久須

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 非現実的なものを見たとき、自分は呆然とするのではなく、思わず笑ってしまう人間なのだと初めて知った。
 目の前にあるものは、時間遡行仮想装置――いわゆるタイムマシンらしい。
 搭乗者であるSの反応に構うことなく、開発チームの主任である高齢の女性博士が装置の説明を始めた。
「あんたに乗ってもらうコイツは、私達の最後の希望だ。人が愚かだったのか、臆病だったのか。そんなこたぁどうだっていい。ただ、取り戻したいだけなんだよ。取り戻すための希望がコイツで、コイツを動かせるのはあんたしかいない。だから、あんただって希望だ。分かるかい」
 時間遡行仮想装置のラボには、Sが見たこともないほどの人数の大人たちがいた。むしろ、この島にこれだけの大人がいたのかと感心すらしていた。
 この時点で、恐らく自分は場違いな思いを抱いている。非現実的な装置を見て笑ってしまったり、大人数を目の前にして感心してしまったりと、内心を知られればふざけているのかと怒られるに違いない。
 自分の意志に関係なく、最後の希望とやらを握らされる。真っ当な説明もなしにタイムマシンに乗せられ、大人たちが取り戻したいらしい何かを掴まなければならないらしい。
 こんな馬鹿げた話があるか、とSは憤慨した。せめて、取り戻したいものとやらの説明をすべきだ。タイムマシンなどという非現実的なものに搭乗させられるのだ。タイムトリップしたあとの自分の命を果たして保証してくれるのか。
 大人たちに問い詰めたいことは無数にあった。
 Sが声を荒らげて問おうとしたとき、映像で見たことがあるだけの島の長が穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「君が叫びたいことは分かる。私達が何を取り戻したいのか。こんな信じ難いものに乗せられて、自分は生きていられるのか。ああ、全て分かるとも。そして、我々が理解していることが君の叫びの答えだよ」
 長に同調するように、大人たちが揃って穏やかな眼差しをSに向けた。眼差しは冬から春に移ろうときに吹く生温い風にも似ていた。濁った春が体の内側を弄っているようで、あまりにも気持ちが悪い。
 一刻も早く、この生温く濁った風よ、止んでくれ。
 しかし、Sの願いが叶うことはなかった。気色の悪い季節の移り変わりは深まっていき、大人たちは均一な微笑みを浮かべながら拍手し始める。
「一度目の君がその憤りを叫んだ。二度目の君に疑問を知っていると告げたら、絶望のあまり脳波が乱れてしまい、遡行可能なスコアに届かず、仕方なしに圧縮するしかなかった。そこで、三度目の君だ。二度目の君に告げたように、三度目の君にも告げよう」
――短時間の範囲でなら、我々は既に時間遡行を可能にしている。君が私達の思う反応をしない度に、私達は時間を巻き戻しているのだ。時間を遡っても死にはしない。現に、私達は生きているのだから。
 腹の底から嫌悪が湧き上がり、Sはそのまま昼食に渡された大好物のドーナツを吐き出した。三日振りに食べたものだったのに。唾液と胃液にまみれたドーナツはあまりにも惨めだ。
「吐くのは初めてだ。もしかしたら今回の君が私達の希望を掴んでくれるのかもしれない」
 生温く気持ち悪い視線がどんどん熱を帯びていく。
 再びこみ上げる吐き気。Sは喉を締めて迫り上がってくるドーナツの残りをきちんと認識した。今まさに吐き出す、というタイミングで口元に手を当て、形が残ったままのドーナツを受け止める。生理的嫌悪感。一刻も早く手放したい気持ちと、自分に纏わりつく気持ち悪さをまとめて押し付ける勢いで、Sは吐瀉物を長に投げつけた。長の背広に無惨なドーナツがべしょりとくっつく。
「三度目の君はそうなるのか――ふうむ、君の反省を活かして、四度目の君にはドーナツを与えないでここに連れてこよう。私もある程度の憎まれる覚悟はあるが、ゲロを投げられていい気はしないからね」
 四度目の自分はドーナツを食べられないらしい。
 三度目の自分が大人たちの身勝手な遡行でなかったことにされようとしているのに、Sは四度目の自分によく分からない同情を向けていた。

1/22/2023, 3:30:45 PM