絨毯のように広がる小麦色が、風に吹かれて誇らし気に揺れる。
空は雲一つない秋空で、高く高く突き抜けた青を鳥が優雅に旋回している。
「ここにおりましたか、ウォーカー団長」
軍支給の軍服を見に纏い、気難しそうな眼鏡の男—ジャンが声をかけた。
軍服をわざわざ脱いで来たというのに、目敏い奴め。ウォーカーは心の中で独り言つ。
「見事ですね。今年は実入りがいい」
眼下に広がる小麦畑に目を細め、ジャンが嬉しそうに言う。
「これなら、民草たちもなんとか冬越え出来ますでしょう」
「俺達が無駄遣いしなけりゃな」
「まさか。暫くは北も攻めては来ますまい」
どうだか。ウォーカーは苦虫を噛んだ。
北の鋼鉄国の侵攻は、年々苛烈さを増している。あちらは冬が厳しい。こちらの資源は喉から手が出る程羨むものだろう。
今年は兎も角、春先にはあちらも仕掛けてくるやもしれない。
「屯田をするかもしれんぞ」
「ははは。ともすれば奴等は堕ちかけも同然」
「”我が国”が、だ」
まさか!と困惑の声を上げるジャンを尻目に、ウォーカーは畑へ目を遣る。
ちらほらと一家総出で仲睦まじく刈り入れをしている。全身を使って穂を抱える子供がキャアと笑う。
「”あの方”に限って、そんな」
「年寄り連中はどうだろうね」
戦が長引けばそれだけ国は飢える。民草を想うのであれば、殊更早急に終わらせねばならぬ。
だが議場のお上達は卓上でしか戦をしない。この光景を誰一人見ずに、盤面の駒を手慰みする。
理解は出来るが、納得はいかない。いつまでも自分は青臭いままだ。
(やってられんな、全く)
臍を噛むウォーカーを、よく通る声が呼んだ。
「ウォーカー大佐!はあ。やっと見つけた。至急招集せよとのこと」
「ほらみろ、何かあるぞ」
顔を顰めるジャンにそう言うと、ウォーカーは伝令の後を追い踵を返し歩き出す。
横目で美しい田園風景を一瞥し、忌々しく吐いた。
「いつまで持つかね、この光景が」
≪秋晴れ≫
母はあまり私を褒めなかった。
褒め下手だったのか、抱き締めたり頭を撫でることはあまりなかった。
代わりに小言が多かった。私は几帳面では無かったから、ほぼ毎日小さなことで叱られていた。
あれは忘れもしない。小学3年生のとき。
絵を描くのが好きだった私は、祖父母からクレヨンをプレゼントされた。外国製の匂いのきつい、100色入りのもの。
その中の群青色が私は大好きだった。弟に取られまいと、こっそりと持ち歩くほど、その色が大好きだった。
ある時、図工の時間に先生が言った。
「魚を描きましょう。好きな色で、好きな模様で」と。
私は胸が高鳴った。あの群青色を自慢できる絶好のチャンスだと。
皆が12色クレヨンで色を塗る中、私は無我夢中で群青色で魚を塗った。模様なんてものはなく、大好きな群青色ただ一色で。
仕上がった私の魚は、それはもう美しい群青色だった。誇らしかった。
だが私はすぐに後悔した。授業参観があったのだ。
父兄たちが掲示板に貼られた子供達の作品を見た。皆、ピンクやオレンジとカラフルな魚を泳がせていた。
そんな中、黒黒しく光る群青色の魚が一匹だけ泳いでいた。
一匹だけ浮いていた。
授業参観後、私は母の元に行くのが恥ずかしかった。私だけ真っ青な魚だったからだ。
母は私が指差した魚を見て、困ったように笑った。
「いいじゃん。一番目立ってて。探しやすいよ」
それ以上に褒められたこともあったはず。なのに今でも鮮やかにその日のことを覚えている。
あの時「もっとカラフルに塗ればよかったのに」なんて言われていたら、きっと私はデザインの道には進まなかっただろう。
この日のことはきっと忘れない。
≪忘れたくても忘れられない≫
カーテンがオーロラのようにたなびく。
奥ゆかしささえ感じられる陽光は、スポットライトのように埃たちのダンスを照らしている。
瞼が眠気に抗えずゆっくりと上下する。まるで紳士がする拍手みたく尊大だ。
だがそんな微睡みを引き裂くように、ジャッと鳴きながらカーテンが左右へ開かれる。
容赦無く俺の顔を陽の光が照らす。まるで大怪盗がするみたいに俺は手で顔を覆った。
「いつまで寝てんのさ。そろそろ起きろー」
「まぶし……」
「天気いいよ。買い物行こ」
カーテンを避けながら彼女が掃き出し窓を開ける。心地よい風がカーテンをふわりと浮かせた。
振り向き微笑む彼女が背に光を浴びる。その姿がまるで後光の差す聖母のような—。
「……ぅえっくし!」
俺のくしゃみで埃たちが逃げ惑うようにブワリと舞う。
「風邪?」
「いや、急に眩しかったから…」
俺は鼻を啜りながら答える。眩しそうに顔を顰める俺に、彼女はハッとした表情をする。
「”光くしゃみ反射”だ…!」
「なんだそれ」
「太陽見るとくしゃみ出るやつ。知らない?」
嬉しそうに言う彼女に俺は呆れる。てっきり謝られるもんだと思っていたのに。しかし嬉々として蘊蓄を語る彼女に、俺は苦笑しベッドから起き上がる。
いつもそうだ。結局その笑顔に絆されるんだ。
やわらかな光が二人を包む午前九時。俺たちの一日がまた始まる。
≪やわらかな光≫
パチパチと心地よい音が小さく聞こえる。
俺は火から少し目を逸らし、背伸びをして溜息を一つ吐いた。少しばかり冷たくなった夜風が、遠くから虫の音を運んでくる。すっかり日の暮れた空には、小さな煌めきが疎に見えた。
この時期特有の、冷んやりとした柔らかなヴェールのような空気が、袖口からするりと入り込む。その冷たさがこの身を強張らせ「ああ、秋が来たんだ」と実感させた。
そんな感傷的な心とは裏腹に、先程から鋭い眼差しが俺の背を捉えていた。俺は努めて無関心な振りをして、残りの作業を淡々と進めた。
決して振り返ってはならない。決して視線を合わせてはならない。何故ならば。
「あっ!こら!」
一度隙を見せれば”奴”はそれを見逃さない。軽やかな身のこなしで獲物を奪い、素早く姿を眩ませた。
木のウロにも似た奴の住処を覗き込み、俺は情けない声で呼びかける。
「さっきエサやったじゃん…」
香ばしく焼き上がった俺の夕飯—一尾298円の秋刀魚に旨そうに奴は齧り付いた。
「にゃあん」
満足気にひと鳴き。それに呼応し俺の腹もひと鳴き。
キッチンには焦げ付いた空の魚焼きグリルと、電子音をかき鳴らし炊き上がりを知らせる炊飯器。
「いや、俺の夕飯なのよそれ…」
秋も深まる夜長。菜箸と空の皿を交互に眺め、俺は深い深い溜息をつく。
粗方満足したのか、彼女の寝ぐらには無惨に食い散らかされた秋刀魚が横たわっている。恨めしそうな白い目と視線が合い、俺はまた溜息ひとつ。
その横で顔を洗いながら彼女がまたひと鳴き。その目は既に穏やかで、俺を見るとゴロゴロと喉を鳴らしゆっくりと瞬きした。
≪鋭い眼差し≫