ずっとこのまま
あなたはこの言葉を見て、何を感じるだろうか
未来があたたかさに包まれていく感覚を覚える人もいれば、不安や絶望を感じる人もいるだろう
たった一つの言葉で、自分とは正反対の気持ちになる人が存在するということを、私たちは忘れがちだ
幸せだなあ
ずっとこのままだったらいいのに、、
私は、そんなありきたりな平和ボケポエムを載せている人たちとはきっと分かり合えないと思う
めんご
変わらないものはない
私を愛してくれた気持ちは変わらないで
あなたの中にずっと
いてくれないだろうか
その気持ちがあなたを苦しめるとしても
ずっと変わらないで
無くさないで
お願いだから消さないで
そう思っていても、きっとあなたは
変わってしまう
新しい気持ちが舞い込んできて
あっという間にかき消してしまう
あの日見た海の色も
2人で歩いたあの道だって
時間と共に変わっていく
そして忘れていく
変わらないものはない
そんなに悲しいことは言わないで
変わってしまっても
少しだけ、覚えていて
愛を注いで
いつしか、私は愛を注いで等と誰にも思わなくなった。
そもそも愛など存在しないからである。
確かに、優しい言葉をかけてくれる人や、心配してくれる人、手を貸してくれる人はいるだろう。
だがその相手は、優しくすることで快感を得てるだけなのだ。
自分は善人だと思い込み、自分という存在を価値のあるものにしたいが為の言動なのだ。
結局は自己愛をうまく利用して生きているだけ。
それをあたかも綺麗な行いかのように、見せているだけなのだ。
ボランティア、果たして自分に余裕がなくなった時にできるだろうか?
Instagramというアプリが、人間、というものを表している。
誰が頼んだわけでも無いのに、綺麗な写真を並べたて、私は美しいのだと主張している。
そうでもしないと、本当の汚い心を見透かされてしまいそうで不安だからなのだろう。
大丈夫、全ての人間に完璧で美しい人など存在しないのだから。
自己愛、それはこの否定ばかりの世界を自殺せずに生きる上で必要なものであるが、それが強く蔓延る限り、本当の愛は見つけられないだろう。
光と闇の狭間で
この世界に産み落とされ気づくと私たちは、
一本の糸で吊るされ右へ左へ、
ぶらーん、ぶらーん、
と大きく揺れされていた。
右へ振れると、眩い太陽の光や、穏やかな音楽に包まれ、心地よく暖かい風が肌を撫でる。
左へ振れると、薄暗い闇に叫び声がこだまし、氷のように冷たい空気が身も心も凍えさせる。
ぶらーん、ぶらーん。
左へ戻される恐怖に泣き叫ぶ者、怒る者、しまいには失神してしまう者もいる。
右へ大きく振れたとき、
そこで糸が切れてくれないだろうか。
何度そう思っても糸が切れることはなく、
左へとまた、私たちを戻していく。
ぶらーん、ぶらーん。
私はこのどうしようもない状況を、
よく観察して二つのことに気づいた。
一つは、右に振れる時間と、左に振れる時間の割合はどうやら同じくらいということ。
もう一つは、左に振れている間は目を瞑り、耳を塞ぎ、
心の中で右の世界を思い出し、情景を広げ、そこで聴いた穏やかな音楽を口ずさめば、右の時間を作り出せるということだ。
それらに気づいてからは、私は左へ振れても、
いくらか気持ちが安定するようになった。
ぶらーん、ぶらーん。
私の隣に吊られている彼女は、今日も泣きながら揺れている。
ぶらーん、ぶらーん。
泣かないで
この言葉には、あなたが悲しんでほしく無い
という意味があるのだろう
優しい思いやりの言葉なのだろう
でも本来、相手を思うのならば
泣かせてあげるべきなのではないだろうか
苦しみを発散させる行為を
辞めさせようとするこの言葉は
発した側のエゴから出てくるのではないか
思いやりだとか、優しさには
偽りのものが紛れ込んでいるような気がする
同じ色、形をしているがほんの少し
違和感のある香りが漂っている