見知らぬ街
はじめて行く街は匂いがちがう
普段自分の住んでいる場所とは違った匂い。
そこに住んでいる人達なのか、建物なのか、温度なのか。
だからはじめて行く街は落ち着かない。
慣れない匂いに、そわそわドキドキしてしまう。
それが見知らぬ街を訪れる醍醐味なのかもしれない。
そして、住み慣れた場所に戻ると馴染みの匂いにほっとする。
子どもの頃、友達の家に遊びに行くと自分の家とは違う匂いがして、やはり落ち着かなかった。
その感覚に近いのだろう。
自分はあまりアクティブなタイプではないので、住み慣れた場所、家にいるのが一番落ち着く。
でもたまに見知らぬ街を訪れた時だけ感じる、あの妙なドキドキ感に憧れてでかけたくなる。
矛盾はしてるけれど、嫌いではないんだな。
遠雷
満月の日、月の明かりだけで歩く。
昼間のように明るい田んぼの真ん中を、足音だけがカサカサ響く。
田んぼの先は海へ続く道。
松の木が生い茂り、光をさえぎる。
急に真っ暗になり足音と同じくらいに、自分の心臓の音が外に漏れ出している気がする。
松林の奥は、目をこらしてもこらしても闇。
風の音か、生き物の動く音か。
足音以外の何かに全身から汗がふきだす。
若干小走りになりながら、坂道を登る。
体がうずうずとするほどの恐怖。
坂道を登り切り、平坦な1本道を走る。
早くこの闇を抜けなければ。
ぱっと目の前が明るくなって、視界がひらける。
明るい満月の下、白く光る海。
まんまるい月が海に映ってはぼやけ、映ってはぼやけて波の上を泳いでいるようだ。
海の先にはワニの形の山。
ピカっと雷光が天から山へ落ちる。
満月と雷!
なんという組み合わせだろう。
私は思わず砂浜を踊りながら走り出した。
さっきまでの恐怖はそこにはなかった。
きっと忘れない
6月だっていうのに、入道雲。
まるで真夏のような青空。
そんな日に、あなたは逝ってしまった。
毎日会いに行っていたのに、その日は突然だった。
間に合わなかったことを、どれだけ悔やんだだろう。
あなたをのせた車の後を、それぞれの車が連なって走る。まるで、大名行列のようだ。
車の窓から真っ青な空と、もくもくの入道雲。
決して忘れることはない、梅雨の晴れ間。
帰りの車で思い出したのは、あなたの温かい手。
横断歩道で私の手をひいてくれた柔らかい手のひら。子供の時、世界で一番美しい手だと思っていた。
ハンドルを握る私の手は、あなたの手とは大違い。
あれから何年もすぎたけれど、あなたのいなくなった日はよく晴れる。
毎年思い出すのはあの日の真っ青な空と、入道雲。
決して忘れることのできない、あなたのいなくなった日。
足音
歩けるようになったばかりのころ、あなたはいつも私の後をついてきた。
トイレに行くのにも、台所へ行くのにも、いつもいつもトコトコとついてきた。
もちろん、どこのドアもぜーんぶ開けっぱなし。
あなたがどこでもトコトコ行けるように、ドアは閉めないようにしていた。
ある日、あなたがすやすやお昼寝してくれたので
「お、今ならトイレに行けるかも」
と私はそうっと起き出した。
いつもなら、開けっぱなしで入るトイレ。
音がしないようにそっと閉じる。
やっぱり、トイレのドアは閉まってる方が落ち着くなぁ。あれ?
ちっちゃい音が聞こえてくるよ。
トコトコ歩く足音と、半分泣きながら私を呼ぶ声。
「ここだよー、トイレだよー」
と叫ぶと、トコトコがトットッと走り出して止まった。
「わーん、ちゃーん(お母さん)」
ドアの向こうで大泣きしているあなた。
焦って用を済ませドアを開ける。
大泣きのあなたを抱き上げて、またお昼寝の布団に一緒に横になる。
しばらくヒックヒックとしていたけれど、ぎゅーっとしたらまた眠ってしまった。
まだまだトイレはオープンだなと、小さな背中をトントンする。
それはたった10年前のこと。
今あなたの部屋はドアがしっかり閉まっている。
終わらない夏
あの子が落とした麦わら帽子は、ころんころんと転がって、せいたかのっぽの夏の草に隠れた。
探しても探しても小さなあの子には見つけられない。
あの帽子は、おばあちゃんにおねだりして買ってもらった大事な大事な帽子なのに。
「どこにあるの?」
あの子は泣きながら探したけれど、帽子は草陰で息をひそめている。
「また探しにこよう。草刈りが終わって秋になれば
見つかるかもしれないよ」
ヒグラシが鳴きはじめ、山の影が黒く染まっていく。
お父さんに手を引かれて、あの子は帰っていった。
それから秋が来て、冬が来ても帽子は息をひそめたまま。
あの子は何度も探しにきたけど、見つけることはできなかった。
あの子にとって、帽子が見つかるまでは終わらない夏。
季節はめぐって7月のころ、グイーングイーンと草刈りが始まった。
ころんと帽子が転がってくる。
草刈りのおじさんは、小さな帽子をそっとかかしにひっかけた。
私はここにいるよ。
あの子の夏は終わらないまま、また始まる。