ベランダの手すりに凭れて空を眺めると、都会の空では到底見ることの出来ないであろう無数の星を見つけた。
こんな澄んだ空気の日には、「天使様の仰せのままに」を思い出す。
彼女の美月は「天使様」というものを信じている。
美月が言うには、天使様に実態はない。
でも、目を瞑り手を組んでお祈りをすると、たちまち頭の上に降りてきて、自分の行くべき道を見定めてくれるというのだ。
これを「天使様の仰せのままに」と呼んでいる。
──おでこを空に突き出すようにして、つむじに神経を集中させるの──
天使様を呼び出すにはコツがいるのだ、と口を尖らせながら自慢げに話す美月の様子を、できる限り鮮明に頭の中で思い巡らせる。
天使様。願わくば、この無邪気な彼女と一緒に歳を重ねていけますように。
美月の真似をして上を向くと、春の始まりの冷たい風が優しく額を撫でた。
少し伸びすぎた前髪がサラリとなびく。風呂上がりのサボンの香り。
「ジンライム作るけど、飲むー?」
キッキンでは美月が忙しそうに動き回り、晩酌の準備をしている。
「うん」
同じサボンの香りと甘酸っぱい爽やかな香りが広がる、1Kの小さな部屋。
ひょっとしたら天使様はいるのかもしれないと、今日だけは思った。
【My Heart】
「特別彼女のことを愛してるってわけではなかったんだけど、この子が好きって気持ちはこれから先も変わらないだろうなって思って、僕からプロポーズしたんだ」
いつだったか。
なんの気なしに、彼に結婚を決めた理由を聞いてみたことがある。
ハンガーに吊るされたシワ1つない白いシャツを羽織りながら、彼は言った。
さっきまで私に優しく触れていた指で、他の人がアイロンをかけたシャツのボタンを丁寧に留める。
「それじゃあ、ありがとうね」
今日もいつもと同じようにお互いに求め合い、満たされれば、私は平凡な日常へ戻るし、彼は特別愛してはいないけれどこれから先も好きな人の元へ帰っていく。
彼が帰った後のベッドに飛び込む。
Tom FordのBlack Orchidの香りが、私は好きではない。
でもシーツに残る、このむせかえるくらい甘ったるい香りでしか、私はあなたの気配を感じることが出来ない。
【好きじゃないのに】
勢いよく差し出された私より小さな冷たい手を、なんの躊躇いもなく掴んだあの日。
まるで思ってもみなかったというように目を丸くして、小さく微笑んだ君は、私の手を宝物みたいに優しく握り返してくれた。
「僕が絶対に守るから」
夕日が2人の影を伸ばす。
私よりも背丈の低い、頼りない影。
「期待してるね」
私の言葉に返事をするみたいに、彼はぎゅっと力を込めて私の手を握った。
【特別な存在】