隣人を愛せよ、とはいうが土台無理な話だ。
事実、たったいま私は隣人と喧嘩をしてきた。
結果は私の負け。終盤相手のペースに飲まれて、自分の主張の正しさを疑ってしまった。喧嘩は冷静になったほうが負ける。勉強になった。そして、悔しい。勝って終わりたかった。
しかし、それはそれとしてこの喧嘩では私がこれまで相手に言えなかったことを言うことができて、すっきりした。
私はこれまで人間関係のトラブルに対しては、自分が我慢する方向で対処してきた。その場では反論せず、あとで一人で相手を呪うことでバランスを保ってきた。
その私がはじめて人に反論した。結果は惨めなものだけど、その場で反論できたという事実を私は一生忘れないだろう。
ネットで多くの喧嘩の話を見て、どうして人は不毛な言い合いの喧嘩をするのだろう、と疑問だったけれど、喧嘩の先にはある種の爽快感があるのだ。これのために人は喧嘩をするにちがいない。
今日の喧嘩の終わり方的に、明日の朝に相手が謝ってくることはないだろう。それでいい。私もお前を許さない。これまでの行いのことも許していない。だから、お前も私を許すな。苛立ち、焦り、苦しむといい。
隣人を愛せよ。きっと、賢い人の言葉だ。
愚かな私には刺さらない言葉だ。おととい来やがれ。
2/23/2024, 10:29:40 AM