物憂げな空。これは曇りか、雨か。
なんか雨の降りそうな雨が正解っぽいけど、今日の伊豆の天気は雪だったのをお知らせする。
修善寺から河津までバスで下ったのだが、楽しかった。
バスの受付に相談したら修善寺から河津まで一方通行限定だけど、途中下車乗車が許されてるチケットがあって助かった。ありがとう職員さん。
浄蓮の滝と昭和の森会館で降りた。浄蓮の滝は名瀑百選の滝で、雪だからか水量が多くて見ごたえあった。昭和の森会館には伊豆近代文学館が併設されていて伊豆にゆかりの文豪の展示がたくさんあった。川端康成推しの私としては大満足の場所でした。井上靖の旧居とかあるから、そっちが好きな人はより楽しめる。横光利一の名前と直筆の手紙も見つけて来てよかったーと思った。
河津では河津桜を見た。この前ヒルナンデスで放送されてたときは満開だったけど、もうすでに葉桜だったよ。でも、これまで写真詐欺だと思ってた桜のピンクはほんとに濃いピンクなんだって分かって良かった。
これまでずっと伊豆に行くの尻込みしてたけど、行ってよかった。
気分が落ち込んでてパッと思いつきで行った見切り発車の旅だったけど、私の憂いは晴れました。ありがとう伊豆。今度は天気の良いあたたかな日に行く。
女性を中心として、ぬいぐるみのことを"小さな命"と表現することがある。
ぬいぐるみ(主に"ぬい"という愛称が使われる)を生きていると仮定して写真を撮ったりする、いわゆるごっこ遊びの延長線である(これを"ぬい活"という)。
かくいう私も、ぬいぐるみではないがアクリルフィギュアでその真似事をしたことがある。しかし、いちいち旅先や外食時に持ち歩くのが面倒で、趣味にはならなかった。
そのためか、私は推しの造形物に命を感じることはない。私にとって、推しはリアルに生きた存在ではないのだ。
"小さな命"としてぬいぐるみに愛着を持ち、大切にする人が少しだけ羨ましい。それだけ入れ込める存在がいるというのは、どういう気持ちなのだろうか。私には分からないままだ。
隣人を愛せよ、とはいうが土台無理な話だ。
事実、たったいま私は隣人と喧嘩をしてきた。
結果は私の負け。終盤相手のペースに飲まれて、自分の主張の正しさを疑ってしまった。喧嘩は冷静になったほうが負ける。勉強になった。そして、悔しい。勝って終わりたかった。
しかし、それはそれとしてこの喧嘩では私がこれまで相手に言えなかったことを言うことができて、すっきりした。
私はこれまで人間関係のトラブルに対しては、自分が我慢する方向で対処してきた。その場では反論せず、あとで一人で相手を呪うことでバランスを保ってきた。
その私がはじめて人に反論した。結果は惨めなものだけど、その場で反論できたという事実を私は一生忘れないだろう。
ネットで多くの喧嘩の話を見て、どうして人は不毛な言い合いの喧嘩をするのだろう、と疑問だったけれど、喧嘩の先にはある種の爽快感があるのだ。これのために人は喧嘩をするにちがいない。
今日の喧嘩の終わり方的に、明日の朝に相手が謝ってくることはないだろう。それでいい。私もお前を許さない。これまでの行いのことも許していない。だから、お前も私を許すな。苛立ち、焦り、苦しむといい。
隣人を愛せよ。きっと、賢い人の言葉だ。
愚かな私には刺さらない言葉だ。おととい来やがれ。
太陽のような……つまりは日輪。つまりは横光利一。
『日輪』は横光利一の書いた小説で、菊池寛の評価も高い小説。描写が映像的で、直木三十五が映画化を希望して、撮影までしたんだけど、当時の時局と合わずお蔵入りになっちゃった。
内容は卑弥呼を主人公とした復讐もの、らしい。
実はまだ読んだことがない。青空文庫で読めるから、気になる人は読んで、感想をネットのどこかに放流していただけると助かります。
0から1を生み出す人、1を100にする人。
この人は天才。
50を100にする人、100を200にする人。
この人は秀才。
100を50にする人、50を10にする人。
この人は凡才。
100を0にした人。
明日は良いことあるよ。元気を出して。