さくらんぼ

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10/1/2024, 2:34:29 AM

「あなたって本当に頭が悪いわね」

また今日も言われた。分からないところを質問しただけなのに。

私のピアノの先生は、私と出会った時

「あなたの事を見捨てることなんてしないからね。あなたの味方だから」

そう言ってくれた。でも蓋を開けてみれば私のことを蔑み、バカにしてくるような人だった。それでも先生の指導に必死に食らいついた。だが、どんなに努力しても、バカにされるだけだった。
もう限界だった。壊れそうだった。本当は辞めたかった。今私が通っているピアノ教室なんかやめてやりたかった。でも辞められなかった。
私の母親は音楽教師、父親は作曲家。小さい頃からピアノをやらされていた。大学に入ることをきっかけにこの先生になった。
初めの頃は信頼していたし、「この先生の元で学べば絶対上手くなる」、そう思っていた。だけど現実はそうじゃなかった。ピアノの鍵盤に手を置く度に思い出す先生からの言葉の暴力。それに耐えながらピアノを練習しても何も身につかなかった。

「私ってバカなんだよね…ダメ人間なんだよね…」

そう思うと上手く呼吸が出来なくなり、涙が止まらなくなった。

ある日、ピアノを練習しようと蓋を開けていつも通り鍵盤に手を置いた。でも動かない。よく見てみると震えている。必死に動かそうとするが動かない。

「なんで…明日レッスンなのに…」

とてつもなく焦った。こんな状態だったら明日、先生にもっとバカにされる。こんなのダメだ。動かない指を動かすために力を入れてみた。
何とか弾けるが、しばらくすると痛くなってきた。

「腱鞘炎…」

明日のレッスンのことを考えたくないが、これ以上やったらもっと酷くなる、そう思って練習をやめた。

翌日。

「なんの曲持ってきたの?」
「これです…」
「あなた、まだ終わらないのね。まぁいいわ。聞かせて」

先生は鼻で笑いながら言った。
腱鞘炎で痛みが走る中、必死に指を動かした。

「こんなの聞けたもんじゃない。やっぱあなたは頭が悪いわね」

もう無理だった。自分の中で何かが壊れた音がした。
レッスン中の記憶はなかった。とりあえず早く終わりたい、そう思って受けていたのかもしれない。
家に帰ると、膝から崩れ落ちた。涙が止まらない。まともに呼吸も出来ない。

「おかえり…ってどうしたの!?」
「お母さん、もう無理だ。私」

母親に今まであったことを全て話した。

「なんでもっと早く言ってくれなかったの?」
「我慢しなきゃいけないって思ったから。我慢すれば上手くなる。だけど上手くなる前に私が限界になったみたい」
「もういいよ、やめて」
「…え?」

母親からこんな言葉が発せられるなんて思っていなかった。

「あなたは充分頑張ったよ。もういいよ。多分今のあなたは疲れてる。少し自分のことを解放してあげてもいいと思う」

何故か自分の心が軽くなった気がした。やめていいんだ。楽になっていいんだ。そう思った途端さっきの涙とは違う涙が溢れてきた。

「さっ!ご飯食べよ!!美味しい物食べて忘れよ!」

そう母親は満面の笑みで言ってくれた。
きっと明日も辛いことはあるだろう。苦しいこと、辛いこと、どうしようも無いこと、色々なことがあるだろう。だが、逃げてもいい。逃げることは負けじゃない。自分を守るための武器なんだ、そう思えた。

9/29/2024, 11:47:39 AM

咲希の手には桜の花びらが1枚のっていた――

静寂に包まれた部屋の中、ひたすらパソコンと向き合う。原稿の締切に追われ、物語を紡いでいく。スランプから抜けられなかったせいか、締切ギリギリになってしまった。

「桜、ねぇ…」

一言そう呟き、文章を打つ手を止めた。
開いている窓に目をやると桜が咲いている。風に吹かれて花びらが散っている。その風景は儚くも美しいものだった。ふとカレンダーに目をやる。

「締切は…あと1週間あるのか…」

今書き終えれば、次の作品の締切までまだ余裕があるため少し休める。だが、この次の展開が何も思いつかなかったため書こうにも書けない。

「咲希、この後どうしたい?」

誰もいない部屋でパソコンの中の咲希に話しかけた。当たり前のことだが答えてくれるはずもない。溜息をつきながら、頭の後ろで腕を組みベッドに倒れ込んだ。すると窓から1枚の桜の花びらが入ってきた。

「こうなったら…!」

思い切って外に出て散歩してみることにした。
外の風は気持ちがいい。窮屈な部屋の中でずっと書いていたため、太陽の光が少し眩しかった。
歩いていると、親子が桜の木の下でお花見をしているのが見えた。まだ小学校にあがっていないように見える子どもが2人いた。

「パパ!ママ!綺麗だね!!」
「そうだね!」
「来年もまた見たいな!!」
「絶対見ようね!!」

他愛もない会話だが、何故か泣きそうになってくる。自分が家族みんなでお花見をしたことなんてない。出来なかった。
父と母は自分が小さい頃に離婚してしまい、女手一つで育てられた。その母も自分を養うため遅くまで仕事をしてくれていた。その母が2年前、この世からいなくなった。もし父と母が離婚してなかったら。この家族のようにお花見をしていたのかもしれない。この家族が羨ましかった。

その時、あの文の続きが思い浮かんだ。走って家に帰り、忘れないうちに書いた。自分の出来なかったことを咲希にやって欲しい、そう思った。

「これだ…」

気づけば涙がこぼれていた。

―咲希!そう呼ばれた気がして後ろを振り返った。だがそこには誰もいなかったが、何かに包み込まれたような温かい心地がした。もしかしたら今はいないお母さんが私の元に来ているのかもしれない。ずっと私のことを見守っていてくれてるんだよね。お母さん。

9/28/2024, 3:36:25 PM

私の隣を歩く彼は自転車を押している。
彼の顔は楽しそうだがどこか寂しげだった。

1か月前。急に

「俺、転校するんだよね」

と打ち明けられた。別に彼と付き合っている訳では無いが、とても悲しかった。小学校からの仲で、隠し事も無かった。彼の前だと自然体でいることが出来た。

「そっか。」

そう一言彼に言った。あまりにも悲しくて、これ以上話を続けることが出来なかった。

自転車を押す彼の顔には陽があたり、すこし頬が火照っている。この街にいる最後の日だというのに、話している内容は思い出話でもなんでもなく、「昨日のテレビがどう」とかそういった話だった。
しばらく歩いていると分かれ道に着いた。彼と私の家は別方向にある。

「じゃあここで。」
「うん。」
「あのさ。」
「何?」
「…ありがとな。俺と仲良くしてくれて。」

彼から発せられた言葉は、彼の口から初めて聞く言葉だった。

「お前と仲良く出来て良かった。」

私は涙がこぼれそうなのを必死にこらえた。最後ぐらいは笑って送ってあげたかった。

「お前なんで泣きそうになってんの」

ふふっ、と笑いながら言った。
私は彼のその言葉で涙が溢れた。

「泣くに決まってるでしょ!だって私たち友達だもん!」
「俺死ぬわけじゃないんだからさ」

彼は笑ってそう言った。

「じゃ、またいつか会おうな」
「うん。元気でね。時々はこの街に来てね」

そう言って彼は自転車を押していった。
分かれ際、彼は後ろを振り返って満面の笑みで私に向かって手を振った。
悲しくて寂しいけれど、この世界からいなくなるわけじゃない。いつかまた会える、そう思って私は帰路についた。