同情という言葉にも行為にも、あまり良いイメージはない。憐れみのようなもの、上から見下しているようなものというイメージを持っている。
それは多分、私がこれまで触れてきたもの(小説やニュースなどの媒体)で、良いものとして使われていたことが少ないからだろう。
最近そのことに気がついてからは、同情の存在意義について少しとらえ直すようになった。
似た意味をもつ共感とは違う、同情という言葉がもたらすもの。
私はこれを古典的美意識ではないか、と思う。
古典の現代訳では共感よりも同情という言葉を使う。それは身分の違いであったり、生死の境であったり、さまざまな差を明確にする。
そして、古典ではそうした差から美が生じる。
同情は古典の美にまで昇華されてまではじめて、その存在を許されるのではないかと思う。
枯葉って普段、道路に落ちていても気にすることがない。でも、たとえば日本庭園などで白砂の上に一枚ぽつんと落ちていると、途端に気になる。
庭師の仕事は掃除にはじまり、掃除に終わるという。彼らは枯葉一枚見落とさない。今日もどこかで訪れた人のために美しい庭を整えている。
では、道路の枯葉は誰がどこで掃除しているのだろう?
いつの間にか現れて、知らぬ間に消えていくもの。しかし実態がある以上、何かしらの力が働いて、枯葉は消失しているはずだ。
見えない力。意識しない日常。そうして世界は回っている。
今日にさようなら、明日にこんにちは。
過去に別れを、未来に願いを。
きっと、こういう生き方をしている人は明るくて、不幸とは縁のない人だ。
お気に入りの言葉。横光利一の一句。
蟻 台上に餓えて 月高し
気高い野心とそれに伴う孤独を表現した、新感覚派の闘将・横光利一その人を表すような見事な句である。
誰よりも誇れることがほしい。
恥ずかしい話だけど、いまだにそう思う。
自分が凡人であると受け入れるまで、まだしばらくかかりそうだ。
何者にもなれないと嘆くより、何者かになりたいと願うほうが健全だと、自分を慰めている。
いつかは諦めなくてはならないが、そのときは明るい気持ちで諦めたいと、思っている。