「安らかな瞳」
愛犬家のおばさんが、大嫌いだ。
隣に住んでいる井上さんは、合計で8匹も犬を飼っている。
トイプードルを筆頭に、チワワ、マルチーズ、ポメラニアンと、かわいい小型犬が全てを占めていた。
8匹全員が服を着せられており、そもそもそれが服という概念である事すら理解せず、何となく温かい感覚に喜びを感じている、惨めなペット達に、いつも哀れみを禁じ得ない。
私は、この井上直美という40代のおばさんが、どうにも受け入れ難いのだ。
理由は、彼女の目にある。
最初は感じの良い、優しげな人だと思った。
愛犬を散歩させ、愛犬の写真を見せながら語る井上さんの目は、なんとも優しく、穏やかで、安らかな瞳をしていたからだ。
本当に、犬の事を愛しているんだな。
そう思っていた。
あの光景を、見るまでは。
それはとある夜の事だった。
夜に友達と話しながらコンビニに向かっていると、井上さんが3匹の犬を散歩させているのを、見かけた。
その中の一匹、名前をモカちゃんという小さく可愛いチワワが、散歩が嫌になったのか、歩くのを辞めていたのだ。
他の二匹は進もうとするが、モカちゃんはその場に立ち止まり、意地でも動こうとしない。
その瞬間だ。
グイッ!!
と井上さんがモカちゃんを繋ぐリードを、力強く、乱暴に引っ張りあげたのだ。
モカちゃんは苦しそうな顔をして、小さな呻き声と共に、無理やりに引きずられる。
そして、言う事を聞かないモカちゃんに向ける井上さんの瞳は、あまりにも冷徹に怒りの揺らぎを宿していて。
普段のあの安らかで穏やかな瞳とは違う、上位者の不服が、あまりにも露骨に放たれていた。
あぁ、そうか。
これが、愛玩動物なのか。
これが、ペットなのか。
井上さんは犬という生物を愛している訳ではない。
もし彼女が本当に犬を愛しているのならば、歩きたくないチワワを引きずり、無理やり歩かせる事などしないだろう。
翌日。
私は通りで井上さんと出会った。
井上さんはモカちゃんを抱いて撫でながら、あの安らかな瞳で、私にモカちゃんへの愛情を語ったのだった。
3/14/2026, 9:42:54 PM