『不条理』
あなたは明日、血を吐いて病院に運ばれる。
あなたは明後日、胃カメラを飲まされて、無限に吐いている苦痛に耐えながら検査をする。
あなたは三日後、胃がんの可能性を医師に指摘される。
あなたは一週間後、その腫瘍が悪性である事が、生理検査により確定する。
あなたは二週間後、ステージ3の胃癌を摘出する手術を受ける事になる。
あなたは二週間後、麻酔で眠ったまま、目を覚まさずに生涯を終える。
そんなこと、自分には起こらないと思うだろうか?
でも確実に、誰かの人生で、訪れうる出来事だ。
私たちはそんな不運が自分や家族、友人、恋人に降りかからないことを祈りながら、日々を生きている。
だけど不条理の趣味は、祈りを踏み潰す事。
今日もどこかで、救急車のサイレンが、遠く響いている。
『泣かないよ』
「ごめんなさい。
ママ、パパ、ごめんなさい。
泣いてごめんなさい。
うるさくてごめんなさい。
ママを怒らせてごめんなさい。
パパを怒らせてごめんなさい。
もう泣かないよ。
いい子になったから。
もううるさくないよ。
ずっと静かにしてる、から。
だから、お母さん、お父さん、帰ってきて
お腹すいたよ。
いつになったら、帰ってくるの?
もう泣かないから 。
だからもう怒らないで。
叩かないで。蹴らないで。
帰ってきて。
ママ、パパ、だいすきだよ」
それが、iPadに録音されていた、宮崎優香ちゃんの最後の言葉だった。
1ヶ月間。
ゴミ屋敷の中に放置されていた優香ちゃんは、ひとりぼっちで、この世を去っていた。
死因は栄養失調。
腐敗しかけた死体が発見された一週間後、別のアパートで普通に生活を送っていた35歳の男性と28歳の女性が、保護責任者遺棄致死罪に問われ、逮捕された。
4歳で孤独死を迎えた優香ちゃんが、最後に残した両親へのメッセージは、SNSを通じて日本中に広まった。
『怖がり』
生きるって、怖がる事だと思うの。
だってね、何も怖がらない人は、死んじゃうから。
高い所を怖がらない人は、高いところに登っちゃう。
暗闇を怖がらない人は、暗闇に入っちゃう。
蛇を怖がらない人は、蛇に近付いちゃう。
ビビりな性格は、よく馬鹿にされたり、笑われたりするけれど。
だけど、ビビりだからこそ、大切な命を守れる
勇気を持たないと手に入らないものもあるけれど。
怖がりというのは、大切なものを守る才能を、あなたが誰よりも持っている証。
今はまだ、色々なことが怖くて、何もできないかもしれないけれど。
生き続けていれば、怖がりの精度が上がって、本当に怖い事と、意外と大丈夫な事が判別できるようになるはず。
だからね、たくさん怖がって大丈夫。
それは、いつかきっと。
あなたの生きる知恵になるから。
『星が溢れる』
俺ほどバスケが上手い奴はいない。
高校時代はインターハイ優勝と得点王の表彰に輝き、一躍スター選手として名を馳せた。
大学に進んでも変わらない。
俺のドリブルを止められる奴はいなかった。
俺のシュートはどこからでもネットを揺らした。
大学1年生でスタメンとして、インカレの優勝も果たした。
当然、気付く。
俺は稀代の大天才なのだと。
更にプレイスタイルも攻撃的で絵になる速攻性。
俺は紛れもなく、本物のスターだった。
そして、NBAへの挑戦を決意し、アメリカへ飛んだ。
ベンチにも入れなかった。
意味が、分からなかった。
自分がベンチにすら入れなかった事に、対してではない。
目の前で繰り広げられる、本物の超新星たちによる、異次元なまでの試合展開に対してだ。
あまりにも自分の理解と、能力の限界を遥かに超えていた。
無理だ。勝てない。勝てるわけが無い。
俺とは、生物が違いすぎる
当然気付く。
俺は本物のスターでは無かったのだと。
その2週間後。
俺は日本に帰国してプロチームに入り、その年の国内リーグ得点王に耀いた。
「安らかな瞳」
愛犬家のおばさんが、大嫌いだ。
隣に住んでいる井上さんは、合計で8匹も犬を飼っている。
トイプードルを筆頭に、チワワ、マルチーズ、ポメラニアンと、かわいい小型犬が全てを占めていた。
8匹全員が服を着せられており、そもそもそれが服という概念である事すら理解せず、何となく温かい感覚に喜びを感じている、惨めなペット達に、いつも哀れみを禁じ得ない。
私は、この井上直美という40代のおばさんが、どうにも受け入れ難いのだ。
理由は、彼女の目にある。
最初は感じの良い、優しげな人だと思った。
愛犬を散歩させ、愛犬の写真を見せながら語る井上さんの目は、なんとも優しく、穏やかで、安らかな瞳をしていたからだ。
本当に、犬の事を愛しているんだな。
そう思っていた。
あの光景を、見るまでは。
それはとある夜の事だった。
夜に友達と話しながらコンビニに向かっていると、井上さんが3匹の犬を散歩させているのを、見かけた。
その中の一匹、名前をモカちゃんという小さく可愛いチワワが、散歩が嫌になったのか、歩くのを辞めていたのだ。
他の二匹は進もうとするが、モカちゃんはその場に立ち止まり、意地でも動こうとしない。
その瞬間だ。
グイッ!!
と井上さんがモカちゃんを繋ぐリードを、力強く、乱暴に引っ張りあげたのだ。
モカちゃんは苦しそうな顔をして、小さな呻き声と共に、無理やりに引きずられる。
そして、言う事を聞かないモカちゃんに向ける井上さんの瞳は、あまりにも冷徹に怒りの揺らぎを宿していて。
普段のあの安らかで穏やかな瞳とは違う、上位者の不服が、あまりにも露骨に放たれていた。
あぁ、そうか。
これが、愛玩動物なのか。
これが、ペットなのか。
井上さんは犬という生物を愛している訳ではない。
もし彼女が本当に犬を愛しているのならば、歩きたくないチワワを引きずり、無理やり歩かせる事などしないだろう。
翌日。
私は通りで井上さんと出会った。
井上さんはモカちゃんを抱いて撫でながら、あの安らかな瞳で、私にモカちゃんへの愛情を語ったのだった。