窓を叩くと、こびりついた灰色の砂が落ちる。外はぼんやりと明るい。太陽は昇っているらしい。
「今日はいいお天気なんだね」
ベッドに横たわったまま、枕の上で首だけ動かして、貴方は僕がいる窓の方を見る。
「はい、博士。……ご気分はいかがですか?」
「……起き上がるのは無理かな」
「ジップゼリーをお持ちします。褥瘡防止のための体位交換は一時間おきに設定済みです」
「ありがとう」
「仕事ですから」
僕は答えると、食糧が置かれている倉庫へ向かう。
博士は、地球に残った最後の知的生命体だ。ここはだいぶ前に砂に覆われて、生き物が住める環境ではなくなってしまった。大体の人類は当時の科学技術で他惑星に移住したけど、博士は一人で残って、一人暮らしに三年で飽きて、僕を作った。
「一人でも平気だと思ったんだけど、ダメだったね」
苦笑いする博士に、僕は尋ねた。
「お友達や、家族や、恋人は、博士といたいと言わなかったんですか」
そう言うと、博士は、いつもとは違う歯切れの悪い口調で答えた。
「あー、うん、いなかったんだ、そういうの」
視線が泳いでいる。まずいことを聞いたかもしれない。
「……僕は、博士の何になるべきでしょうか」
博士が僕に乗せてくれた知能は高度なものだったから、僕は望まれれば、望まれた役割をこなすための言動は取れるはずだった。
でも、博士は首を横に振った。
「君は君のままでいい。僕が作った同居人ロボット。それで十分だよ」
「そうですか」
僕は頷いて、博士の答えを受け入れた。愚問だったかもしれないな、と自分の問いを振り返る。友達、家族、恋人が欲しければ、きっと博士は最初から僕をそう振る舞うように設定したはずだ。そうしなかったことには、きっと何か意図があるんだろう。その意図が何なのか、触れることは難しそうだけれど。
人間の体と機械の体には似ているところがあって、動かしすぎても動かさなさすぎても壊れる。ベッドの上で動けない博士に寝返りを打たせながら、腕にかける負荷が、また下がったことに気づいた。
「……世話をかけるね」
博士が弱々しく笑う。僕は首を横に振る。
「仕事ですから」
「……たぶん、もうすぐ、こんな気の滅入るようなこと、続けなくて良くなるんだよ」
枕カバーにできた皺に唇を埋めるようにしながら、博士が呟いて目を閉じる。
「どういう意味ですか」
問い返しても返事は戻ってこない。バイタルサインをチェックすると、穏やかな波がビジョンに映しだされる。眠ってるだけみたいだ。
僕の心臓をこの人にあげることができたら、この人は、もう一度ベッドから起き上がれるんだろうか、と思う。ベッドから起き上がって、ここを出て、他の誰かに会えるような星まで移動できるんだろうか、と。
一度提案したことがあるが、博士はいつかみたいな曖昧な笑みで、ゆっくり首を振って拒否した。
「君の心臓は君だけのものだ。人間同士でも移植は難しい。……みんな、自分だけの心臓を抱えて生きてる」
博士の心臓はもうすぐ壊れるんだろう、と思う。そうしたら、僕はここで一人になる。博士が三年しか耐えられなかった、一人ぼっち。僕には博士を作ることができない。博士の心臓を動かし続けることもできない。
そうなった時どうすればいいのか博士に聞きたいんだけど、怖くてできない。博士は答えを知ってるはずだけど、教えてくれない。
「ほんとにひどいです、博士。……そんなだから、友達がいないんです」
眠ってしまった博士を背に、僕は呟く。機械仕掛けの心臓が、ぎゅう、とよくわからない音を立てる。これが痛いということだろうか、と思う。
好きの反対は、嫌いじゃなくて無関心なんだよ、と誰かが言った。
呆然と病室にいる。ゆっくりと日が傾いていく。
お前は静かにベッドに横たわっている。あんなにうるさかったくせに、俺より早く寝たことなんかなかったくせに、無防備に目を閉じた顔を晒している。あちこちに包帯が巻かれている。顔にはガーゼが貼られている。白くて清潔な布。口には太いホースみたいなのが突っ込まれていて、胸が異様に規則正しく上下していて、横には黒い画面に緑の稲妻みたいな線が這う、謎の計器が置いてある。
「なんで俺しか見舞いがいねえんだよ」
毒づきながら、俺は買ってきたプリンを自分で食う。
「おれお前しか友達いねーもん」
と、いつか情けない顔で笑っていたお前を思い出す。
「勝手に友達ヅラするな、腐れ縁だよお前なんか」
と邪険に返してもお前はへらへらと笑うばかりで、その顔にイラついた。
お前のことなんか全然好きじゃない。
はっきり言って迷惑してる。
電話が鳴るたびに、SNSの通知が来るたびに、心臓が跳ねる。ごめん、見舞い来てくれたんだって? って、相変わらずの情けない声で、頼りない顔で笑うお前を期待して、裏切られて、その度心臓が痛くなる。
お前はもう目を覚まさないかもしれないと言われた。あの日を最後に時間が進まなくなったお前の記憶、俺の世界をもう邪魔してこないお前のことを考えると、清々していいはずなのに、身の置き所がどこにもなくて途方に暮れる。
俺をこんな目に遭わせるお前のことは、本当に、心底、嫌いだと思う。
早く詫びに来い。
俺が今までこの病室で虚しく食ったプリンの分だけ詫びてみせろ。
うららかな春の早朝である。
8階建てのワンルームマンション。大通りに面したベランダで、青年は下を見下ろしながら溜息をついた。
「……どうしたものかな」
眼下の通りを挟んで向こうには公園があって、そこを囲むように植えられた桜はじわじわと蕾を綻ばせ始めている。
――こんなはずじゃなかったのに。
はー、と深い溜息をついて、呼吸してからしまった、と思う。冬とは違うぬるい空気と、花の香りの混じる風をまともに吸い込んでしまった。このなんとも言えない匂いが、青年は好きで、それでいて苦手だった。
ひとを、殺したくなるからだ。
青年は殺人を犯している。それも、一件だけではない。
怨みが動機ではない。むしろ逆だ。彼は気に入った人間を殺めては、その体の一部を手元に置く癖があった。この癖のせいで同じ場所に長居はできない。
被害者たちと面識はない。こうやって高層階から獲物を物色し、「好ましい」と思ったターゲットの何人かを毎日観察して、……この人が、いつか自分の目の前に永久に現れなくなったら嫌だな、と思った人を襲う。青年は人好きのする容貌と清潔感の持ち主で、だから、困った顔で声をかければ大抵の被害者はほいほいついてきた。両親のことは大嫌いだったが、そういう造形をもたらしてくれたことについて、青年は感謝していた。
いつもは、1年経たずにこの「癖」を暴走させて、新しく増えた「同居人」といっしょに引っ越すことを繰り返していた。なのに、このマンションには気づけば2年暮らそうとしている。
近くに、彼女が住んでいるからだ。
彼女はおそらくこのあたりに住む少女で、毎朝この家の前を通る。この近くにある高校の制服を着ている。学年や年齢はわからない。名前も知らない。いつものことだ。青年は被害者の名前と年齢を、引っ越した後ニュースで知る。
もう随分前に青年は彼女を唯一のターゲットとして絞り込んだ。しかし――ターゲットが目の前に二度と現れない恐怖がなけなしの自制心をあっさり叩き壊して犯行に及ぶ、いつもの波が、延々とやってこなかった。
毎朝、タバコを吸うふりをしながら、普通の子よりも早く登校していく彼女を見送るのが日課と化している。背中に通学用リュックと竹刀を背負って足早に歩いて行く彼女を眺めて、青年はしばらく不味い煙を吸い込むのを忘れる。
殺すのが惜しい、と思ったのは初めてのことだった。毎朝毎朝、目の前を通過していく彼女が視界から消えてしまうことの方が嫌だった。動かない彼女の一部を手元に置いて一生愛で続けるのはきっと楽しい。楽しいが――それまでだ。二度と彼女の軽快な足音は聞けない。毎朝時報みたいに同じ時間に、同じ歩調で歩いていく彼女を視界の端に捉えて心を躍らせることは二度とできない。
そろそろ捕まるのかもしれない、と思う。
周りを警察と思しき人間が嗅ぎ回っている。引っ越した方がいいと頭ではわかっている。この場所で何もせずに済んでいるうちに行方をくらますべきだ。……でも、そうしたら彼女が歩く姿は二度と見られないわけで。
「……君が僕を止めてくれるのかな」
遠ざかっていく彼女の背中を眺めながら、青年はぽつり、と溢す。