誰かが私の名前を呼んでるわ。
でも生憎、私今忙しいの。
ある場所へ行かなくてはいけないからね。
名前を呼んでるあれは何者かって?
あぁ、私の下僕よ。
あんなに大声を出して、まったくみっともないわ。
まぁでも、これからはあの下品な声も聞かずに済みそうね。
さぁ、ついたわ。
ここ?そうね…私のとっておきの場所とでも言っておこうかしら。
誰にも見つからなくて、静かで安全なの。
昔この辺りで暮らしていたときは、よくここで眠っていたものだわ。
あぁでも、ここにいる私を見つけたのが一人だけいたわね。
そう、あの下僕よ。
まだ幼かったあれが、私を可哀想な子だと勘違いしてここから連れ出したの。
失礼しちゃうわよね。私はここで休んでいただけだし、ひとりで生きていけないほど弱くもないもの。
でも、もういいの。あれに連れられて暮らした家は、ここよりもずっと広かったうえに食べ物にも困らなかったしね。
それに、ソファを爪でズタズタにしたり、テーブルの上の物を“うっかり”落とした時の情けない声もとても愉快だったわ。
まぁ、情けない声は今も出してるわね。あんなに泣きそうな声を出して、恥ずかしくないのかしら。
さて、そろそろいかなきゃね。
眠くなってきたわ。
…なんでここに戻ってきたのかって?
だって、弱っていく主の姿なんて、下僕に見せられないでしょう?
私は、最期まで気高い女でありたいのよ。
だから、今は一人でいたいの。
じゃあね。
来世も会えたら、また下僕として使ってあげるわ。
【お題:だから、一人でいたい】
僕の瞳が澄んでるって?
はは、それはどうかな。
だってさ、どんなに透き通った海だって、
海底の砂の下がどうなってるかは誰にも分からないだろ?
【お題:澄んだ瞳】
降りしきる大粒の雨が、窓ガラスに当たってバチバチと音を立てる。
ひどい嵐だ、と独りごちるあなたの声が、ほんの微かに聞こえた。
ふと、外がパッと白くなり、少し遅れて空を割るような轟音が鳴った。元来雷が苦手な俺は、思わず肩を震わせ硬直してしまう。でも、その時には既にあなたが俺の隣にいて、雷光から守るように肩を抱いてくれていた。
俺はいつもこうだ。弱くて、あなたに守られてばかりで。あなたはそれでいいと言うかもしれないけど、俺は自分が情けなかった。
俺は昔から要領が悪く不器用で、何一つ成し遂げられなかった。俺のような不出来な人間に、世の中は優しくない。そうして俺は世界を恐れて、でもどうすればいいのか分からなくて、ただ降りしきる雨風に身を震わせるしかなかった。
そこにあなたが、傘を差してくれたんだ。温かい家を用意して、寒い思いをしないように匿ってくれた。あなたのおかげで、俺はもう濡れて凍える必要はなくなった。
でも、俺は知っている。その温かい家を直すために、あなたが時々寒い外に出て、雨に降られていることを。あなたはそれを俺に悟られないように隠しているし、例え俺が追求しても「平気だ」と笑うのでしょう。そしてまた、何食わぬ顔で外へ出て行く。俺を家の中に残したまま。
俺が弱いせいで、あなたにばかり寒い思いをさせてごめんなさい。
いつか、俺はあなたと同じくらい強くなります。
たとえ嵐がこようとも、立ち向かう勇気を手に入れます。吹き荒ぶ雨風や雷に、耐えうる術を身に付けてみせます。
だからその時は、その役割を代わってくれませんか。
今度は俺が、あなたを守ります。
【お題:嵐がこようとも】
いつもの帰り道、電柱に貼ってあるポスターがふと目に留まった。
それは近々この辺りで開かれるという祭りの宣伝ポスターで、安っぽい紙にフリー素材のイラストが散りばめてある。
思えば、アイツとは一緒に祭りに行ったことがない。単にアイツがそういった事に興味なさそうだったし、俺も…
…いや。俺がガキの頃は、祭りが大好きだった。毎年夏になると神社で開かれる祭りには必ず、ダチを誘って自転車を走らせたもんだ。
たぶん、俺は昔から日常に退屈していて、それゆえ非日常が好きだったんだ。祭りってのは、ガキの俺にはちょうどいい手頃な“非日常”だった。祭りでしか手に入らない食べ物を食べながら、見知った場所が別世界のように様変わりしているのを眺めるのが好きだった。
気付けば俺は、電柱のポスターをスマホのカメラに収めていた。帰ったらアイツを誘ってみよう、と思いながら再び帰路につき、そこで初めて気付いた。アイツの性格を考えると、素直に「行く」と言う可能性は低い。恐らく、いい歳して祭りなどに行きたがるのかと半笑いで言われるのがオチだ。何か策を講じる必要がある。
それで俺は、アイツを騙すことにした。祭りの日、何気ない風を装って「美味い洋食屋を見つけた」と言い、アイツを誘ってみた。俺が奢るなら良い、と言うもんだから、俺はもちろん了承した。騙し討ちする分、元より金は俺が出すつもりだったんだ。そうしてアイツは罠に掛かり、俺に連れられるまま、まんまと祭りのど真ん中まで連れて来られたって訳だ。
アイツは怪訝そうな目を俺に向けていたが、作戦が成功した俺にとってはもはやどうでもいい事だった。件の洋食屋がちょうど今臨時休業中なのは事前に調べた通りで、仕方ないから祭りの屋台で何か飯を買おうと提案した。アイツは俺の真意に気付いてか気付かずか、一つ頷いてから俺と共に人の流れに乗った。
適当に食べ物を買い、人気のない場所に座れそうな石段を見つけ、アイツと並んで腰掛けた。しばらく沈黙が流れたが、やがてアイツが「祭りに来たのは初めてだ」と零した。
祭りに行ったことがないなんて珍しいと思ったが、アイツの育った環境を思えば特段不思議なことでもなかった。アイツは、生まれてからこれまでずっと“非日常”を生きていた。まぁ、アイツにとってはそれが日常で、俺が生きてきたこれまでの方が、アイツにとっては“非日常”なのかもしれないが。
…きっと俺は、アイツに俺の“非日常”を教えたかったんだ。様変わりした街、独特な空気、俺の好きな特別を、殺伐としたアイツの“日常”に差し込んでみたかった。俺の“非日常”の中に、アイツを連れて来たかった。
隣でアイツが、りんご飴を一口齧った。
その顔は無表情に近かったが、どうやらりんご飴は口に合ったらしかった。
【お題:お祭り】
神様が舞い降りてきて、こう言った。
「その女を殺しなさい」
目の前にいる女の口元は微笑んではいるが、その目の色は身震いするほど深く、光が感じられなかった。
「その女はあなたを苦しめる悪です」
背後から神の声がする。
確かに、この女は僕を蔑んだし、貶めたし、嘲笑った。僕を苦しめる悪だ、と言われればそうなのかもしれない。
「何も迷うことはありません。この女がいる限り、あなたの苦しみは終わらない」
目の前の女が何か喋っているが、神の声にかき消されて僕の耳には届かない。でも、聞こえても聞こえなくても同じかもしれない。僕は、いつも彼女の声を聞かないようにしていた。彼女の言葉は、いつも僕を傷付けるから。
「ほら、そこに包丁があるでしょう。あれを手に取りなさい」
女から目を逸らし、まな板の上の包丁を見る。確かにそれは、少し手を伸ばせば届くところにあるし、手に取ることは難しくない。
その刃先を彼女に突き立てれば、僕の苦しみは終わるのかもしれない。
「そうです。その女を殺せば全てが終わり、そして新たに始まるのです。人生を変えたくはありませんか?」
僕のすぐ後ろから、神が問い掛けてくる。
変えたくない、と言えば…嘘になる。
「この苦しみから解放されたくはありませんか?」
……解放されたい。
「ならばやりなさい。簡単なことです。包丁を女に突き立て、あとは走って逃げればいい。それだけで全てが変わるのです」
全てが変わる…。こんな人生が、変わる…。
「その女は悪です。その女はあなたを蔑み、貶め、嘲笑いました。その女のせいで、あなたの人生はずっと灰色でした。全てその女が悪いのです。その女が憎いでしょう?」
……憎い。僕の人生をこんな風にしたのは彼女だ。もういやだ。もうこんな思いをしたくない。もう楽になりたい。
「そうです。早くやってしまいなさい」
あぁ、やるしかない。
「さあ、殺せ」
───肩で息をしながら、僕は足元に転がるものを見下ろしていた。
血溜まりの中に沈むそれは、とうに生気を失っていて…僕がかつて、「母」と呼んでいたものだった。
既に神の声はしなくなっていて、辺りは静寂に包まれていた。僕のすぐ後ろにいるように感じていたのに、振り返っても姿はなく、気配すら消えていた。
そして、僕は僕の運命を悟った。
僕はこれから、この業を背負って生きていかなくてはならないんだ。たった今、生を受けた僕という悪魔を、隠して、縛って、しかし共存して生きていかなくてはならないんだ。
「これから、よろしくね」
頭の中から、あの声が聞こえた気がした。
【お題:神様が舞い降りてきて、こう言った】