潮の狭い1DKの部屋で、沙依はひたすら課題用の指定図書を読んでいた。小さな文字がページにぎっしりと詰められているその本を読み進めるのは、普段本を読まない沙依にとってはかなりの苦行で、先ほどから視線が同じ行を行ったり来たりしている。
一時間ほど費やして進んだページはたったの数ページ。嫌気が差してきた彼女は、とうとう本を閉じた。その横で静かに資格取得を目指して問題集を解いていた潮は、その様子を横目で見やると鼻で嗤った。
「投げ出すのが早いな」
だって、と唇を尖らせて、沙依は言った。
「難しいから読んでてつまんないんだもん」
「大学の参考書なんてみんなそんなモンだろ。課題用の指定図書なんて特に」
「うーくんはもうレポート書いた?」
沙依は潮を見つめると小首を傾げた。彼は眉をひそめると呆れたように溜息をつく。
「もう出したよ。締切いつだと思ってんだ」
明日、と彼女は照れたように頬を掻いた。
「あーあ」そう言いながら沙依はごろりと床に寝転んだ。「明日世界が終わったらなあ。そしたらレポートなんて書かなくていいのに」
「しょうもない奴だな」
「もし、明日で世界が終わるとしたら、うーくんはどうする?」
頭をごろりと動かして、彼女は潮を見上げた。彼は彼女を冷たい目で見下げると、心底呆れたとでも言いたげに肩を竦めた。
「……お前、そんなしょうもねえことを喋ってる余裕があるなら、課題をさっさと進めろよ」
「ねえ、どうする? 気になって、課題が手につかないの」
深々と潮は溜息つくと広げていた問題集を閉じた。机の上に頬杖をつくと、遠くを見やる。
「わたしだったら、うーたんと一緒にいたいなあ」沙依はそう言うと目を閉じてうっとりとした表情を浮かべた。「最後まで好きなひとと一緒にいたい」
「俺は別にどうもしねえ。いつも通りの時間に起きて、飯食って、大学行って、バイト行って、帰ってきたら寝る。ただそれだけ」
「えー! わたしと一緒にいてくれないのぉ?」
残念そうに言う彼女に、ふっと潮は笑った。
「お前はここにいるつもりだろ? だから最後はここに帰ってくるよ」
最悪だ。こいつの提案に乗ったのは間違いだったかもしれない。
ローダは苛々しながら、いつ終わるとも知れない廊下を突き進んでいた。複雑な魔術によって構成されているこの空間は、見た目よりもずっと長く、先は暗闇に呑まれて果てが見えない。
「あんまり先々進まないでよ~、ローダちゃん」
へらへらとした声が後ろから追いかけてくる。元はと言えば、こいつがこのダンジョンを案内するからと言うから、渡りに船だと思ったが、入口をくぐって以降、自分の前を歩くことがない。時折、後ろから右だ左だと指示されるだけ。
(それって案内って言わなくない?)
しかもそれでいて行き止まりに当たることもあって、段々と腹が立ってきた。振り切ってやろうと、下手すれば息が上がりそうなほど足早に歩いているというのに、彼は事もなげに着いて来る。
「ローダちゃん、待ってよ~」
ローダは立ち止まると振り返った。ローダより数歩後ろを歩いていた彼も止まった。
「あのね、あなた、案内するつもりないんだったら、黙っててよ」
彼女がぴしゃりとそう言うと、彼は不満げに唇を尖らせたが、すぐにへらりと笑った。そのへらへらした顔にまた腸が煮えくり返ってきたローダは、ふんとそっぽを向くと、再び歩き始めた。
今度は足音が追ってこない。
(せいせいしたわ)
何を聞いてものらりくらり。時折言う道筋も嘘ばっかり。こんなことなら、自力で探索した方がまだましだというもの。このダンジョンには魔物がいないみたいだから。
そう思いながら、ローダが先をずんずんと進んでいたときだ。
急に目の前に骸骨の魔物が現れた。手には長物と盾を持っている。対するローダは、ほぼ丸腰だった。元々戦闘が得意でないのに加えて、あいつが魔物は出ないと言い切っていたから、携行もしていなかった。
どうしようと体を強張らせた一瞬の隙に、骸骨はローダに向かって長物を振り下ろした。しまったと思ったが、体はどうにも動かない。せめてもの抵抗とばかりに腕で顔を覆ったが、この長物の前では何の役にも立たないだろう。
死ぬ――その二文字が脳裏に浮かんだその瞬間、背後の方から飛んできた何かで、骸骨は吹き飛ばされた。目を白黒させるローダの肩を誰かが掴んだ。ひっと息を呑む彼女の耳元で、
「オレの手の届かないところに行かないでよ~、ローダちゃん。護れなくなっちゃうからさ」
彼がいつもの調子とは打って変わって真面目な声音で囁いた。
ローダは振り向いた。彼は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「なるべく快適に進んでほしいなって思ってたんだけど、苦労する方がお好みかな?」
「……先回りして魔物を倒していたっていうこと……?」
「オレの手が届く範囲でね~」
彼女の問いにそう事もなげに返す彼を、初めてローダは見直した。
「……ありがとう、ウェルナー」
気まり悪くて彼女は俯いた。
「どういたしまして。お役に立てなのなら嬉しいよ、ローダちゃん」
彼はそう言うと、俯く彼女の頭を優しく撫でた。
警邏隊に所属するディミトリには誰にも言えない秘密があった。知られてしまったが最後、その者を口封じするはめになる秘密が。それは相手がそれを周囲に洩らしてしまうのを防ぐため――要は相手が信用できないからであり、それが彼の直接の弱味になるからだった。
ひょんなことから、フランチェスカは彼が隠していたその秘密を知ってしまった。彼はその秘密によって苦しんでいたので、彼女は迷わずに手を差し伸べた。それは、彼にとって驚きだったようで、驚きと警戒で身を固くしていたが、やがて彼女の手を取った。彼にとって、彼の秘密を知って恐れぬ者を見るのは初めてだった。
その日はちょうど、満月の夜だった。
口外すると殺すと脅すディミトリに、別に誰にも言いませんよとフランチェスカは軽く請け負った。彼にとっては喉元に刃を突きつけられているようなものなのだろうが、彼女にとってはよくある類の言えない秘密だった。誰にだって、人に知られたくないことの一つや二つあるものだ。それはフランチェスカにだってある。ゆえにお互い様ということだ。
フランチェスカは翌朝のための仕込みをするために、詰所の台所で黙々と食材を切っていた。とんとんとんとリズミカルな音が鳴る。この音に耳を澄ませていると、いつの間にか、必要以上の量を切っていることがあるから気をつけないといけない。
「フランチェスカ」
ふいに彼に名前を呼ばれたので、彼女は平静を装って、持っていた包丁を俎板の上に置いた。余所見をしながら作業していたら、指を切ってしまうかもしれない。それは自分のためにも、彼のためにもよくないことだ。
「ディミトリさん、どうかされました?」
振り向いた彼女に彼は言った。
「そろそろ……ここを出るつもりだ」
彼女は目をぱちくりとさせた。
「随分と急なお話ですね」
「俺はこういう体質だから、一ところに長居し過ぎないようにしている。ここもそろそろ潮時だと思っていた……」
「……そうですか」彼女はさみしげな微笑みを口許に浮かべた。「さみしくなりますね」
「お前も一緒に来ないか」
彼女は再度目をぱちぱちさせたあと、俄かに目を輝かせ始めた。
「わたしもご一緒していいんですか?」
「ああ。……お前にまとわりつく追手くらいなら簡単に追い払ってやれる」
嬉しいと微笑んで、フランチェスカは彼の手を取った。当初は即座に振り払われたそれが、振り払われなかったこと。それこそが彼からの信頼の証だと感じて、より幸福を覚えて彼女は彼の手を握り締めた。おずおずと握り返した彼が、困ったような顔をしているのがおかしかった。
ソフィアは彼の誘いに一も二もなく乗ったことを、若干後悔し始めていた。先導する彼の後ろについて、螺旋階段を降りているが、階段はいつまで経っても終わる気配を見せない。
どんどん周囲の空気が湿っていく。ひんやりとしていて肌寒くなってきた。ソフィアは薄手のカーディガン越しに二の腕をさすった。
「ね、ねえ……ノエル。いつになったら着くの?」
恐る恐る口を開いたソフィアに、彼は前を向いたまま答えた。
「あともう少しだよ」
わかったと小さく返して、ソフィアは押し黙った。
(……本当に……こんなところで生活してたのかな?)
仮にも一貴族の嫡子をこのようなところに軟禁するだろうか。いくら、彼が不思議な能力を持っていたからといって。
彼の靴音が止まった。釣られてソフィアは立ち止まる。自分のあと数歩先に、物々しい錠前で施錠された鉄扉が鎮座していた。彼は懐から鍵を取り出すと、手慣れた動作で錠前に差し入れる。重たげな音を立てて、錠前が外れた。
「どうぞ」彼はそう言いながら鉄扉を押し開けると振り向いた。「狭い部屋だけど」
彼が避けてくれたので、そろそろと中に入ったソフィアは思わず、息を呑んでしまった。
申し訳ない程度の家具しかない、ひどく小さな部屋だった。粗末なベッドと、簡素な机が隅に置いてあるだけで、彼の私物らしきものは一つもない。
ソフィアは隣に立つ彼を見上げた。彼は彼女の視線に気づいたのか、彼女を見つめ返すとにこりと微笑んだ。
「どうかしたかい?」
「……一日中、この部屋にいなくちゃいけないの?」
「いいや。屋敷の中は、まあ、それなりに出歩くことができたよ」彼はそう言うと小さく笑った。「よく書庫に篭っていたよ。うちの者は誰も来ないからね。食事が差し入れられる時間までに、戻っていなくてはいけなかったけど」
懐かしげに目を細めて微笑む彼を、ソフィアは信じられない思いで凝視していたが、やがてふっと息をついた。
「早く……この家を出て行きましょうね」彼女は彼の手を取ると決意を込めてぎゅっと握り締めた。「わたしはただの村娘だから、あなたには苦労をかけることになると思うけれど」
「君と一緒なら何だって苦じゃないよ」彼はウインクした。「この部屋を見ればわかるだろう?」
ソフィアは目をしばたいた。
「まさか、そのために連れてきたの?」
いいや、と彼は朗らかに笑った。
隊員たちの詰所の台所でせっせと洗い物をしていたフランチェスカの耳に、周囲の雑談が入ってきた。フっただの、フラれただの、がやがやと大声で喋っている。
手を動かしながら、つい彼女は回想した。自分の失恋を自覚したのは、勤め初めてから半年くらい経った頃だったろうか。
貧民街育ちのフランチェスカは、たまたま街に出た際、身なりのいい少女を馬車から庇ったことがあった。その少女は領主の娘イザベラで、変わり者で有名だった。
イザベラは自分を庇って怪我をしたフランチェスカを屋敷まで連れ帰り、手当てをすると共に、そのまま自分の世話係として傍に置いた。屋敷の人間から猛反対を受けていたが、それでも彼女は強硬した。
余所の令嬢のご多分に漏れず、我が侭なところがあり、理不尽なことを言って、フランチェスカを困らせたり振り回したりすることもあったが、顧みると概ね悪いひとではなかった。
イザベラの傍には、フランチェスカの他にも一人、家庭教師がいた。家庭教師ながらも、彼女の傍に常にいる様は、どちらかというと執事を思わせた。彼は分け隔てのないひとで、朗らかな人柄だった。フランチェスカにも親切で、イザベラの我が侭に困るフランチェスカをよく助けてくれた。
周囲はみんな敵だという環境で生きてきたフランチェスカにとって、何の含みもない素直な親切は初めてのことで戸惑った。戸惑いはやがて彼への好意に変わり、そして恋心となっていたらしい。今、振り返ってみれば、だが。
イザベラの世話係になって、半年ぐらいが経った頃。いつものように彼と談笑していたとき、イザベラは自分の母親を伴って、二人の元にやってきた。フランチェスカはそのとき初めて、イザベラの母親——要は領主の奥方を見た。
若く綺麗な女性だった。その美貌を望まれて、領主の後妻となったというのも頷ける。彼女は二人に常日頃の献身に対する謝意を述べると、そのまますぐにイザベラと共に去っていった。
自分と違って、彼は何度も見たことがあるだろう。綺麗なひとだねと彼に話しかけようとして、フランチェスカが横を向いたとき、彼は熱い眼差しを遠くに向けていた。その視線を辿った先にいたのは、領主の奥方だ。
それを見たときに、フランチェスカは、彼が使用人という身分では許されぬ想いを秘めていることをすぐに悟った。そして、そのとき覚えた痛切な喪失の痛みによって、初めて、自分が彼に恋をしていたことを知ったのだ。
(……まあ、全てはもう、遠い思い出のようなものだけど)