『哀愁を誘う』
ふと、秋の風に当たりたくなった。
陽の落ちて暗くなった空。窓には孤独に月が満ちて、
私は書きかけのノートを閉じて階段を降りる。
口うるさい親にはペンのインクを買いに、と伝えた。
悩んだけれど、着替えるのはやめた。
もこもこのパジャマにくるまっていたかった。
そうでないと、どこまでも飛ばされそうだった。
重たい扉を開けると、冷ややかな風が顔をかすめた。
いい気分だ。
いつもは自転車で飛ばす道を、ゆっくり歩いた。
街灯もない道だから、普段は少し怖い時間。
でも今だけは永遠に続いてほしかった、なんて矛盾を、
空に語りかけながら、歩いた。
柔らかな光をたたえた月は、聞いてくれている。
途中で、道を逸れた。公園への道。
今時の子には退屈な遊具が並ぶ、窮屈な公園。
私には、少し大きいくらいだと思ったけれど。
錆びついてくすんだ青色のブランコに座った。
しばらくキーキーと小気味いい音を鳴らしていたが。
隣の空いたブランコが、なぜだか恐ろしかった。
それで、次は滑り台に向かった。
滑る所が金属の、無骨なデザインが気に入った。
滑ったあと、しばらくそこにうずくまっていたが。
無性に後ろが気になって、いたたまれなかった。
次は、シーソーに座った。というか、最後の遊具。
あまりにも馬鹿らしかった。
その後、家路についた。
帰り道はなんだか怖くて、早足だった。
家に着くと、母親がいた。
車の縁石に座って、空を見上げている。
聞くと、星を見ていたのだと。らしくもない。
冷えてきたね、とすぐに家に入ってしまった。
なんだ、星を見ていたんじゃなかったのか。
自室で、ペンをくるくると回していた。
まだ、なんとなくやる気が出なかった。
もう寝てしまおうか。
そう考えて、ふと気付いた。
パジャマ。私はパジャマを着て出ていた。
母親はそれに気付かなかったのか。
ペンを置いて、外を見た。
窓には、もう孤独な月はいなかった。
『視線の先には』14/440
授業が始まってから何分経ったかな。
時間も忘れて真剣に先生の話に耳を傾けて…はなくて、
隣の席の彼⸺桐谷くん、書道部で涼しげな雰囲気のする無口な男の子⸺のことをずっと見てた。
あ、ノートをね。うん、ノートを見てた。
まじまじと見る勇気もないし、そもそも授業中だから横目でこっそりとね。
流石に綺麗な字。少し薄めで細かい字をノートに乗せていく。その精密な作業をこなす彼の手は、とても白く指がすらりと細く伸びている。
ピアノを弾いている姿も似合うなあ、なんて思いながら視線をちらりと顔に向ける。
桐谷くんはとても勉強が出来る人だ。ノートに板書を写すだけじゃなくて、先生の話もちゃんと聞いているみたい。度々うんうんと頷いていて、何だかかわいらしい。
…いや、ノートを見てるんだけどね?
ぱちっ。目が合った。
…え?誰と?今誰と目が合った?
気がつくと、桐谷くんは冷やかな目でこちらを見下ろしていた。そう感じるのは彼の身長のせいではないよね。
「…どうしたの」
気まずい。ただでさえ授業もまともに聞いてないのに、桐谷くんの顔に見惚れてましたなんて言えるわけない。
「えー…っとねぇ…」言葉に詰まる。
あたふたする私を見て彼はふっと顔を少し緩ませた。
「お喋りなら、授業終わったらね」
そう言って桐谷くんはすぐ前を向いた。
でも気のせいかな、さっきよりも表情和やかじゃない?
あー、今なら何でも頑張れちゃうぞ、私。
『遠い日の記憶』7/426
年々暑さを増す夏の、鬱陶しい程に照りつける太陽。
逃げ込む日陰もなく、自分の影に自分は入れない。
空の澄んだ青さに悪態をつきながら進む。
どこまでも風景の変わらない平坦な道だった。
そして、それはずっとこれからも。
夏の青色はずっと変わらないし、
日差しを受けながらも歩き続けなきゃいけない。
けれど、ポケットの中の飴玉はすっかり溶けていた。
『星空』13/419
「あっ!パパ、みてみて、流れ星だよ!」
「おお、珍しいね。どこだい?」
「あっちの空にね、ひゅーっ、て飛んでったの!」
「残念、パパも見たかったなあ」
「ねえパパ、どうして止まってる星と動いてる星があるの?」
「うーん、難しい質問だね。パパは詳しくないから…ママが帰ってきたら一緒に聞こうか」
「うん!ママ、ものしりだからね!」
⸺遅いな。もうとっくに帰っていても良い時間だが…
壁掛け時計は21時半を指している。
絢もママを待とうと頑張っているが、そろそろ限界も近そうだ。
「絢、もう遅いからおやすみしようか。流れ星のことは明日聞こう」
「やだ、待つもん…」
とろけた声が返ってくる。
「…そうだ、絢ちゃん。パパ、星についてのお話をしてあげようか」
小さな頭がこくん、と動いたので、僕はソファに寝そべっていた絢を寝室に抱えて行く。
『星の銀貨』。グリム童話でも有名なものの一つ。
絢をベッドに寝かせ、自分も添い寝しながら、読み聞かせをする。
「…おしまい。どうだったかな…って、もう寝てるね」
短い話だったのだが、絢は小さな寝息を立てていた。
どうやらだいぶ無理をして起きていたみたいだ。
起こさないようゆっくりと体を起こし、寝室を後にする。
そうだ、常夜灯は点けておかないと、ママに怒られてしまうな。
…紬はいつ帰ってくるのだろう。これほど帰りが遅くなったことは今まで一度たりともなかった。
頭を、不安が掠める。
銀貨なんて要らない。紬を連れてきてくれればいい。
初めて、流れ星に願った。
夜空を見上げると、彼方から星が一筋、こちらへ向かってくるところだった。
『赤い糸』16/406
きっと、生まれてから私たちは、きっと。
繋がっていたんだ。運命が結んだ、その糸で。
偶然に出会った私たちは、必然に惹かれ合った。
私は、自分であなたを選んだと思っていた。
でも、違ったんだ。運命が私たちを引き寄せたんだ。
指が重なってから、私の人生に色が生まれた。
たくさんの思い出ができた。いい事も、わるい事も。
たくさん喧嘩して、たくさん愛し合った。
次第に、糸は絡まってきた。
身動きが取れなくなってきた。
あなたの傍から、離れられなくなった。
離れる理由もないから、別に構わなかった。
距離もずいぶんと近くなって、居心地が良かった。
糸が体に食い込んで、苦しい。けど、嬉しい。
あなたをこれ以上なく近く感じられるから。
あなたのことだけをずっと見ていられるから。
運命の赤い糸、なんて信じない。
だって、小指に結んだ赤い糸は、既に切れている。
その代わりに、あなたと。左手の薬指に結んだ糸で。
糸を赤色に染めて、私たちは繋がっているんだ。