逃走、あるいは逃亡
何かから逃げるように、じゃない。実際、逃げているのだ、僕は。
僕は激しく動く足を休ませることもなく、心の中でそう叫ぶだろう。これは真実の逃走だと。すると、心の中の君は尋ねるだろう。お前は一体全体、何から逃げているのかと。
そんなこと、わかりゃしない。ただ言えるのは、これが真実の逃走ということと、もしかしたら現実からの逃亡かもしれないということだけだ。
僕は全ての事象から目を背けたことなんてない。いつだって、ひたむきに逃げてきた。
私を透かして世界を見ないで
透明な水って、あれ私です。
器がなければ形すら取れなくて、ちょっとした衝撃で飛び散って、なにもなくたって少しづつ減っていって。
それから流動的。流されやすくて、ほんのちょっと傾けられただけで下へ下へと向かうの。みんなそうだよって、そんな言葉に傾いた私はえっちらおっちら、決断っていう嘘で隠した自己防衛。みんなと一緒なら、大丈夫だもの。
私ってやっぱり透明な水だわ。たまには誰かの視線を少し歪めてみて反抗するけど、大抵気づかれないもの。透明だからできたことなのだけれど、透明だから気づかれないの。
あのね。透明な水って、あれ私です。墨汁なんて、垂らさないでね。
没みゆく理想を引き上げて
それは決して妥協ではない。軟弱であってもいけない。
それは崇高なものでもない。ただ讃美の対象としてだけ存在してはいけない。
それは現実を直視をできない弱者が掴む空虚な藁かもしれない。
それは時折、私やあなたの内側から出てきて行く手を阻むかもしれない。
それでも、だからこそ、それは人を絶望の淵から救ってくれるのかもしれない。
自らが思い描いた道を行くことは、しかし容易ではないのだから、私やあなたはそれを胸に宿すのかも、しれない。
別れなんか来ないわ
あなた、あまりにも突然いなくなってしまうのだから、私、信じてないわ。私が信じてるのはそう、あなたの帰宅だけ。
もちろん、部屋はそのまま。週に二回、掃除のときに入るけれど、物の配置なんかは変えてないもの。だからやっぱり、そのまま。
でも、あなた。ちゃんと帰ってくるのでしょうね。私、信じてますからね。こんこんって、扉を叩いて知らせてくれれば、すぐに開けるから。ちゃんと帰ってきて、くださいね。
あ、のぞき穴についてたほこり、後で拭いておかなくちゃ。
忘れられない思い出が、きっと
私には忘れられない思い出があります。きっと、いつまでも忘れられない思い出があります。そう、私には確かにあります。忘れられない思い出が、あるのです。
あれ、なんでしたっけ。その忘れられない思い出ってやつは。いえ、確かに覚えています。忘れられない思い出が私にはあるのだということを、覚えています。その、だから、覚えています。きっと、誰かの横顔。もしかして、匂いかしら。感触だったかも。味は兎も角、声ではないでしょう。やっぱり、匂いだった気がします。
私には忘れられない思い出があります。色んなことを忘れてしまったけれど、その事実だけは忘れることができなかったんです。