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1/27/2024, 4:26:29 AM

人は真夜中に寝ている時、力を蓄える。


昼間に、起きている時間は植物で言うと「収穫」の時だ。


仕事が忙しいからと言って、眠る時間を削って起きてばかりいると、体力や気力を蓄えない、小さくやせ細った実しかつけない枯れ木のようになってしまう。

植物は目を覚まさない。
植物は常に眠ることで実をつける。常に眠り、土と水と太陽の光で力を蓄え、そのまま実をつける。

動物は眠りと眠りの間に「起きている時間」を作ることで、他者の命を奪い、単に眠り続けるよりも効率よくエネルギーを得ることを覚えた。

夜は蓄える時間。
基本、眠るべき。

真夜中の楽しい夜遊びと冒険は、ごく偶にする程度にするべきだ。
毎日では楽しさも薄れる。

1/25/2024, 1:31:14 PM

安心が欲しい人は、不安が消えない。

不安を覚えない人は、そもそも安心を欲しがらないから。


私達は、子どもの頃から不安を友だちにして生きている。

学校。
友だちができなかったらどうしよう。
いじめの標的にされたらどうしよう。
勉強について行けなかったらどうしよう。

進学も不安だ。
浪人したらどうしよう。
成績が悪かったら留年することも考えられる。

就職も不安だ。
どこにも内定をもらえなかったらどうしよう。
就職してもブラック企業かもしれない。

結婚できないかも、子どもが生まれないかも、生まれてもきちんと育てられないかも。

不安はいくらでも湧いてくる。


不安への対処は、行動だ。

考え続けていても悩みは晴れない。

話し方を覚えた。
笑顔を練習した。
勉強に打ち込んだ。
空気を読めるように練習した。
仕事に没頭した。

何かに打ち込んでいるときだけ、不安を忘れられた。

そう、忘れただけ。

不安を忘れているとき、私は忙しい。
忙しいとは、心を亡くすと書く。

まるで、不安を感じないかのように働いていたときの私は、不安に打ち勝ったのではない。

単に、心を亡くしていただけだった。


やがて時が経ち、時間が不安の種を回収していく。

学校を卒業することで、学業の不安は去った。

適齢期を過ぎることで、結婚は諦めた。

それでも、不安は尽きない。

親の介護はどうするか。
仕事を辞めないと面倒を見られない。

数年して、老親は旅立ち、心配はまた一つ減った。

そして自分が老年期になり、不安はほとんどなくなった。

子どもも配偶者もいない私にあるのは、いつ死ぬかの選択肢だけだ。


ふと、不安が底をついて、初めて気がつく。


不安とは、可能性と同義であった。

不安とは、未来の裏返しであった。

分からないこと、定まらないことを、恐れるのではなく楽しみにできなかったのか。

逃げるのではなく抱きしめていれば、現実は変わらなくとも、心は異なったのではないか。


老いが進む日々で、不安に正面から向き合ってみる。

明日、病気が悪化するかもしれない。
いや、朝起きて、胸に痛みがなかったら喜ぼう。

散歩に行こう。
川辺の道を歩けば、誰かと会えるかもしれない。


残りの人生は少ないけれど、今からでもいい。

不安から逃げるのではなく、不安に打ち勝つのでもなく、可能性を楽しみにしてみよう。

そうすれば、少なくとも、今夜、気持ち良く眠ることはできるから。

1/24/2024, 10:43:59 AM

眩しいばかりに有能で、人気者の親友。

共に歩くと街は友達ばかりで、ワイワイガヤガヤ、楽しい時間ばかり。

隣を歩くと、気分は太陽と歩いているかのよう。


「俺は〇〇になるんだ」
夢を大きな声で語るその姿に、自分も魅了された。

光あふれる未来が、自分にもあると錯覚するような感覚。



時が経ち、大人になったと自認してからすでに10年を超えた。

若者のカテゴリから外れた自分と親友。

しかし、親友は相変わらず人に囲まれた太陽だった。


変わったのは自分だ。

忙しいとは、心を亡くすと書く。


毎日夜中まで仕事。
休日もよく潰れる。

時間があるときは祖母の介護をして、老老介護の両親に僅かな自由時間をプレゼントする。

自分がやりたかったことも、何一つなし得ないまま、ただ糊口を凌ぐだけの日々。



そんな中でも、年に一回親友と会うのは、数少ない楽しみであった。


そんな親友との飲みの場で、諍いになった。

時間を確保できて子育てをしている親友と、仕事と実家で日々1人で生きているだけの自分。
価値観が違うのだ。

疲れ果てている自分に、親友は不思議そうに、だが少しイライラしていた。

あの表情は、あれだ。

出来の良くない部下に、内心のいらつきを隠して対応するときの上司の顔だ。


その後、「時間は作るものだ」と言われ、その言葉に、ああ、私は自分の時間を作る能力すらないから、結婚も子育てもできずにこんなに差ができてしまったのか、と納得してしまった。

そのとき、自分は親友と明らかに違う立ち位置にいて、その眩しい光を正面から直視した。


眩しい。
目を開けていられないほどの光。

自分はその光に照らされて、自分の能力というものが白日の元に晒される。

そう。
私は、光のそばにいて、自分も光ることができると勘違いしていたのだ。

だから、正面から光を浴び、見たくない自分の姿を知ってしまった。

ああ。

私は、心理的に孤独になった。

ただ、一方で、このときようやく、私は自分の身の丈を知れたのだ。

光と対峙し、自分の影を見ることで。

それは、惨めなようで、スッキリしたような、形容しがたい気分であった。


親友と別れ、夜の道を酔っ払いながら歩く。

たまに、道端に座り込む。

そして、時間が経つとまた歩き始める。


みっともない、どこにでも居る酔っ払い。

昔の私が見たら「情けない」と言うに違いない姿。



(とりあえず、歩き始めるか。)

しかし、立ち上がる。

ようやく、自分で進む道を自分で歩くのだ。

惨めでみっともなくとも、それが私の等身大。

1/23/2024, 3:42:51 PM

いつもと一緒の夢。


特に変わったこともない、仕事場で仕事をこなす日。

職場では同僚が手を動かしながらも仲良く軽口を叩き、たまに笑いが出る。

上司も珍しくずっと席にいて、話に加わる。


程々に忙しく、程々に働く。

デスクは綺麗で、窓から青空が見える。


何の変哲もない、仕事をする夢。

何もなく、朗らかな日の夢。


しかし、目が覚めたら、「いつもと一緒の夢」と思ったことが勘違いだったことに気がつく。

夢の中では仕事が嫌だと言い合っていても、その時間すら宝物であった。


目が覚めると、普通の日は貴重であることを実感する。

今日も職場は戦場なのだ。

気を引き締めていこう。




こんな夢を見た。

1/21/2024, 12:27:17 PM

誰にでも訪れる、特別な夜。
それは最期の夜。

虫にも、植物にも、もちろん人にも。

その命が尽きる、最期の夜。

ほとんどの者は、それが特別だと気が付かない。



仕事に疲れて倒れ込むように眠ったまま、目を覚まさないかもしれない。

修学旅行を楽しみにした学生の夜。次の朝、交通事故で亡くなるかもしれない。

妻と口喧嘩をして別々のベッドで眠り、翌日口を利かないまま外出して亡くなるかもしれない。

介護に疲れて夕飯を用意しなかった日の夜、祖父が亡くなるかもしれない。


今日が人生最期の、特別な夜だと思って、生きていこう。

生きている限り、いつかはその日が来るのだから。


そう思いながら生きると、好きな人に好きと、伝えられる。

やりたいことをやることができる。


自分を偽って、自分を誤魔化して、無為な人生を送らずに済むかもしれない。

少なくとも、死ぬときに後悔はしにくい。

「やらなきゃ良かった」より「やれば良かった」の後悔のほうが、死ぬときにはきっと、つらい。



そうして、自分の人生に真摯に生きていきながら、大事な人に「また明日」と言うのだ。

今日が最期だと思いながら言うから、その言葉は「当たり前」ではなく「奇跡を期待した心からの言葉」になる。


どうか、明日もまた、あなたも私も生きている、という奇跡が続きますように。

今日が特別な夜ではありませんように。

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