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 うららかな春の早朝である。
 8階建てのワンルームマンション。大通りに面したベランダで、青年は下を見下ろしながら溜息をついた。
「……どうしたものかな」
 眼下の通りを挟んで向こうには公園があって、そこを囲むように植えられた桜はじわじわと蕾を綻ばせ始めている。
――こんなはずじゃなかったのに。
 はー、と深い溜息をついて、呼吸してからしまった、と思う。冬とは違うぬるい空気と、花の香りの混じる風をまともに吸い込んでしまった。このなんとも言えない匂いが、青年は好きで、それでいて苦手だった。
 ひとを、殺したくなるからだ。

 青年は殺人を犯している。それも、一件だけではない。
 怨みが動機ではない。むしろ逆だ。彼は気に入った人間を殺めては、その体の一部を手元に置く癖があった。この癖のせいで同じ場所に長居はできない。
 被害者たちと面識はない。こうやって高層階から獲物を物色し、「好ましい」と思ったターゲットの何人かを毎日観察して、……この人が、いつか自分の目の前に永久に現れなくなったら嫌だな、と思った人を襲う。青年は人好きのする容貌と清潔感の持ち主で、だから、困った顔で声をかければ大抵の被害者はほいほいついてきた。両親のことは大嫌いだったが、そういう造形をもたらしてくれたことについて、青年は感謝していた。
 いつもは、1年経たずにこの「癖」を暴走させて、新しく増えた「同居人」といっしょに引っ越すことを繰り返していた。なのに、このマンションには気づけば2年暮らそうとしている。

 近くに、彼女が住んでいるからだ。

 彼女はおそらくこのあたりに住む少女で、毎朝この家の前を通る。この近くにある高校の制服を着ている。学年や年齢はわからない。名前も知らない。いつものことだ。青年は被害者の名前と年齢を、引っ越した後ニュースで知る。
 もう随分前に青年は彼女を唯一のターゲットとして絞り込んだ。しかし――ターゲットが目の前に二度と現れない恐怖がなけなしの自制心をあっさり叩き壊して犯行に及ぶ、いつもの波が、延々とやってこなかった。
 毎朝、タバコを吸うふりをしながら、普通の子よりも早く登校していく彼女を見送るのが日課と化している。背中に通学用リュックと竹刀を背負って足早に歩いて行く彼女を眺めて、青年はしばらく不味い煙を吸い込むのを忘れる。

 殺すのが惜しい、と思ったのは初めてのことだった。毎朝毎朝、目の前を通過していく彼女が視界から消えてしまうことの方が嫌だった。動かない彼女の一部を手元に置いて一生愛で続けるのはきっと楽しい。楽しいが――それまでだ。二度と彼女の軽快な足音は聞けない。毎朝時報みたいに同じ時間に、同じ歩調で歩いていく彼女を視界の端に捉えて心を躍らせることは二度とできない。

 そろそろ捕まるのかもしれない、と思う。
 周りを警察と思しき人間が嗅ぎ回っている。引っ越した方がいいと頭ではわかっている。この場所で何もせずに済んでいるうちに行方をくらますべきだ。……でも、そうしたら彼女が歩く姿は二度と見られないわけで。
「……君が僕を止めてくれるのかな」
 遠ざかっていく彼女の背中を眺めながら、青年はぽつり、と溢す。

3/23/2023, 8:53:16 PM