朝か、昼か、宵の口か、真夜中か、一体いつ目覚めるのやら。いや、目が覚めた時が朝なのだ。そう開き直った青年もいたか。まあどうだっていいか。
ともかく、目覚めの時はわからない。淡雪のような?汚泥のような?屈折した竹のような?大きな小豆のような、眠り。――最後のはつまらないか。
海の底ように重く、暗く、平穏で、それでも荒唐無稽な世界から。外のことはわからない。だってそうじゃないか、音も、光も、熱もどちらのものかわからず、外のコトと、内の情景とが渾然一体となって奇妙なモアレを描くから。
さて、そろそろ目醒めの兆しか。眠るのも疲れるもんな。
さあ、目醒めの時だ。それにしたって首が痛い。
「****!いい加減起きろ」
ああ、今日も鬱陶しい姉さんの声だ。
「あと2分」
「――119、120。ほら、起きな」
結局律儀に2分カウントしてくれた声に観念して目を開けると、頭の上に床があった。
その病室は異常にきれいだった。
ごみも出ない。布団を直してやる必要もない。食事もこぼさないから、手のかかる要素はなにひとつなかった。
ただし普通の患者ではない。
ナースたちはその病室に関わるのを嫌がるか不思議がるかのどちらかだ。リネン交換の必要があるのか、などと大抵の新人は不思議がる。ただ、交換のときにはきちんと声かけするようにと言われるから、納得はしないものの、一応言われたようにしている。ただししなくても困ったことはない。手のかからない患者なのだ。
看護師さん、あの部屋の人はなんで入院してるんだい?と訊く患者への答は一応ある。でも、実は誰もそうは思っていなかった。
神様か、妖怪か、座敷わらしか。噂は散発的だ。医院長の気が狂れてるなんてのまである。
もう分かったかな。その患者、姿がないんだ。
日差しはちっとも優しくない。無遠慮に肌を焼き、目を貫く。
雪もあんまり優しくない。舞っているだけなら美しいが、積もるのは歓迎できない。晴れ渡った冬の陽に輝く光だけがほしい。
曇りもそんなに好きじゃない。でも、晴れのように痛くないし、雨のように鬱陶しくない。苛烈な吹雪は恐ろしい。ただそれでも、平穏なばかりで面白みはない。
窓のむこうに木の葉が舞う。風が強いのか。がたがたと窓が鳴るから、きっとそうなんだろう。ジャズよりクラシックの似合うような男が、それでも優雅にコーヒーすする。そのうち分かるよ、と言われ続けていたら、こんな歳になってたよ――そう言って外国の新聞をめくる。でも私は知っている。彼にその言葉は読めてはいないと。それでもその所作は優雅でさまになっているから面白い。私は氷の浮いたコーヒーを一口。やはりアイスに限る。それはともかくね、と男が笑う。悪戯でも思いついたか。
明日の天気、どうなると思う?賭けてみようじゃないか――
もちろん正解はふたりとも聞いている。だってラジオがかかっているんだから。それでも私はその賭けにのる。そして彼は、私が何に賭けるかも察している。結果ももちろん分かってる。でも、だって、だから面白いんじゃないか、こんなゲーム。
「雨と雷。晴れは0%よ」
まっとうだからじゃない。
Fallen. Fallen. Fall.
畜生、いかれてるからじゃねぇ。ただ恥ずかしいからだ。半端に堕落してるからだ。ださいからだ。
堕落なんてできやしねぇ。精々が不誠実な堕落。堕落と呼べない堕落。
畜生、畜生って、悔しがるふりをして、クールなふりをして、虚無的なふりをして。だから人前で堕落できない。傲慢。クズ。カス。
弱いのですらない、狡いのだ。卑屈なのだ。善人ぶっているのだ。なぜって。
F*ck. F*ck. **ck. F**k. *uck. Fu*k. F***.****.****.****!****.****.
ああ、こんな馬鹿、さっさと滅べばいいのに!
自分で選びたかったのさ。リュートを背負った青年は杖をくるりと回した。不便だろ、と問うと、まあね――と彼は椅子に収まり、水出しはありますか、とウェイターに訊いて、数度のやり取りの末にじゃあそれで、と話を締めた。
だからって自分で潰すことはないだろう、と言うと、そうだったかもね、となんてことのないように彼は応えた。ただ、おかげでつまらないことを訊かれないし、好き勝手言ってもあんまり怒られないよ、今は昔より歩きやすいしね、と続けた。それにしたって、と思う。あまりにつり合わないじゃないか。
まあ観念的というか、得手勝手な言い草だろ、澄みきった瞳って。だから潰したのさ、俺は。それにさ。そう言って彼はサングラスを外す。初めて見たわけじゃないけど、やっぱり怖い。
――本当は見える、って言ったら君はどうする?