囃子音

Open App

軽い思いつきで文章を書き始めてから少し経った。上手くいっているとも思えるし、全然駄目だなとも思える。文章の善し悪しについて、未だに自分で判断がつかない。だからといって、好みの問題だとして片付けることも出来ない気がしている。

しかし、ここまで書いてきて私は、未だに「物語」を書けずにいる。なんと言ったらいいのか、要するに、小説のような、論理的にきちんと繋がった文章や、起承転結がきちんとあるものを、書けていないということだ。

私の書いてきたものは「詩」に近い。思いつきで、何となく頭に浮かんだことを、理論性など気にせずに一気に書いてしまえる楽さに、どうしても流されてしまう。私の中で、文字を綴る行為はどこか、「現実逃避」でもあるようなところがある。

人によると思うが、私に限っては 、詩は現実逃避の手段としては手軽な方である。整合性や論理性をすっ飛ばして、世界観を一瞬で構築できる。なんなら、文章すら作らなくてもいい。

言葉を散らしたら、空白すら自然と「詩」として成立する。いとも簡単に、酔いしれることが出来るし、その世界に入ってこれる人もそう居ないだろう。ひとりで酔いしれるのにはうってつけの楽園である。

対して、「物語」はきちんと「どうしてそうなったのか」が明確になるようにしなければならない。文章もちゃんと繋がってないといけない。ただ、それだけに世界観はより綿密になり、現実逃避の没入感が増す。

そうして構築された世界は、ちょっとやそっとで崩れ落ちることはない。あと、なにより誰かと共に夢を見るなら、こちらの方が断然いいだろう。共に酒に酔って幻覚を見た時、同じ幻覚を見られないのと同じだ。想像で補うべき空白が少ない分、同じ意味を共有しやすい。

物語の方が、「リアリティ」があると言ってもいいかもしれない。しかし、面白い。「現実逃避」のために書いていると言ったのに、逆に「現実感」を実感するとは。

こうなってくると、もしかすると私も誰かの「現実逃避」先であるのかもしれない。冷たい「現実」から逃れたかった誰かの、避寒地としての私がつくられ、そしてその私がまた「現実逃避」先として世界を作る…。

世界はそうやってつくられているのかもしれない。創造神とか言うのも、実は現実から逃れたかった誰かなのかもしれないし、その創造神すら、誰かの「現実逃避」の世界の住人かもしれない。

そう思うと、「現実逃避」といいつつ、実は現実から逃げきれていないのかもしれない。むしろ現実から逃れた先も、また現実なのだから。

…とは言いつつ、私の目の前の現実は、孤島にひとりきりの生活である。だから、誰かに共有できないような「詩」のようなものばかりを書いてしまうのだろう。孤独は悪くないが、「物語」を書きたいなら…。

とにかく今は言葉を吐き出すだけでもいいだろう。ひょっとすると、そのうち誰かが私の流したボトルメールを読んで、返事を書いてくれるかもしれない。物事は根気だ…なんて若い時は思わなかったが。

気づいたら、もうとっくに日が昇っていた。今日は思索に耽りすぎたようだ。いずれにせよ、今日からまた少しづつ。

2/28/2023, 10:13:52 AM