新調したイチョウ色のカーテンを開けて、淡い日差しを浴びる。
ベランダに繋がる掃き出し窓を開ければ、麻で出来たレースカーテンが大きく膨らみ、ひんやりとした肌寒い風が入り込む。
たちまち部屋が秋でいっぱいになった。
頂きもののカモミールハニーティーが蒸れるのをゆっくりと待つこの時間が、私は好きだ。
秋のこんなに爽やかな日は、お気に入りのブランケットに包まれながら、秋いっぱいの部屋で本を読むに限る。
【秋晴れ】
五感の中で、最も強く記憶に残るものは『臭覚』です。
そう誰かが言っていた。
私はそれを信じて疑わない。
思わず口から溢れた「好き」に、目を丸くして、それから困ったように笑っていた。
ふんわり香る甘くて爽やかな香り。私の初恋。
【忘れたくても忘れられない】
夏の昼下がり。
昨日の夜から降り出した雨はまだ止まず、ぱらぱらと軽やかな音で雨をはじく窓からは、うす暗い光がさしこんでいる。
キャミソール1枚で過ごすには少し肌寒い気温だ。
くしゅん、と小さくクシャミをすると、ユキは読んでいた本を開いたまま伏せて、おいで、と穏やかな声で言いながら私に向かって手を伸ばす。
私は素直にベッドとブランケットの間に潜り込み、ユキの体温を感じるように彼の腰に腕を回して寝転んだ。
ユキは満足そうに微笑み、右手で私の髪を優しくなでながら、左手に本をとり、物語のなかに戻っていく。
ユキはとても活動的な人間で、友達も多いし、趣味も多い。
休日はだいたい外出してしまう。もちろん、私も連れ立って外に出かけることもあるのだが。
でも、雨の日の休日は違う。
日がな一日、私たちはベッドの上で大半を過ごすことになる。
雨が降り続くかぎり、ずっとユキの体温を感じることができる距離にいることができる。
愛しいという気持ちが溢れてきた私は、好きよ、とユキを見つめて呟いた。
ぼくも好きだよ、ユキはそう言いながら、同じように右手で私の頭を撫でた。
【いつまでも降り止まない、雨】
マコトくん。
それが私の知っている、彼の名前だった。
マコトくんは、私より11歳年上の、夜に出勤する仕事をしているお兄さんだ。
もっとも、それも本当かどうかは分からないけれど、少なくとも仕事については、今からいってくるよ、だとか、今は休憩中だから裏でタバコを吸っている、だとか、夜中に律儀に報告をしてくれていたから、多分本当だと思っている。
今日はお店のイベントでネコ耳のカチューシャをつけないといけないから嫌だ、と嘆いていたこともあった。
病気がちで入退院を繰り返していた母親が亡くなって、わたしの心にぽかんと空いた大きな穴を埋めるため、誰かと話がしたくて何となく始めた掲示板。
私たちは、その掲示板のマコトくんの立てていたスレッドで知り合った。
マコトくんのスレッドには、たくさんの女の人たちが話をしにやってきていた。
“みんなのマコトくん”を一時的に独占するために二人だけで話をする予約を入れていた人や、“みんなのマコトくん”では満足出来ない、と告白をしている人もたくさんいた。
マコトくんの全て包み込むような穏やかな雰囲気にみんな癒されていたし、何ものにも染まらない、どこか浮世離れしているマコトくんに私が惹かれていくのに、そう時間はかからなかった。
【透明な水】
「俺、好きな人が出来たんだ」
煙草の燃え殻を、灰皿に押し付けながら隼人は言った。
「え」
と、発したつもりが声にならなかった。
換気扇の音だけがやけに現実味を帯びながら、もの寂しげにカラカラとなっている。
鼓動が強く、早く、脈を打つ。
隼人はいつも、きちんと順序立てて物事を進める人だった。
何があっても動じずにいられるように、考えうる先のこと全てにおいて、計画的だった。
「予想外の出来事に心を乱されたくない」
私が彼の完璧な計画を褒めるたび、彼が私に言っていたこと。
だから予想外の出来事が起こると彼はとても心を乱し、冷静さを保てずに困惑していた。
対応する準備が出来ていなかった自分を責めて、そしてそんな彼の背中をさすり、宥めるのが私が役目。
彼の冷静な慎重さ、裏をとれば心配性な性格が羨ましくて、頼もしくて、愛おしかった。
大好きだった。
安心して、大好きでいられたのに。
ソファに座りながら呆気にとられている私の横に、1人分の空間をあけて隼人は座る。
彼が煙草を吸うほんの少し前までは、2人の軽く汗ばんだ肌がぴったりとくっついていたというのに。
わたしたちの間に――主に隼人の間に――突然知らない人と同じ部屋に放り投げられたかような、息が詰まる妙なぎこちなさを感じる。
付き合いたてとはまた違う、相手の出方を伺うような奇妙な空気感だ。
もう隼人の匂いの一部として感じていた、いつもと同じアメリカンスピリットの匂いが、やけに鼻につく。
私は小さく咳をした。
「あの、俺さ」
「聞こえているわ」
先ほどと同じ、正確なトーンで話しかけてくる隼人の言葉を遮る。
自分でも驚くくらいに冷たく響いた声色に、反射的に彼の方へ体が向いた。
彼は俯いていて、表情が分からなかった。
高校1年生の時から付き合い初めて、今年で社会人4年目になる。
今年で26歳、付き合って10年目だ。
そろそろ本格的に結婚資金を貯めるために、同棲を始めたばかりだった。
一体いつから、隼人の頭には私以外の女の人を考える隙間があったのだろうか。
こんなウェディングドレス着たいだとか、新婚旅行はここに行きたいねだとか、つい最近もそんな話をしていたというのに。
「本当に申し訳ない」
「生活に必要なものは全部残して俺が出ていくから」
「里奈とはもう一緒に住めない」
黙り込んでいる私にかけられた、彼が苦しそうに選んだ、それでいて無情な言葉。
ぽつりぽつりと断片的に私の耳に入ってくる聞き慣れた隼人の声。
吐き出されるその言葉は、微かに震えているようにも感じる。
彼が眉間に皺を寄せてこんなに苦しそうにしている姿は初めて見たかもしれない。
全部夢であれば良いと思った。
さっき飲んだ市販のお酒のせいで見ている悪い夢。
炭酸が強くてアルコール度数だけがやけに高い、消毒液みたいな味のする美味しくないやつ。
全部そのせいだ。
だから、私の頭はガンガンと響いているし、そのせいで彼がひどく薄情な人間に見えてしまっている。
こんなの、私の知っている隼人じゃない。
「そっか」
やっと声に出来たのは、素っ気ないたった一言。
彼とは目を合わせず、ローテーブルに無造作に置かれている空になった呪いのお酒を見ながら言った。
冷たく響かないように。
重苦しい感情を乗せないように。
もう、間違えないように。
隼人は何も言わなかった。
受け止めてもらえなかった私の言葉は、宙ぶらりんのまま私たちの部屋に佇んでいる。
力いっぱい握られているみたいに、激しく胸が痛んだ。
聞きたいことはたくさんあった。
いつから。どこで出会ったの。年齢は。職業は。どこが好きなの。私より好きになってしまったの。
それはもう、挙げたらキリがないほどに。
でも、それを言ってどうしろというのだろう。
彼は物事を順序立てて進める人だ。
きっと彼の中でたくさん葛藤をして、悩んで悩んで考えた末のことなのだろう。
それが私にとって突拍子もないことだとしても。
高校1年生のとき、彼から告白をしてくれた。
遠足の時に、顔を真っ赤にして。
紅葉の時期で、紺色のセーターを着ていた。
そんな彼を見て、胸の奥がきゅうっと縮こまるほど愛おしいと感じて、私たちの交際は始まる。
11月3日。
初めてキスをした高校2年生の夏休み。
お互いの部活が休みだったので、彼の家で夏休みの課題をしていた時だった。
柔らかい唇が数秒触れて、隼人はまた顔を真っ赤にして「好きだよ」と言ってくれた。
「私も」と返すと、照れくさそうに笑う隼人。
それからまもなく、修学旅行で初めて喧嘩をした。
旅行中に何度か呼び出される彼を見た私の、可愛くないヤキモチが原因。
今考えると笑えるくらいくだらなくて、子供じみていてかわいい喧嘩だ。
卒業後、大学生になる少し前。
実家から通うにはほんの少しだけ遠いからという理由で、一人暮らしを始めることになった隼人の引越しの手伝いをした日。
まだ片付けの終わっていない雑然とした部屋の、新品のベッドの上で私たちは初めて体を重ねた。
これ以上の幸せはないと思えるほど、彼は私を優しくそっと抱きしめてくれた。
まるで走馬灯のように、全てを鮮明に思い出せる。
「本当にごめん」
視界の端で頭を下げている彼を捉える。
私のことを10年間好きだった人。
そして今は、私以外の人を愛してしまっている人を。
ゆっくりと呼吸をして、体ごと隼人に向ける。
「私ね、喘息持ちだったの。でも、あなたの煙草を吸う姿が好きよ。それで、言い出せなかった」
一瞬、彼の体がぴくりと跳ねた。
次は隼人が驚く番だった。
彼は何かを言いかけて口を開いたけれど、やっぱり何も言えずに閉じた。
私たちの恋が終わった。
社会人4年目、暦の上ではもう春だ。
部屋の外では珍しく、雪がしんしんと降っている。
【突然の別れ/無秩序な気配、そして君の】