同情という言葉にも行為にも、あまり良いイメージはない。憐れみのようなもの、上から見下しているようなものというイメージを持っている。
それは多分、私がこれまで触れてきたもの(小説やニュースなどの媒体)で、良いものとして使われていたことが少ないからだろう。
最近そのことに気がついてからは、同情の存在意義について少しとらえ直すようになった。
似た意味をもつ共感とは違う、同情という言葉がもたらすもの。
私はこれを古典的美意識ではないか、と思う。
古典の現代訳では共感よりも同情という言葉を使う。それは身分の違いであったり、生死の境であったり、さまざまな差を明確にする。
そして、古典ではそうした差から美が生じる。
同情は古典の美にまで昇華されてまではじめて、その存在を許されるのではないかと思う。
2/20/2024, 10:12:13 AM