『透明な涙』
覚えている限りでは、小さな頃は純粋な子だったように思う。主観と若干の思い出補正が掛かってはいるけど。
映画はジャンルに関わらず全部泣いたし、
微妙な高さの棚に頭ぶつけて泣いたこともあったっけ。
昔は友達とつまらない事で喧嘩して、お互い泣いた。
で、目を赤くしながら仲直りするんだった。
今になっては、そういう事では泣かなくなった。
子どもの頃は、大人は強いから泣かないんだ。
そう思っていたけれど、自分が大人になって分かった。
大人になるって、弱さを見せられなくなるってことだ。
弱い自分を守ってくれる人は、もういないから。
社会の荒波ってやつに揉まれて、飲み込まれて、
あの頃の純粋さは、とっくに流れてしまったから。
濁った涙を見られたくないから、大人は涙を流さない。
『そっと』15/478
私には、ほかに何もいらない。
叶うならば、これが永遠に続けばいい。
不思議と惹かれ合った私たちの、この時間が。
本名なんか知らなくても、彼女の手の温もりは、
胸の鼓動は確かにここにある。確かに繋がっている。
吹けば飛ぶような今日が、なぜだかとても心地良い。
『あの夢のつづきを』未完10/463
その日、夜が明けた。
空を覆う闇が打ち払われ、穏やかな光が大地を照らす。
ある勇者が魔王を倒したことに人々が気付くには、そう時間を要さなかっただろう。
各国で歓喜の声が上がり、涙を流し、勇者を賞賛した。
道中勇者が立ち寄った国、救った村、希望を与えられた人々は、凱旋する勇者を祝福しようと待ちわびていた。
しかし、彼は現れなかった。
日は流れ、ある王国の謁見の間にて。
「おお!よくぞ帰ってきた、待ちわびておったぞ。
魔王討伐、まことに見事であった!
国を、いや、世界を代表して感謝しよう!」
「は…」
「そう畏まらなくともよい。其方は世界の英雄だ。
…そうであったな。其方は世界を救った。
どれほどの財宝もその功績には値しないとは分かって
おるが…其方、何か望むものはあるか?
儂が、世界が実現できるものは何でも叶えよう。」
「…身の丈に合わぬ物は望みません。道中で馬が傷付い
てしまったので、新しい馬と鞍を、そして幾らかの旅
費を頂ければそれ以上のことはありません。」
「まこと、欲の無い男であるな。相分かった、明日には手配しよう。それまではこの街で羽を休めるがよい。」
「は…」
「…」
「…それにしても…いやはや、未だに夢を見ておるよう
だ。儂が目の視える内に、再びこの澄み渡る青空を仰
ぐことができるとは。」
「…のう、其方はそう思うであろう?」
「…本当に。夢のようでございます。」
「そうか…長話をしたな。下がってよいぞ。」
「は…失礼します。」
「のう…夢か現か、其方の目にはどちらが映るのか…」
『哀愁を誘う』13/453
ふと、秋の風に当たりたくなった。
陽の落ちて暗くなった空。窓には孤独に月が満ちて、
私は書きかけのノートを閉じて階段を降りる。
口うるさい親にはペンのインクを買いに、と伝えた。
悩んだけれど、着替えるのはやめた。
もこもこのパジャマにくるまっていたかった。
そうでないと、どこまでも飛ばされそうだった。
重たい扉を開けると、冷ややかな風が顔をかすめた。
いい気分だ。
いつもは自転車で飛ばす道を、ゆっくり歩いた。
街灯もない道だから、普段は少し怖い時間。
でも今だけは永遠に続いてほしかった、なんて矛盾を、
空に語りかけながら、歩いた。
柔らかな光をたたえた月は、聞いてくれている。
途中で、道を逸れた。公園への道。
今時の子には退屈な遊具が並ぶ、窮屈な公園。
私には、少し大きいくらいだと思ったけれど。
錆びついてくすんだ青色のブランコに座った。
しばらくキーキーと小気味いい音を鳴らしていたが。
隣の空いたブランコが、なぜだか恐ろしかった。
それで、次は滑り台に向かった。
滑る所が金属の、無骨なデザインが気に入った。
滑ったあと、しばらくそこにうずくまっていたが。
無性に後ろが気になって、いたたまれなかった。
次は、シーソーに座った。というか、最後の遊具。
あまりにも馬鹿らしかった。
その後、家路についた。
帰り道はなんだか怖くて、早足だった。
家に着くと、母親がいた。
車の縁石に座って、空を見上げている。
聞くと、星を見ていたのだと。らしくもない。
冷えてきたね、とすぐに家に入ってしまった。
なんだ、星を見ていたんじゃなかったのか。
自室で、ペンをくるくると回していた。
まだ、なんとなくやる気が出なかった。
もう寝てしまおうか。
そう考えて、ふと気付いた。
パジャマ。私はパジャマを着て出ていた。
母親はそれに気付かなかったのか。
ペンを置いて、外を見た。
窓には、もう孤独な月はいなかった。
『視線の先には』14/440
授業が始まってから何分経ったかな。
時間も忘れて真剣に先生の話に耳を傾けて…はなくて、
隣の席の彼⸺桐谷くん、書道部で涼しげな雰囲気のする無口な男の子⸺のことをずっと見てた。
あ、ノートをね。うん、ノートを見てた。
まじまじと見る勇気もないし、そもそも授業中だから横目でこっそりとね。
流石に綺麗な字。少し薄めで細かい字をノートに乗せていく。その精密な作業をこなす彼の手は、とても白く指がすらりと細く伸びている。
ピアノを弾いている姿も似合うなあ、なんて思いながら視線をちらりと顔に向ける。
桐谷くんはとても勉強が出来る人だ。ノートに板書を写すだけじゃなくて、先生の話もちゃんと聞いているみたい。度々うんうんと頷いていて、何だかかわいらしい。
…いや、ノートを見てるんだけどね?
ぱちっ。目が合った。
…え?誰と?今誰と目が合った?
気がつくと、桐谷くんは冷やかな目でこちらを見下ろしていた。そう感じるのは彼の身長のせいではないよね。
「…どうしたの」
気まずい。ただでさえ授業もまともに聞いてないのに、桐谷くんの顔に見惚れてましたなんて言えるわけない。
「えー…っとねぇ…」言葉に詰まる。
あたふたする私を見て彼はふっと顔を少し緩ませた。
「お喋りなら、授業終わったらね」
そう言って桐谷くんはすぐ前を向いた。
でも気のせいかな、さっきよりも表情和やかじゃない?
あー、今なら何でも頑張れちゃうぞ、私。