霧烏

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神様が舞い降りてきて、こう言った。

「その女を殺しなさい」

目の前にいる女の口元は微笑んではいるが、その目の色は身震いするほど深く、光が感じられなかった。

「その女はあなたを苦しめる悪です」

背後から神の声がする。
確かに、この女は僕を蔑んだし、貶めたし、嘲笑った。僕を苦しめる悪だ、と言われればそうなのかもしれない。

「何も迷うことはありません。この女がいる限り、あなたの苦しみは終わらない」

目の前の女が何か喋っているが、神の声にかき消されて僕の耳には届かない。でも、聞こえても聞こえなくても同じかもしれない。僕は、いつも彼女の声を聞かないようにしていた。彼女の言葉は、いつも僕を傷付けるから。

「ほら、そこに包丁があるでしょう。あれを手に取りなさい」

女から目を逸らし、まな板の上の包丁を見る。確かにそれは、少し手を伸ばせば届くところにあるし、手に取ることは難しくない。
その刃先を彼女に突き立てれば、僕の苦しみは終わるのかもしれない。

「そうです。その女を殺せば全てが終わり、そして新たに始まるのです。人生を変えたくはありませんか?」

僕のすぐ後ろから、神が問い掛けてくる。
変えたくない、と言えば…嘘になる。

「この苦しみから解放されたくはありませんか?」

……解放されたい。

「ならばやりなさい。簡単なことです。包丁を女に突き立て、あとは走って逃げればいい。それだけで全てが変わるのです」

全てが変わる…。こんな人生が、変わる…。

「その女は悪です。その女はあなたを蔑み、貶め、嘲笑いました。その女のせいで、あなたの人生はずっと灰色でした。全てその女が悪いのです。その女が憎いでしょう?」

……憎い。僕の人生をこんな風にしたのは彼女だ。もういやだ。もうこんな思いをしたくない。もう楽になりたい。

「そうです。早くやってしまいなさい」

あぁ、やるしかない。



「さあ、殺せ」



───肩で息をしながら、僕は足元に転がるものを見下ろしていた。
血溜まりの中に沈むそれは、とうに生気を失っていて…僕がかつて、「母」と呼んでいたものだった。

既に神の声はしなくなっていて、辺りは静寂に包まれていた。僕のすぐ後ろにいるように感じていたのに、振り返っても姿はなく、気配すら消えていた。

そして、僕は僕の運命を悟った。
僕はこれから、この業を背負って生きていかなくてはならないんだ。たった今、生を受けた僕という悪魔を、隠して、縛って、しかし共存して生きていかなくてはならないんだ。


「これから、よろしくね」


頭の中から、あの声が聞こえた気がした。


【お題:神様が舞い降りてきて、こう言った】

7/27/2024, 1:47:19 PM