久須

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1/24/2023, 4:33:13 PM

「後光が差して見える」
「聞き飽きた」
 私が彼を見つめたときに思うことをそのまま伝えた。彼は酷くつまらなそうな顔をしている。それも当然のことだ――彼の姿は、誰が見ても神が愛を込めて作り上げたと言っても足りないほど美しい。
「俺はお前の方が眩しくて仕方ない」
「私が? まあ、自分でも悪くない顔だなとは思うけれど」
「ナルシストめ」
「自己愛は人生を歩む上で必要なものさ。自分自身を愛し、肯定する。自分に愛された自分が愛したいと思う相手を見つけたとき、初めて他人を認められる。そして、そこから他人への好意に発展していく。他人を思い遣るための第一歩がナルシシズムだ」
「つまんねえ御高説を垂れ流していただき有難うございます。さっきの言葉といい、耳が疲れる」
「じゃあ私はもう喋らない方がいい?」
「偉そうなことは聞きたくない。でも俺との会話は続けて」
 後光が差して見える程神々しい彼は、とにかく〝ふつう〟の会話に憧れている。遠慮なく、対等で、下らなくて中身のない会話がしたいらしい。彼を取り巻く環境を踏まえれば、そういった年相応の日常に飢えるのも仕方ないのだと納得できる。
「そうだね――君から見て、私は私を律せているかな」
「はあ?」
「君が知っての通り、ナルシシズムは行き過ぎればパーソナリティ障害と見做される。自分が歪み、他人も歪んでいると思わずにはいられない。私は私を正しく愛し、同じくらい他者を正しく愛していると、愛そうとしているのだと自認している。だが、私にとっての正しい愛が、俯瞰的に見たとき正しくないとしたら――私は、歪んだ私の眼で君を見たくない。光を背負い、翳る君のおもてを正しく見たい。脳が影を取り除き、君を神話の英雄にも似た姿にしたくない。私は君を正しく愛していると、他でもない君に肯定して欲しいんだ」
〝ふつう〟の会話ではないな、と言い切ってから後悔が込み上げてきた。どう取り繕っても、彼の望む下らない会話とは言えない。たったこれだけのことで、私は既に彼に愛されないことをしてしまったのだ。
「俺がお前を眩しいって言った理由だけどさ」
 律し切れなかった私からの問いかけの応えではなかった。この言葉が私の問いへの応えに繋がるのか、話を切り替えられたのか分からない。私は、ただただ、彼の口唇が紡ぐ言葉を待つしかなかった。
「お前の言う正しい愛の光を背負って、自分自身に影を落としながら生きていること。正しいのかどうか問い掛けなければならないほど怯えているくせに、人間の在り方はかくあるべきと自分にも他人にも言い聞かせていること。人間らしいよ。理想を抱いて輝くお前が。俺が本当に神様なら、お前を、お前だけを人間として慈しみたいくらいに」
 光は相変わらず彼の後ろに控え、逆光として彼の美しさを引き立てている。
 私は光と影を補正せず、なんとかして彼を正しく見つめようとした。
 彼は私を眩しいという。それは、彼が常に逆光を背負い、私が順光を受けているからだ。光が当たっているものなのだから、明るく見えて当然だ。
 彼の言う眩しさを、私は歪めることなく汲み取ることができない。
 彼の後ろに控える光が眩しい。逆光は容易く後光となり、私の正しさを睨みつけている。

1/23/2023, 3:53:48 PM

 窓から穏やかな日差しが射し込む午後ニ時半の夢の中にいた。
 夢の中の自室は、現実のものとは程遠い。少しくすんだ白い壁紙。飴色の床板と家具。大きな窓の傍らに、優雅と呼ぶに相応しい椅子。部屋全体が、時間が経過すること自体に憧憬を抱いている人間の夢を反映させているのだ。
 博の本来の自室は、新卒の社会人が住む典型的な1Kのアパートだ。窓こそ南向きの大きなものだが、壁紙は端の方が少し剥がれかけており、床は前の入居者がつけたと思われる家具を引き摺った黒い跡が残っている。優雅な椅子を置く場所などない。なにより、家賃八万円のアパートに時間が深まることに魅力を増していく憧れの家具を置いても不釣り合いだろう。
 だから、憧れの家具は夢の中に置いている。夜、眠りに就くときはもちろん、会社の昼休みに仮眠を取っているときでも、休日にうたた寝しているときでも、博は自分の意思で憧憬が詰まったこの部屋に訪れることができる。
 意識して見たい夢を見るということは難しいらしい。夢は脳が記憶や情報を整理するために発生するものだという一説がある。
 博は物心ついたときから見たい夢を見ることができた。幼い頃は大好きなヒーローになって敵をやっつけて母親に褒められる夢。少し成長して、何をやっても小学校の同級生に褒められる夢。中学生のときには、好きなグラビアアイドルが水着で迫ってくる夢。そして、高校、大学、社会人となるにつれて、自力では絶対に住めることはない古ぼけているからそこ魅力的な洋室の夢となっていった。
 博にとって、夢は現実の情報を整理するものではなく、現実では有り得ない物事を叶えるものだった。
 言ってしまえば、夢は逃げ場なのだ。唯一の特技は逃げ場を作ること。この特技は、博自身を慰めるものではあったが、特技が逃げ場を作ることしかないが故に、現実は何ひとつ上手くいったことがない。何事も上手くいかないから夢の逃げ場を作る。夢の逃げ場を作ることにしか長けていないから、何事も上手くいかない。どちらが先なのかと考えるだけ馬鹿らしいほどの不毛さだった。
 窓からは暖かな陽射し。午後ニ時半という時刻は、仕事をしているとちょうど集中力が切れる頃合い。今日の仕事の失敗を慰めるために作り出した夢だ。ここに挽きたてのコーヒー――そんなものは自分で淹れたことなどないのに――があれば最高だ。
 最高を得るために、博は椅子の傍らに脚の短い机を作り出し、その上に芳ばしいコーヒーが注がれた杯を置く。
 ドラマやCMの影響を強く受けた部屋の中に博はいる。現実では有り得ない、まさに空想と呼ぶに相応しい穏やかな午後だ。
 博は夢を現実にしようと思ったことはない。夢は初めから叶わないからこそ夢なのだ。
 幼い頃に大好きだったヒーローになって褒められるどころか、ヒーローの玩具を買ってもらったこともない。ヒーローごっこをすれば母親に下らないと笑われた。
 小学校ではいつも一緒に遊ぶグループの中にはいたけれど、誰の家にも遊びに行ったことがない。
 中学生では好きなグラビアアイドルが表紙を飾っていた少年漫画誌をコンビニで買っているのを同級生に見られ、いつの間にか学年中に「コンビニでエロ本を買っていたらしい」と噂されるようになった。
 現実を裏返すことなど不可能だ。本人の努力だけで周囲の環境を変えることはできない。
 博にとって、現実を変える意志を抱くよりも、夢という逃げ場を創る意思を高めることの方が簡単だった。
 だから、博を包み込むこの夢は博自身の努力の成果なのだ。
 そう思わなければ堪えられなかった。唯一の特技すら失ってしまうのだから。

1/22/2023, 3:30:45 PM

 非現実的なものを見たとき、自分は呆然とするのではなく、思わず笑ってしまう人間なのだと初めて知った。
 目の前にあるものは、時間遡行仮想装置――いわゆるタイムマシンらしい。
 搭乗者であるSの反応に構うことなく、開発チームの主任である高齢の女性博士が装置の説明を始めた。
「あんたに乗ってもらうコイツは、私達の最後の希望だ。人が愚かだったのか、臆病だったのか。そんなこたぁどうだっていい。ただ、取り戻したいだけなんだよ。取り戻すための希望がコイツで、コイツを動かせるのはあんたしかいない。だから、あんただって希望だ。分かるかい」
 時間遡行仮想装置のラボには、Sが見たこともないほどの人数の大人たちがいた。むしろ、この島にこれだけの大人がいたのかと感心すらしていた。
 この時点で、恐らく自分は場違いな思いを抱いている。非現実的な装置を見て笑ってしまったり、大人数を目の前にして感心してしまったりと、内心を知られればふざけているのかと怒られるに違いない。
 自分の意志に関係なく、最後の希望とやらを握らされる。真っ当な説明もなしにタイムマシンに乗せられ、大人たちが取り戻したいらしい何かを掴まなければならないらしい。
 こんな馬鹿げた話があるか、とSは憤慨した。せめて、取り戻したいものとやらの説明をすべきだ。タイムマシンなどという非現実的なものに搭乗させられるのだ。タイムトリップしたあとの自分の命を果たして保証してくれるのか。
 大人たちに問い詰めたいことは無数にあった。
 Sが声を荒らげて問おうとしたとき、映像で見たことがあるだけの島の長が穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「君が叫びたいことは分かる。私達が何を取り戻したいのか。こんな信じ難いものに乗せられて、自分は生きていられるのか。ああ、全て分かるとも。そして、我々が理解していることが君の叫びの答えだよ」
 長に同調するように、大人たちが揃って穏やかな眼差しをSに向けた。眼差しは冬から春に移ろうときに吹く生温い風にも似ていた。濁った春が体の内側を弄っているようで、あまりにも気持ちが悪い。
 一刻も早く、この生温く濁った風よ、止んでくれ。
 しかし、Sの願いが叶うことはなかった。気色の悪い季節の移り変わりは深まっていき、大人たちは均一な微笑みを浮かべながら拍手し始める。
「一度目の君がその憤りを叫んだ。二度目の君に疑問を知っていると告げたら、絶望のあまり脳波が乱れてしまい、遡行可能なスコアに届かず、仕方なしに圧縮するしかなかった。そこで、三度目の君だ。二度目の君に告げたように、三度目の君にも告げよう」
――短時間の範囲でなら、我々は既に時間遡行を可能にしている。君が私達の思う反応をしない度に、私達は時間を巻き戻しているのだ。時間を遡っても死にはしない。現に、私達は生きているのだから。
 腹の底から嫌悪が湧き上がり、Sはそのまま昼食に渡された大好物のドーナツを吐き出した。三日振りに食べたものだったのに。唾液と胃液にまみれたドーナツはあまりにも惨めだ。
「吐くのは初めてだ。もしかしたら今回の君が私達の希望を掴んでくれるのかもしれない」
 生温く気持ち悪い視線がどんどん熱を帯びていく。
 再びこみ上げる吐き気。Sは喉を締めて迫り上がってくるドーナツの残りをきちんと認識した。今まさに吐き出す、というタイミングで口元に手を当て、形が残ったままのドーナツを受け止める。生理的嫌悪感。一刻も早く手放したい気持ちと、自分に纏わりつく気持ち悪さをまとめて押し付ける勢いで、Sは吐瀉物を長に投げつけた。長の背広に無惨なドーナツがべしょりとくっつく。
「三度目の君はそうなるのか――ふうむ、君の反省を活かして、四度目の君にはドーナツを与えないでここに連れてこよう。私もある程度の憎まれる覚悟はあるが、ゲロを投げられていい気はしないからね」
 四度目の自分はドーナツを食べられないらしい。
 三度目の自分が大人たちの身勝手な遡行でなかったことにされようとしているのに、Sは四度目の自分によく分からない同情を向けていた。