ドルニエ

Open App
8/23/2023, 11:21:50 AM

 海の底があるのか、ないのか。
 そんなことが争われていた時代。そんなことを俺は夢想する。答を知りようがなかったから、そこになんだって思い描けた。怪異がいた。龍宮城があった。クラーケンやシーサーペントが、とにかく知らないものがいた。
 俺たちの時代ならそれはたとえば宇宙のようなものだ。果てや始まりを計算できても、その目でお目にかかれることはない。本当は何があるのか分からない。
 でも、俺たちはタコのような異星人を思い描けない。巨大昆虫がありえないことだって説明できてしまう。代わりに手に入れたのは硫酸の雨や窒素の海だ。目を、耳を閉ざさなければロマンもへったくれもない。
 だから俺は海に入った。愚か者のふりをして、時代遅れのサルガッソーやアトランティスを叫びながら。
 でも、本当の理由なら隠せたかな。
 ふふ、息ができねえ。身体が重い。さあ、海。弓を引け。牙を剥け。人間に。俺を殺せ。ざまあみやがれ。
 そこらの連中は死んでも灰になるだけ。地球に何も返せない。俺は違うぞ。この身体、誰かがこやしにするんだ。サメか?エビか?プランクトンか?なんだっていいさ。
 だから俺は最後の最後でもっとましになれたんだ。
 でも、ちくしょう。最後の最後まで苦しいな。死ぬのがこんなに苦しかったなんて。そんなことは、計算できないほうがよかったな。
 ――さよならだ。
 

8/21/2023, 9:19:55 PM

 鳥のように、彼らの命は軽かった。
 デノミが繰り返され、野菜スープのほうが大事になった。
 命は銃弾のようなものだった。意思や思いや言葉はさらに安かった。

 だったというのに。

 彼らの、たった数代あとの代理人たちはまったくそんなことが分からないらしい。
 言葉は金で買うものですらなくなったらしい。睨みさえすればどうにでもなるらしい。
 命と生活は数字に置き換えられるらしい。数字に重さなどない。鳥どころか、蛆虫より軽いのだろう。
 未だに、白と黒とには違いがあるらしい。その欲望にすら軽重があるそうだ。
 だったら。
 そんなところに住みたくなどないだろう?
 そんなところに自分の愛し子など生み落とせるものか。
 そんなところにどんなありがたみがある?

 無血革命か、流血の革命か。問うていられるのかい?
 でも、その革命は、きっと市民革命でなければならない。

 サムライの子を殺せ。

8/20/2023, 12:32:29 PM

 僕はその人を本当に諦めるべきなのか、どのくらい考えたのだろう。とても長かったはずだけど、仕事の合間、生活の合間に考えただけのような気もする。
 いわく年齢、いわく良識、いわく年収、いわく生活スタイル。理由はいくらでも考えついた。どれも諦めがたかったけど、捨て去ることで楽になることもたくさん見つかった。
 思えば、最初に感じていた火のような熱は本当に最初だけだったかもしれない。いや、それでもその人との時間は僕の胸から他の何をも追いやり続けたし、その人に触れるときはいつだって胸が苦しいほどだった。虚ろであり充足していた。愛着があり、疎ましかった。その矛盾がおそらく僕をその人に結びつけていたのだろう。
 だけど、僕はこの関係を精算することに決めた。いつまでもこんなでは、お互いのためにならない。あの人だっていつまでも若いわけじゃない。いつまでも自由でいていいわけじゃない。...とてつもなく癪な尺度だな。
 いつもなら勝手に鍵を開けて入るのだけど、今日はチャイムを鳴らす。もう、明日からはただの知人なのだから、このくらいできなくてどうする。あの人は不思議そうに扉を開け、僕を中に導く。どうしたのか、鍵をなくしたのかと困惑しながら。僕は鞄の中のこの部屋の鍵を握りしめる。来るのなら言ってほしいとあの人は冷蔵庫から僕の好きなチューハイを取りながら言う。言ってくれれば何か用意したのに、と。
 そんなことを言われたら、切り出しにくくなるじゃないか。やっぱり僕はこの人から離れたくない。ずっとここにいたいと思ってしまう。いいじゃないか。まだ切り出していないのだし、考えなかったことにしようと、僕の中の僕が告げる。だって僕はまだこの人を好きじゃないかと。嘘をつくなよと。
「ああ」
 僕は缶を傾けて息をつく。胸が苦しい。
「駄目だ。俺は――」

 やっぱり君には絶対に勝てない。嘘つきの誹りを受けてでも、ここにいたい。

 僕はまた耐えきれなくなって、泣きながらこの人にすがった。

8/14/2023, 12:06:57 PM

 自転車に乗って、どこまで行こう?
 歩きでは遠い、町の反対側まで?それとも河のむこうまで?
 自転車に乗れるようになったとき、世界が一気に広がった気がした。いや、実際広がったのだ。
 家族に頼めば車で色々なところに連れて行ってくれたけど、それは自分で行くわけじゃない。自分で運転するのじゃない。寄り道も好きにできない。だから窮屈だった。
 だからたくさん練習した。たくさん転んでたくさん血を流した。すごく痛かった。
 けど、もうそんな思いをすることはあんまりない。
 車や電車には及ばなくても、自分で、遠くまで行けるようになったのだ。

 それが15年前。たくさん漕いだ。でも何度も転んだ。目茶苦茶痛い思いもした。
 でも分かった。山のむこうにはどうやっても行けない。そこまで頑張るのなら、不自由でも電車で充分だと学んだ。
 そして今日。納車の日だ。
 10万キロも走った、ちょっとがたのきている軽だ。
 でも、いずれ。金さえあれば、もっといい車に乗れるだろう。だから今はこれで充分だ。――話がそれたな。
 そういうわけで、ただとはいかないが、自分で、山のむこう、自転車ではとても行けない遠くの街まで、寄り道もなんでも勝手にできる。雨に降られても濡れることもない。雪が降ってもそこまで困らない。

 でも、ちょっと淋しいかな。自分の力で漕ぐって結構楽しいんだよ。
 だから。
 また、きっと乗るからな。何代目かの俺の自転車。

8/12/2023, 9:35:55 PM

 奴の引く曲には引き込まれることもあるが、合わないときは本当に合わない。異常なほど合わない。後ろから頭をこづいてやめさせたくなるほどだ。
 巧いとか下手とか、そういうのは今ひとつ分からない。一貫していない。すべてが噛みあっているときもあれば、ちぐはぐで聴いていて面白くないこともある。要は素人だ。だから酒場で引くという話を聞いたときには、他人ごとながら心配になる。
 ただ、奴の曲には心が動く。ときに激しく狂しく刹那的に、ときに普段なら振り返りもしない悔しさ、理不尽さ、そういうものを引き出されてひどく心をかき乱される。らしくないほど甘く苦しくなる曲を奏でられたときは、二度と引くなと殴ってやった。また心が凪いで何もかも許せそうな気持ちにさせられることもあるし、尽きない闘争心をかき立ててくれることもある。そういうことが彼や彼の故郷の連中にはできるのだそうだ。理屈も技術も分からないが。
 ああ、引いている。軽妙で酒の進むような曲。私に飲みに来いと言っているのだろうか。自分は弱いくせに生意気な。だが、それもまた可愛いところだ。いいだろう、とごちて立ち上がる。
 さて、今日はどんな目に合わせてやろうか。

Next