おがわ

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4/1/2024, 8:48:21 AM

                  “幸せに”
 
 幸せになってほしいからと、両親から幸夫──さちお──という名を賜った。──ゆきお──ではなく──さちお──である。この古風で珍しい名前の響き故に幸夫はからかわれることになり、不幸にも自らの名を呪い続けることになってしまっていた。
 
 
 会社帰りの地下鉄で、疲れきった幸夫は満員電車の隅で圧迫されては不満を募らせていた。
大抵は、だいたいこんなに狭いのに香水きついんだよ、だとか、こいつ肩にこんなにフケのってて恥ずかしくないのかよ 、とかいう愚痴だった。
というのも、今日の契約でもまた名前のことを、変わってますね、なんていわれて、そのくせ契約は成立せず仕舞いで、もう散々だったからだ。
「うちの会社の課長も同じ名前だよ」とかいう大学時代からの友人の言葉もうざったくて仕方ない。
誰が年寄りの名前と同じなんかで喜ぶかよ、どうせなら俳優とかのお洒落で格好いい名前がほしかった。そこまででなくても、“普通”に使える名前がよかった。

 中学の頃だってそうだ。
引っ越してきたばかりの自己紹介で嗤われてからは、もう大きい声では名前を言えなくなった。
既に出来上がっていた友達グループにも入れず、話しかける勇気も持ち合わせていなかったため、中学では誰よりも勉強して皆を出し抜き、見返してやろうと思った。俺を馬鹿にした奴らを許すものかと激情に駆られていた。
本当は幸夫自身も少し考えすぎだとは気付いていたが、何かにこの理不尽な怒りを押し付けずにはいられなかったのだ。

幸夫はこの名前を恨んだ。
そして名前がちょっと古くさいからっていちいち口にする人間の厭らしさにも辟易した。
ちっとも幸せになんてなれやしない。

 牢獄のような電車から吐き出されるように解放されると、安堵したのも束の間、駅構内を彷徨う一人の外国人らしき人影を見た。旅行客だろうか、大きなリュックサックを背負って一人おどおどしている。このあたりは分岐が多く複雑で、確かに迷いやすいかもしれない。だが、幸夫は疲れは果てていた。明日も朝が早い。駅員に任せようとふらりと避けようとしたが、誰も相手にしてくれなかった中学の頃を思いだし、あの時誰でもいいから声をかけてほしかったことが脳裏をよぎった。埃を被っていた勇気が鈍く光りだして、幸夫は不意に踵を返した。俺は偽善者だ。幸夫はそう思った。背中のあたりが少し強ばっているのを感じる。しかし彼の歩みは止まらず、一歩また一歩と足が動いた。
 
 
 迷っていた外国人を助け終えると、どっと疲れがでた。だが、心地よい充実した疲労だった。まさか学生時代の英語の勉強がこんな形で役に立つなんて。あの孤独だった学生生活も捨てたもんじゃないなと少し感心した。去り際に、アリガトウ、とカタコトの日本語で言われたときはちょっぴり照れてしまった。人に感謝されるのはこんなに嬉しいことなのか。まるで映画の主人公にでもなったかのように、一つ大きく深呼吸して帰路についた。夜風がやさしく吹く。火照った顔に涼しくあたる。
 
 幸夫は思った。俺は自分が幸せになれないことを嘆いていたが、周りの人に幸を届けることで、自分自身も幸せになれるんだと。自分一人の幸せのためでなく、身近な人から支えて幸を届けようと、その時自身の名前の意味を理解した。そして、幸夫という名前をちょっとだけ好きになれた気がした。
 
 
 足取りが軽い。幸夫の肩は風をきってぐんぐん進んだ。夜の闇はは刻々と町の明かりを奪うなか、幸夫ひとりはその心にやさしく明かりを灯していた。

 
 

               

3/26/2024, 2:22:31 PM

 『小学四年生』       “ないものねだり”
 
 
 修了式の日の帰りはいつもより早い。冷たい風がびゅうびゅうと吹いているのに、太陽はまだはっきりとした影をつくりだしていた。
 帰った後に遊ぼうと約束してみんなが楽しそうに下校するなか、ぼくは今日もらった通知表のことばかりを考えていた。
 
 三年生の頃から変わらず成績はいつも真ん中あたりで、これといって得意なこともない。先生からの言葉も、「おとなしい子です」と書かれていただけで、ちっともうれしくない。こんな通知表を見せたら、パパもママもがっかりしちゃうにちがいない。
まだ帰りたくないと思えば思うほど、いつもよりもずっと帰り道が短く感じてきて、不安でいっぱいになる。
 
 「ただいま」
 重いドアを開けるとママがキッチンでハンバーグを作っていた。ぼくの大好物のハンバーグだ。
 ママはやさしくほほえんで、一年間頑張ったねと言ってぼくをほめてくれた。ぼくはうれしかったけど、なんかちょっと胸が苦しくなって、何もいえないでいた。
 パパが修了式のお祝いに早く会社から帰ってきたこともあって、少し早めの晩ごはんになった。テーブルの反対側に座っているパパとママは元気のないぼくを気にしているのか、通知表のことを聞いてこない。このまま見せないでいようかと思ったけれど、やっぱりいけないことに思えてきて、ランドセルから通知表をとり出して、ちょっと迷って、結局渡すことにした。
 
 パパとママは二人でじっと通知表を見ている。ぼくはドキドキして、大好きなハンバーグの味もわからなかった。
 
 ああ、ぼくだってシュンくんみたいに足が速ければよかったのに。そうじゃなかったらダイキくんみたいにクラスの人気者だったら、クミちゃんみたいに友達がいっぱいいたら、中学受験をするって言ってたケンちゃんみたいに頭がよかったら、それともタッくんみたいに宿題を出さずに先生を困らせてみたら?
 どんなに考えてみても、ぼくには何もなくて、みんなには何かがあった。ぼくだって何かほしかった。みんなみたいになりたかった。そう思うとなんだかまぶたのおくが熱くなってきて、ごちそうさまも言わずに自分の部屋に走り出していた。
 
 ハンバーグ残しちゃった。せっかくママが作ってくれたのに。ぼくのために早く帰ってきてくれたパパにもひどいことしちゃった。
 パパとママに謝りたくって、でも素直になれなくて、ベッドに座って窓からあかあかとした夕焼け空を見ていた。
 
 少ししてからノックが鳴って、パパとママが部屋に入ってきた。二人とも穏やかな表情をしていて、ぼくをはさんで両側に、ベッドに腰をおろした。ぼくは緊張して、ぎゅっと握りこぶしをつくって下を向くことしかできない。すると、パパとママはぼくの手を片方ずつつないで、ぎゅっと抱きしめてくれた。ふたりの体温があたたかくて、ほっとして、じんわりと心がやさしくなるのを感じた。ことばはなくても、ぼくをつつみこむ愛が、ぼくのすべてを受けとめて、信じてくれていることが伝わってきた。
 ぼくはぼくでいいんだ。誰一人としてぼくの代わりはいなくて、ぼくらしく生きていていいんだ。
 「ありがとう、パパ、ママ」
ぼくは顔を上げると、はっきりとそう言葉にした。
 
 三月なのに、今日が人生で一番あたたかい日になった。
 
 瞳に映った夕焼け空にまたたく星が、夜の群青ににじんで、そしてやさしく揺れた。
 

3/23/2024, 5:41:02 PM

                 “特別な存在”
 
 
 或る少年の話をしよう。
 彼は幼少の頃から学才に秀でていた。こと試験に関しては彼の右に出るものは現れず、学内にて不動の地位を保ち続けていた。周囲の人々が彼を尊敬し褒め称えたのは、これに加えて彼自身の一切の成果を鼻にかけない高潔な精神に依るところが大きかった為である。誰もが彼に期待を寄せては、彼の様に成ることを望んでいた。

 五畳の薄暗い自室にまだ湯気がのぼるコーヒーが届けられたのは、少年がちょうどその日の復習と翌日の予習を終えた頃であった。時計の針は既に午後11時を刻んでいる。少年の母親はなみなみと注がれたコーヒーを届けると月末に控えた定期試験について熱心に少年に期待の言葉をかけて、部屋を後にした。また少年は部屋に一人取り残された。彼は母親の運んだティーカップの水面に、やつれきった自身の瞳を見た。また、艶やかだった色白の額にはすっかり深い皺が刻まれていて、長年の彼の苦労を物語っていた。
 一方で、温かな一杯のコーヒーは少年に自身の人生について考える豊かな一時をもたらしていた。周囲の期待を一身に背負って眼前の勉学にひたすら打ち込んで生きてきた少年は、ただ完璧であることを求められ、それを純粋な愛の形だと思い込んできたことをその時悟ったのだ。
 直ぐに少年は教科書とノートを閉じて、デスクライトの灯りを消した。すっかり部屋は暗闇に包まれて、少年を闇夜に隠してしまった。
 それが彼が勉学に励んだ最後の日となった。
 彼の愚直過ぎる勤勉さと純朴さでは、打算に満ちたこの世の愛情を無条件に受け入れることが出来なかったのである。彼は、少年はただ、誰かにとっての特別な存在になりたかっただけであった。誰かを愛し、誰かに深く愛されることを望んでいた。そしてその手段を勉学に求めることが徒労に終わることにも薄々気付いていたのだ。
 大きく息を吸い込んで、少年は窓の方へ目をやった。いつもはデスクライトの強烈な光で見えなかったが、大きな月が、その日は煌々と夜の帳を照らしていた。月の光は、何処か柔らかであたたかく、深い夜は少年を縛るあらゆる鎖を徐々に溶かしていった。
 
 この夜を以て彼の長きに及んだ他者の為の勉強人生は幕を下ろし、また新たに彼自身の為の無垢なる愛への追求が幕を開けたのであった。