別れ話が長引いて、最終のバスを逃してしまった。
さっきまで別れ話をしていた者同士が、田舎の夜道を並んで歩いて帰ることになった。

この道を二人で数え切れないほど歩いた。
だから、この道歩きたくなかったんだよなぁ。
いろいろ思い出すに決まってるから。
こんな日が来るとは思いもしなかった頃の、しあわせな僕ら。
東京に行ってしまえば、もうこの道を歩くことはないだろう。
たとえ歩くことがあったとしても、もう二人で歩くことはないのだ。

彼女は横を歩きながら、ときどき鼻をすすっている。
車さえも通らない。
街灯も寿命寸前のように暗い。
道端の草が風にそよぐ音だけ聞こえている。
何の言葉も出てこない。
もどかしく空を見上げると、今日も見事な満天の星空だった。
この星空も何度二人で見ただろう。

俯いた彼女の長い髪が星明かりの下で揺れるのをきれいだなと思いながら、相変わらず何も言えないまま黙ってひたすら歩き続けた。

ここ数年のすべてをなぎ倒すかのような台風には、さすがにそんなことも言っていられなくなってきたが、子どもの頃、私はそれほど台風が怖くはなかった。
むしろ少し楽しみにしているようなところがあった。

かろうじて記憶しているくらいだから、4歳か5歳か、それくらいの年齢だったと思う。
大型台風のために住んでいた付近一帯停電になったことがある。
今のように充電系家電が充実していたわけではないから、懐中電灯とろうそくが明かりだった。

今から思えば、まだ幼い子ども二人を抱え、停電の中でもさまざまな家事を片付けねばならず、母は大忙しだったろう。
そんな母をよそに、雨戸を叩く強い雨風と暗さから、恐怖やら興奮やら驚きやらがごっちゃになった子ども二人は変なテンションになっていた。

そんな子どもらの気を紛らわせるために、母は和室の押入れの襖の前に我々兄妹とろうそくを置いて、影絵を始めた。
ろうそくの前にかざした母の手の影が、ぼんやり照らされた襖の上で白鳥、犬、狐と変化する。
大人になった今からすれば、感動するのもなかなか難しい単純な遊びなのだが、まだ幼かった私はその様に激しく感動した。
それからしばらくの時間、少ないレパートリーをしつこく繰り返しながら、兄妹で影絵遊びに熱中しているうちに、電気が復旧したような気がする。

不安ながらも楽しく遊んだこの記憶のおかげで、台風や停電に対して恐怖心だけ持つようなことなく成長した。
あのときの母の咄嗟の思いつきが、そうやって私の記憶を温かく支えてくれている。
あれからもう数十年経った今でも、停電と聞くと、あのろうそくに照らされて薄橙になった襖と、そこに浮かぶ漆黒の白鳥のかたちを思い出すのだ。

ねぇねぇ
君と僕
二人の物語を
地球の歴史の片隅に残したいんだ
できるだけハッピーで
できるだけ長いやつ
君を笑わせるのは得意でしょ？

この思いは
もちろんあなたにも
そして誰にも
知られることなく
私にすら秘密にするの

土の中でずっと
見つかることのない宝石みたいに

こういう気持ちのいい天気の日は、夕方からベランダに丸椅子を二つ持ち出す。
古い団地のベランダは狭くて無骨で、おしゃれなバルコニーとは程遠いが、毎日手入れするいくつかの小さな鉢植えの花と、ちょうどいい陽の当たり具合で、私にとってはお気に入りの場所だ。

いそいそと並べた丸椅子の一つにポットとマグカップを置き、残りの丸椅子に腰掛ける。
ベランダの外には団地の緑地が広がっていて、この高さからは遊歩道に沿って植えられた木々が見える。
少しずつお茶を飲みながら、風に揺れる木々が濃いのや明るいの、いろいろな緑を見せてくれるのをぼんやり眺める。
空のあの青は何だろう、セルリアンブルーだっけ、そういう青だなぁなどと考えながら、お菓子をつまむ。
やわらかな風に乗って、子どもたちの声が聞こえてくる。
近くの小学校の下校時間なのだ。
楽しげにはしゃぐ男の子や女の子の声が、晴れた空に団地に響きわたる。

娘や息子も、あのくらいの年の頃があったんだっけ。
今じゃ二人ともすっかりおばさんおじさんになり、私はおばあさんになったけれども。
「おかあさーん！」
大きな声で私を呼び、駆け寄ってくる幼い我が子の姿は、いつまでもいつまでも愛らしい記憶だ。

木々の間を飛び交う鳥のさえずりに伴奏するように、子どもたちの笑い声がこだまする。
微笑ましい協奏曲を聞きながら、私はまたカップにお茶を淹れる。