力を込めて
大丈夫、大丈夫!
あとはこれまでの頑張りを発揮するだけだよ。
そう言葉をかけてもあなたは下を向いたまま。
いつもより倍の時間をかけて、靴紐を結んでいる。
この扉を開けたら、玄関を跨いだら。
また新しい一日が動き出す。
それが今日はほんの少し特別な意味を持っていて、それがあなたの体に重くのしかかっているみたい。
丸くなった背中をじっと見つめながら、私は昨日までのあなたの姿を思い出す。
家に帰ってきてからも机にかじりついて、遅くまでデスクランプを照らしていたこと。
休憩したらと声をかけても、生返事しか返さないで、納得いくまでそれに向き合い続けたこと。
時にはままならない現状に、一人で涙していたこと。
全部全部、あなたの力だ。
私はすうっと息を吸い込んでから、そしてゆっくりと右手を掲げた。
パァン!
「いった! え、え!?」
もう私が出来るのは、ここまで。
これがどれだけのものになるかわからないけど、
とにかく、今持てる私の全てを注ぎ込んだ。
まだびっくりした顔をしてるあなたに、私はニカッと笑顔を向ける。
そしてもう一度、今度はそっとその背中に手を添えてから、両手をぐっと押し付けた。
力いっぱいの、祈りを込めて。
最近気付いたこと。
それは、過去に起こった「事実」は変えられないけど、その事実に対する「見方」は変えられるということ。
どうしようもない悲しみに浸ったままの過去も、
お腹の底が熱くなるような、怒りに満ちた記憶も、
頭を抱えてしまいそうになるあの日々も。
もちろん全部がきれいにとはいかないだろうけど、
それでも、苦笑いを浮かべながらでも。
今を生きる糧として、もう一度まっさらな目で見つめてみたい。
『過ぎた日を思う』
雨の色がカラフルだったら、
この憂鬱な天気にも、少しは歩み寄れるのかな。
もしそうなったらまずは透明なビニール傘を頭上に掲げて、
内側から上をそっと覗いてみたい。
色とりどりの雨粒がぽつりぽつりと天井を弾く様は、
きっときれいに違いないから。
プリズムの光を受けて歩くのも、たまには悪くないのかも。
どこまでも青々と広がる大地に柔らかい日差しが降り注いでいて、
色彩豊かな花々たちは、嬉しそうにその光を抱きしめている。
目を覚ました少年の目に飛び込んできたのは、そんな光景だった。
起き上がって周りを見渡してみても、どこまでも同じ風景が続いている。
少年は、こんなにきれいな景色を見たのは、はじめてだった。
しばらく辺りを眺めた少年は、今度はすぐそばで咲いている花に顔を近づけてみる。それらはまるで、自分に笑いかけているみたいだ。
少年は胸のあたりに、じわりと何かが広がっていくのを感じた。
その正体は果たして何なのか。
それを確かめるべく、少年はそのまま花をじっと見つめた。
向こうもまた、微笑みを称えながら少年を見つめ返す。
しかし、いくら待っても花が口を開くことはなく、その正体は分からない。
少年は、花の首に手を伸ばし、それを掴んでぐっと上に引き上げる。
花は微笑みを浮かべたまま、事切れてしまった。
少年は何度もその細い首を掴んでは、ぶつりとそれを千切っていく。
一本、二本、三本。
少年の手は止まらなかった。
それと同じように、胸に広がる何かも止まることはなく、どんどんと少年を侵食していった。
そうして黙々と動かしていた手は、しかし。
不意にピタリと動きを止めた。
少年と花の隙間を駆け抜けるようにして、風がサァッと吹き抜けたのだ。
その勢いに圧されて、少年は腕をかざしてぎゅっと目をつむる。
風が過ぎ去ったあと、少年は恐る恐るまぶたを開けてうえを見上げた。
そこには、青い鳥がその羽根をいっぱいに広げて、空に吸い込まれていく様が見えた。
少年はじっと空を見つめる。
気づけばその目からは、一筋の涙がこぼれていた。
たまに、本当にたまーにだけどふとした時に、
“いままでコツコツと貯めてきたお金を、私が今欲しいもの全てにバーっと注ぎ込んで、ぽっくりと逝ってしまいたい”
そんな風に考えてしまうことがある。
目に付いた「欲しい」を色々と我慢して、
お財布のなかで、そして見知らぬどこかで眠っている私のお金。
もしものため、将来のためにとそう短くはない年月をかけて蓄えてきた割と大事なはずのお金。
けれど、「じゃあ実際にそれを全部使ってまで、何が欲しいの?」って聞かれてもなぜだか何にもしっくりこなくて。
結局のところ、私は何かを得たいわけじゃないし、何かに消費したところで代わりに満たされるものはきっと何もない。
多分、単純に、自分自身を放棄してしまいたいだけなのだ。