「Almost heaven, West Virginia―」
最後に聞いたのはもう20年も前なのに、 歌い出しの歌詞がすらりと出てきたことに驚いて、そこで思わず止めてしまった。
私は、何年も前に手に入れたオンボロの軽自動車で、ウェストバージニアの山道に似た道路をのんびりと進んでいた。もう20年以上は帰っていない、故郷への道のりである。
故郷と言っても、両親はとっくに別の土地へ引っ越していた。田舎とはいえこれだけ経てば、もう面影も少ないだろう。私は、これから故郷の残骸を見に行くのだった。
歌の続きを歌いながら、故郷を出てからのことを思う。
数十年前、私は故郷を離れ、大学に行くために下宿を始めた。最初は知らない土地が怖くて怖くて、小さな部屋で震えていたっけ。映画で覚えた、この歌の日本語版を歌いながら、部屋の隅でひとり泣いていた頃が懐かしい。
しかし、それから徐々に心は故郷から離れていった。他国語を学び、知らない土地へ少しずつ足を運ぶようになった。昔からある遠くの世界への憧れが、いつの間にか、望郷に打ち勝っていた。仕事で世界中を駆け巡り続け、やっとついこの間、母国へ落ち着いた。
私ももう歳だった。すでに、カントリーロードの日本語版の歌詞で泣けるほど、繊細で孤独な勇気を持つ若者ではなかった。歌詞すらもうほとんど覚えていない。
しかし、すでに生活に困らないほど稼ぎ、退屈しながら安楽椅子に掛けていたとき、ふと思った。いまや、私にとって最も遠い場所は、故郷なのではないか、と。
そう思う心は、既に老人のものとなり、世間の荒波を達観する境地に至り、流され続けた末に陸にたどり着いた流木のように安らかだった。
今の私には、カントリーロードは英語版の方が馴染みやすかった。ウェストバージニアの山々は故郷の山脈に重なった。故郷は景色ばかりは美しかった。
「…That I should've been home yesterday, Yesterday――――」
ここまで歌って、気づいたら涙していた。もうとっくに出ていって、両親すらいない故郷なはずなのに、「昨日帰ればよかった」とすら思えてきた。不思議と、孤独ではなかった。
私は、私から最も遠いまちへ向けて、少しスピードを上げながら車を走らせた。
軽い思いつきで文章を書き始めてから少し経った。上手くいっているとも思えるし、全然駄目だなとも思える。文章の善し悪しについて、未だに自分で判断がつかない。だからといって、好みの問題だとして片付けることも出来ない気がしている。
しかし、ここまで書いてきて私は、未だに「物語」を書けずにいる。なんと言ったらいいのか、要するに、小説のような、論理的にきちんと繋がった文章や、起承転結がきちんとあるものを、書けていないということだ。
私の書いてきたものは「詩」に近い。思いつきで、何となく頭に浮かんだことを、理論性など気にせずに一気に書いてしまえる楽さに、どうしても流されてしまう。私の中で、文字を綴る行為はどこか、「現実逃避」でもあるようなところがある。
人によると思うが、私に限っては 、詩は現実逃避の手段としては手軽な方である。整合性や論理性をすっ飛ばして、世界観を一瞬で構築できる。なんなら、文章すら作らなくてもいい。
言葉を散らしたら、空白すら自然と「詩」として成立する。いとも簡単に、酔いしれることが出来るし、その世界に入ってこれる人もそう居ないだろう。ひとりで酔いしれるのにはうってつけの楽園である。
対して、「物語」はきちんと「どうしてそうなったのか」が明確になるようにしなければならない。文章もちゃんと繋がってないといけない。ただ、それだけに世界観はより綿密になり、現実逃避の没入感が増す。
そうして構築された世界は、ちょっとやそっとで崩れ落ちることはない。あと、なにより誰かと共に夢を見るなら、こちらの方が断然いいだろう。共に酒に酔って幻覚を見た時、同じ幻覚を見られないのと同じだ。想像で補うべき空白が少ない分、同じ意味を共有しやすい。
物語の方が、「リアリティ」があると言ってもいいかもしれない。しかし、面白い。「現実逃避」のために書いていると言ったのに、逆に「現実感」を実感するとは。
こうなってくると、もしかすると私も誰かの「現実逃避」先であるのかもしれない。冷たい「現実」から逃れたかった誰かの、避寒地としての私がつくられ、そしてその私がまた「現実逃避」先として世界を作る…。
世界はそうやってつくられているのかもしれない。創造神とか言うのも、実は現実から逃れたかった誰かなのかもしれないし、その創造神すら、誰かの「現実逃避」の世界の住人かもしれない。
そう思うと、「現実逃避」といいつつ、実は現実から逃げきれていないのかもしれない。むしろ現実から逃れた先も、また現実なのだから。
…とは言いつつ、私の目の前の現実は、孤島にひとりきりの生活である。だから、誰かに共有できないような「詩」のようなものばかりを書いてしまうのだろう。孤独は悪くないが、「物語」を書きたいなら…。
とにかく今は言葉を吐き出すだけでもいいだろう。ひょっとすると、そのうち誰かが私の流したボトルメールを読んで、返事を書いてくれるかもしれない。物事は根気だ…なんて若い時は思わなかったが。
気づいたら、もうとっくに日が昇っていた。今日は思索に耽りすぎたようだ。いずれにせよ、今日からまた少しづつ。
皆へ
成人式、行かなくてごめんね。行けなかった。
突然、連絡を切ってしまったことも、謝るよ。
あの時、私は幸せだった。皆と一緒にいたいなって。卒業するのが凄く嫌だった。
あの時代も、辛いことは沢山あった。
でも、最終的にはそれに折り合いをつけられた。
なにより、沢山の仲間、素晴らしい先生、
そして初めての恋人。
今でも、正直恋しい。また、あの時に戻りたい。
それならどうして、って思うかもね。
でも私が会いたいのは、あの時の皆であって、
私が大事にしているのはあの時の思い出であって、
私が好きなのはあの時皆と一緒に笑えてた自分で、
要するに、今の皆には会いたいと思わないし、
今の自分を皆に見られたいとも思わないんだ。
もう、あれから5年以上経ってるんだ。
あの時から、私にどんな変化があったか、
あんまり知らないと思うし、
私も、皆がどうなったか知らない。
でも、それを知りたいと思えない。
きっと、もう一緒に笑い合えはしないと思う。
ごめんね、本当に。
あの時の思い出を磨いたやつを箱にしまっておく。
それだけでもう十分なんだ。
今思うと、あの時の私も相当醜悪で傲慢だった。
醜悪であることを知らなかったから、なおのこと。
今では身のほどを弁えてるけど、難しいね。
これが大人になることなんだろうけど、まだ出来ないです。きっと皆は大人になったんだろうね。
何が言いたかったんだっけな。もう分からないや。
あの頃は私、すごく読書が出来て文章が上手いと思われてたけど、実は単にそう見せかけるための嘘が上手くいってしまってただけなんだ。
現に今も、言いたいことがまとまってないよね。
こういうこと、皆にたくさん隠してたんだ。
とにかく、私のことはこれで忘れて、
探りたいかもしれないし、あるいは他人なんかどうでもいいかもしれないけれど、忘れて欲しいんだ。
今君たちが何をやってるかなんて、私も知りたくないからさ。
でもどうか、幸せでいてください。
ああ、もうキリがないから、さっさと別れよう。
あの時、私はまたねって言いました。
だからまたこうして
皆にむけて手紙を書かなきゃならなかった。
今度こそもう二度と会えないようにしなくては。
ここで、思い出と青春の最後の縁を切っておこう。
愛しかった友たちよ、
それじゃ、永遠にさよなら!
■■■■
物憂げな空の偽善
実際の憂いは知らず
その証拠に土の道は乾ききっている
お前が涙すら流さなかった証拠
自分の死体をひきずって歩く
足跡が砂に消えるより先に血が染み込む
ああ こんなの
死んだ方がマシじゃないか
働く余力がどこにある
生命維持すら儘ならぬ
生きるために働くのか
働くために生きるのか
お前たちとは出来がちがったんだ
いくらでも蔑んでくれて構わない
早く聖女ギヨティーヌの元に行き
膝まづいて潔く罪を告白しよう
「わたくしは日々懸命に生きている
善良なる市民の裏切り者です!」
けれど彼女はわたくしに触れようともせず
なぶるように見下げるばかり
善良なる見物客は声を揃えて
「働かざるもの食うべからず!」
銀色の薄い歯を見せながら
氷よりも冷たく聖女は微笑む
血の道を折り返してありもしない我が家に帰る
空は相変わらず涙の一滴をも与えず
わたくしに降り注ぐは石礫のみ
死体はもはや血も流さぬ
ああ こんなの
死んだ方がマシじゃないか
醜いいのち
可愛さあまって握り潰されもせず
踏み潰すことさえ嫌がられ
仮に瞬時に逝けたとて
飛び散った血肉さえ拾われず
もとからなかったかのように壁に塗り込められて
小さないのち 平等ないのち
でもみてくれがよくないばかりに
可哀想、とすら言われないの
一度死を志したものだけがしっている
すべてのいのちが同じおもさだと
ぐずぐずのドブネズミの死体にも
心からのキスをする