おがわ

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                  “幸せに”
 
 幸せになってほしいからと、両親から幸夫──さちお──という名を賜った。──ゆきお──ではなく──さちお──である。この古風で珍しい名前の響き故に幸夫はからかわれることになり、不幸にも自らの名を呪い続けることになってしまっていた。
 
 
 会社帰りの地下鉄で、疲れきった幸夫は満員電車の隅で圧迫されては不満を募らせていた。
大抵は、だいたいこんなに狭いのに香水きついんだよ、だとか、こいつ肩にこんなにフケのってて恥ずかしくないのかよ 、とかいう愚痴だった。
というのも、今日の契約でもまた名前のことを、変わってますね、なんていわれて、そのくせ契約は成立せず仕舞いで、もう散々だったからだ。
「うちの会社の課長も同じ名前だよ」とかいう大学時代からの友人の言葉もうざったくて仕方ない。
誰が年寄りの名前と同じなんかで喜ぶかよ、どうせなら俳優とかのお洒落で格好いい名前がほしかった。そこまででなくても、“普通”に使える名前がよかった。

 中学の頃だってそうだ。
引っ越してきたばかりの自己紹介で嗤われてからは、もう大きい声では名前を言えなくなった。
既に出来上がっていた友達グループにも入れず、話しかける勇気も持ち合わせていなかったため、中学では誰よりも勉強して皆を出し抜き、見返してやろうと思った。俺を馬鹿にした奴らを許すものかと激情に駆られていた。
本当は幸夫自身も少し考えすぎだとは気付いていたが、何かにこの理不尽な怒りを押し付けずにはいられなかったのだ。

幸夫はこの名前を恨んだ。
そして名前がちょっと古くさいからっていちいち口にする人間の厭らしさにも辟易した。
ちっとも幸せになんてなれやしない。

 牢獄のような電車から吐き出されるように解放されると、安堵したのも束の間、駅構内を彷徨う一人の外国人らしき人影を見た。旅行客だろうか、大きなリュックサックを背負って一人おどおどしている。このあたりは分岐が多く複雑で、確かに迷いやすいかもしれない。だが、幸夫は疲れは果てていた。明日も朝が早い。駅員に任せようとふらりと避けようとしたが、誰も相手にしてくれなかった中学の頃を思いだし、あの時誰でもいいから声をかけてほしかったことが脳裏をよぎった。埃を被っていた勇気が鈍く光りだして、幸夫は不意に踵を返した。俺は偽善者だ。幸夫はそう思った。背中のあたりが少し強ばっているのを感じる。しかし彼の歩みは止まらず、一歩また一歩と足が動いた。
 
 
 迷っていた外国人を助け終えると、どっと疲れがでた。だが、心地よい充実した疲労だった。まさか学生時代の英語の勉強がこんな形で役に立つなんて。あの孤独だった学生生活も捨てたもんじゃないなと少し感心した。去り際に、アリガトウ、とカタコトの日本語で言われたときはちょっぴり照れてしまった。人に感謝されるのはこんなに嬉しいことなのか。まるで映画の主人公にでもなったかのように、一つ大きく深呼吸して帰路についた。夜風がやさしく吹く。火照った顔に涼しくあたる。
 
 幸夫は思った。俺は自分が幸せになれないことを嘆いていたが、周りの人に幸を届けることで、自分自身も幸せになれるんだと。自分一人の幸せのためでなく、身近な人から支えて幸を届けようと、その時自身の名前の意味を理解した。そして、幸夫という名前をちょっとだけ好きになれた気がした。
 
 
 足取りが軽い。幸夫の肩は風をきってぐんぐん進んだ。夜の闇はは刻々と町の明かりを奪うなか、幸夫ひとりはその心にやさしく明かりを灯していた。

 
 

               

4/1/2024, 8:48:21 AM