「俺、好きな人が出来たんだ」
煙草の燃え殻を、灰皿に押し付けながら隼人は言った。
「え」
と、発したつもりが声にならなかった。
換気扇の音だけがやけに現実味を帯びながら、もの寂しげにカラカラとなっている。
鼓動が強く、早く、脈を打つ。
隼人はいつも、きちんと順序立てて物事を進める人だった。
何があっても動じずにいられるように、考えうる先のこと全てにおいて、計画的だった。
「予想外の出来事に心を乱されたくない」
私が彼の完璧な計画を褒めるたび、彼が私に言っていたこと。
だから予想外の出来事が起こると彼はとても心を乱し、冷静さを保てずに困惑していた。
対応する準備が出来ていなかった自分を責めて、そしてそんな彼の背中をさすり、宥めるのが私が役目。
彼の冷静な慎重さ、裏をとれば心配性な性格が羨ましくて、頼もしくて、愛おしかった。
大好きだった。
安心して、大好きでいられたのに。
ソファに座りながら呆気にとられている私の横に、1人分の空間をあけて隼人は座る。
彼が煙草を吸うほんの少し前までは、2人の軽く汗ばんだ肌がぴったりとくっついていたというのに。
わたしたちの間に――主に隼人の間に――突然知らない人と同じ部屋に放り投げられたかような、息が詰まる妙なぎこちなさを感じる。
付き合いたてとはまた違う、相手の出方を伺うような奇妙な空気感だ。
もう隼人の匂いの一部として感じていた、いつもと同じアメリカンスピリットの匂いが、やけに鼻につく。
私は小さく咳をした。
「あの、俺さ」
「聞こえているわ」
先ほどと同じ、正確なトーンで話しかけてくる隼人の言葉を遮る。
自分でも驚くくらいに冷たく響いた声色に、反射的に彼の方へ体が向いた。
彼は俯いていて、表情が分からなかった。
高校1年生の時から付き合い初めて、今年で社会人4年目になる。
今年で26歳、付き合って10年目だ。
そろそろ本格的に結婚資金を貯めるために、同棲を始めたばかりだった。
一体いつから、隼人の頭には私以外の女の人を考える隙間があったのだろうか。
こんなウェディングドレス着たいだとか、新婚旅行はここに行きたいねだとか、つい最近もそんな話をしていたというのに。
「本当に申し訳ない」
「生活に必要なものは全部残して俺が出ていくから」
「里奈とはもう一緒に住めない」
黙り込んでいる私にかけられた、彼が苦しそうに選んだ、それでいて無情な言葉。
ぽつりぽつりと断片的に私の耳に入ってくる聞き慣れた隼人の声。
吐き出されるその言葉は、微かに震えているようにも感じる。
彼が眉間に皺を寄せてこんなに苦しそうにしている姿は初めて見たかもしれない。
全部夢であれば良いと思った。
さっき飲んだ市販のお酒のせいで見ている悪い夢。
炭酸が強くてアルコール度数だけがやけに高い、消毒液みたいな味のする美味しくないやつ。
全部そのせいだ。
だから、私の頭はガンガンと響いているし、そのせいで彼がひどく薄情な人間に見えてしまっている。
こんなの、私の知っている隼人じゃない。
「そっか」
やっと声に出来たのは、素っ気ないたった一言。
彼とは目を合わせず、ローテーブルに無造作に置かれている空になった呪いのお酒を見ながら言った。
冷たく響かないように。
重苦しい感情を乗せないように。
もう、間違えないように。
隼人は何も言わなかった。
受け止めてもらえなかった私の言葉は、宙ぶらりんのまま私たちの部屋に佇んでいる。
力いっぱい握られているみたいに、激しく胸が痛んだ。
聞きたいことはたくさんあった。
いつから。どこで出会ったの。年齢は。職業は。どこが好きなの。私より好きになってしまったの。
それはもう、挙げたらキリがないほどに。
でも、それを言ってどうしろというのだろう。
彼は物事を順序立てて進める人だ。
きっと彼の中でたくさん葛藤をして、悩んで悩んで考えた末のことなのだろう。
それが私にとって突拍子もないことだとしても。
高校1年生のとき、彼から告白をしてくれた。
遠足の時に、顔を真っ赤にして。
紅葉の時期で、紺色のセーターを着ていた。
そんな彼を見て、胸の奥がきゅうっと縮こまるほど愛おしいと感じて、私たちの交際は始まる。
11月3日。
初めてキスをした高校2年生の夏休み。
お互いの部活が休みだったので、彼の家で夏休みの課題をしていた時だった。
柔らかい唇が数秒触れて、隼人はまた顔を真っ赤にして「好きだよ」と言ってくれた。
「私も」と返すと、照れくさそうに笑う隼人。
それからまもなく、修学旅行で初めて喧嘩をした。
旅行中に何度か呼び出される彼を見た私の、可愛くないヤキモチが原因。
今考えると笑えるくらいくだらなくて、子供じみていてかわいい喧嘩だ。
卒業後、大学生になる少し前。
実家から通うにはほんの少しだけ遠いからという理由で、一人暮らしを始めることになった隼人の引越しの手伝いをした日。
まだ片付けの終わっていない雑然とした部屋の、新品のベッドの上で私たちは初めて体を重ねた。
これ以上の幸せはないと思えるほど、彼は私を優しくそっと抱きしめてくれた。
まるで走馬灯のように、全てを鮮明に思い出せる。
「本当にごめん」
視界の端で頭を下げている彼を捉える。
私のことを10年間好きだった人。
そして今は、私以外の人を愛してしまっている人を。
ゆっくりと呼吸をして、体ごと隼人に向ける。
「私ね、喘息持ちだったの。でも、あなたの煙草を吸う姿が好きよ。それで、言い出せなかった」
一瞬、彼の体がぴくりと跳ねた。
次は隼人が驚く番だった。
彼は何かを言いかけて口を開いたけれど、やっぱり何も言えずに閉じた。
私たちの恋が終わった。
社会人4年目、暦の上ではもう春だ。
部屋の外では珍しく、雪がしんしんと降っている。
【突然の別れ/無秩序な気配、そして君の】
5/19/2023, 2:10:30 PM