰り寄せたことはあるだろうか。俺はある。小学生の頃、何年時の担任かは忘れたが、クラスメイト全員にある宿題が出された。
その内容は一番古い思い出を作文にするというもの。先に言っておくと、俺が書いたものは担任が眉間に皺を寄せるくらいに、阿呆らしいものだった。
『一羽、『無人島に行くならば、おれは家族の醤油と塩と砂とうを連れていきます』のこの部分で出てくる、醤油と塩と砂糖ってのは?』
『おれの家で飼ってるねこだよ。他に、生がとわさびもいるけど、あいつらはおれのこと噛むから入れない』
ふとここで思い出したが、確かこの時の宿題で生姜と山葵への愚痴を三行以上で書いた気がする。
ただ何を書いたかは覚えていない。最初にも言った通りこれは空覚えの記憶だ。
『──一羽はこいつらのこと大好きなんだな』
自分に都合の悪い部分は既に消えているのだろう。先日旅立った生姜と山葵は、先住猫だったこともあり、醤油と塩と砂糖は暫く元気がなかった。俺もまた同じく、少しだけ寂しいと思った。今になってあの頃を惜しむ姿を、彼らは空から見ているのだろうか。
いや、俺が書いた作文の馬鹿らしさにいつも通り欠伸を描いてるかもしれない。だからあの二匹が好きだったのだと思う。瞼に窓硝子越しの日が当たる。直後に濃いであろう珈琲の香りも添えられる。
「ま、あいつら緤と同じでツンデレだからなー」
「あ?」
突然の俺の発言に、ドリンクバーの方から戻って来た緤が相変わらずの目付きで見下げてくる。それに不快感はない。寧ろ俺の心は弾んでいる。
思い出す限り俺はツンデレが大好きらしい。実際、隣に座った彼もツンデレだから間違いないだろう。
「ねー、緤。無人島行くなら何持ってく?」
「知るかよ、自分で考えろ」
「えー、俺は緤に聞いてるのに」
ともかく好みは変わらないらしい。それを知れただけ今は良しとしよう。そういう事でこの話はお終い。俺は短く心で独り言ちてから、漸くテーブルの珈琲に手を伸ばすのだった。
お終い
『冷たいシンデレラ』より二方一羽の話