“特別な存在”
或る少年の話をしよう。
彼は幼少の頃から学才に秀でていた。こと試験に関しては彼の右に出るものは現れず、学内にて不動の地位を保ち続けていた。周囲の人々が彼を尊敬し褒め称えたのは、これに加えて彼自身の一切の成果を鼻にかけない高潔な精神に依るところが大きかった為である。誰もが彼に期待を寄せては、彼の様に成ることを望んでいた。
五畳の薄暗い自室にまだ湯気がのぼるコーヒーが届けられたのは、少年がちょうどその日の復習と翌日の予習を終えた頃であった。時計の針は既に午後11時を刻んでいる。少年の母親はなみなみと注がれたコーヒーを届けると月末に控えた定期試験について熱心に少年に期待の言葉をかけて、部屋を後にした。また少年は部屋に一人取り残された。彼は母親の運んだティーカップの水面に、やつれきった自身の瞳を見た。また、艶やかだった色白の額にはすっかり深い皺が刻まれていて、長年の彼の苦労を物語っていた。
一方で、温かな一杯のコーヒーは少年に自身の人生について考える豊かな一時をもたらしていた。周囲の期待を一身に背負って眼前の勉学にひたすら打ち込んで生きてきた少年は、ただ完璧であることを求められ、それを純粋な愛の形だと思い込んできたことをその時悟ったのだ。
直ぐに少年は教科書とノートを閉じて、デスクライトの灯りを消した。すっかり部屋は暗闇に包まれて、少年を闇夜に隠してしまった。
それが彼が勉学に励んだ最後の日となった。
彼の愚直過ぎる勤勉さと純朴さでは、打算に満ちたこの世の愛情を無条件に受け入れることが出来なかったのである。彼は、少年はただ、誰かにとっての特別な存在になりたかっただけであった。誰かを愛し、誰かに深く愛されることを望んでいた。そしてその手段を勉学に求めることが徒労に終わることにも薄々気付いていたのだ。
大きく息を吸い込んで、少年は窓の方へ目をやった。いつもはデスクライトの強烈な光で見えなかったが、大きな月が、その日は煌々と夜の帳を照らしていた。月の光は、何処か柔らかであたたかく、深い夜は少年を縛るあらゆる鎖を徐々に溶かしていった。
この夜を以て彼の長きに及んだ他者の為の勉強人生は幕を下ろし、また新たに彼自身の為の無垢なる愛への追求が幕を開けたのであった。
3/23/2024, 5:41:02 PM