色々好きとか嫌とか詰め込み

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2/26/2025, 11:20:22 AM

あぁ、なんなんだ

口が開き、忙しない浅い呼吸では空気が肺へまともに届かない。
頭が回らない。感覚が鈍い。

全身の所々に鈍い痛みが熱をもつ。

手脚が上がらない。うまく動かせない。

「クソッ」

薄暗い路地裏にはいつも通り汚い霧が漂い、息苦しい

耳の奥がズクンズクン脈打ってるみたいだ

血生臭い匂いが鼻の奥を突き刺す

どこもかしこもバットからナイフにガラスの破片、大量の人が転がり血が飛び散った痕跡。

無数のバイクマフラーの改造された爆音が重なり、鼓膜を轟かせ、一帯に響き渡る。それは遠くないところから聞こえる。

後頭部へ走る衝撃のせいで目がまわり視界を妨げる

自分からポタポタと鮮明な紅が垂れ落ちる。



いまから、何が始まろうとしている?

2/23/2025, 6:29:09 AM

『今日のカラオケお前もくるだろ?』

「俺は遠慮しとく」

『はぁ?ノリ悪ッ!!』
『なんか冷たーぃ』
『来ないの!?』

「ハハ」

『次こそは強制だからなー!』




強制、ねぇ……

強制なんてものを他者にする資格なんて誰にもないだろうに。
特に何の意味も孕んでいない言葉。立ち止まる必要なんて、考える必要なんて、無い。そんな言葉。
そんなものにも一つずつ立ち止まって考える俺。
過剰だとか言われるようで。繊細だとか、変人だとか、独特だとか、賢いだとか、思慮深いだとか。
そんな言葉たちも何だかなとかそれにも立ち止まる。
どうでもいいようなこととされるものを流せない、流さないような奴はきっと世間から面倒な奴と見られるんだろうな。
変なところで引っ掛かっているぞ、ということは今になって言われなくとも今までに散々言われてきたし自覚済みだ。でもそれが俺なんだよ。
願わくば何が正解とか、もうそんなのを決めるような生き方をしたくない。その表れなのか、考えて考える割には最終的にどんなものも自分に貼らず、嵌め込まずじまいだ。

『みんなに優しく、みんな仲良く。』
協調性を持って、空気を読んで、愛想笑いをして、気を利かせて、他者の気持ちを積極的に汲み取る。そこに自分の都合を入れてはいけない。

そうやって壊れていった。

『嫌なことは嫌って言いなさい。』
ハッキリ言ったら言ったでいつの間にか腫れ物扱いと化していって、自己主張も大事だなんてよく言ったもので。
言っていいのかダメなのかの線引きは割と曖昧なもので、でも確かに人それぞれながらも無いと困るもので。
だからその線引きってのが何だか分からず見つけられなくて、いつだって無いままの俺にはもうなす術がない
何が、どんな形でいるのが正解なのかとか、考えていくうちに邪推して拗れて。

教論や大人たちに掲げられたモットーに忠実にしているだけじゃきっとダメなんだ。
割と自然についていくはずの処世術や生きる要領ってのが、いちいち一つ一つ全てに気づいてしまい、立ち止まり、疑問や思考を抱くような人間は、総合的に生きづらいだとかで。そのままいくと社不という烙印が押される運命らしい。

大人の言うことに忠実であれと育てられ、ある程度歳がいけば途端に“私らは一切関与しないので己の頭で全て考えて言動しろ”と突き放され、自分なりにあくせくした結果否定され怒鳴られ。一切の関与は無いと断言しつつ支えはせずも縛るばかりの一方で、
「全ては貴方のため。」

最初から大人っていう型の中に正当化されて嵌め込まれた正解っていう、さぞ大層なものを教えてくれればいいのに。
察しろなんていうのはあまりに世知辛い。
これもまた成長過程。
全ては成長過程。
理不尽に思うことも理不尽を飲み込むのも成長過程。
結局成長過程なんてものは終わりを知らなくて、一生それの繰り返し。
ある程度積み上げ立ち止まって振り返って仕舞えば、気付いてしまう。それを恐れて意識的に知らないふりをしているだけ。
今まで言い聞かせて飲み込んだものたちは己に何の意味も成さないことだったりする。
ただ何かの歯車になる為だけの貢献。
必要なことと求められることはまた違って、理不尽は噛み砕いて飲み込んでいくしかない社会。

それって結局何の為に成っているの?
それって本当に、しなくちゃならないの?

幼い子供が大人に聞いた答え。大人たちが正解とした思想に侵されていき、また同じものが量産されていく仕組み。

総合的に集まったものを見て一般的を固めて、それを中心に定めた。いつしか固定され、その他が中々見えなくなる。そんな視野に視点。そんなものは子供には無い。
この子は自由な考えをするなぁ なんて。
この子は小さいのに大人びた考えをするなぁ。 なんて。
凝り固まった大人の視点から、積み重ねた知識から、知ったかぶりで、言う。貼り付けたり、縛り付けたり、描くのも、彩るのも、大人たち。

人なのだから。そして子供なのだからより一層、自分の考えはどんなものなのか。そんな思考や概念は無い。
狭い世界で自分が中心。自分と他を照らし合わせるなんてこと。
無垢で無知な子供はあまりにも素直で、間違いも正解もするすると飲み込んでしまう。
子供たちはあまりにも無力で、いつしか成長してどこから間違えてしまったんだ、なんて考えてもどうしようもないものなのかな、なんて思ったり思わなかったり。

自分の考えはどんなものなのか。それはわりかし人々が避けたがることだったりするようで、そんなことを日常的に考えてる俺は、あぁだからおかしいと言われているのかなと謎に腑に落ちる気もするんだ。

共感して繋がる人間。
同じ意見だと喜んで心から共感したら、蓋をあければ全くの別物だったり。
そこに自分なんていなくてもとりあえず飲み込まれていく事勿れ。
それにより引き起こすものが己の多大なる障害になるか否か。それはまだ分からないけど。いずれ分かることだろうけど。
共感が多いものが正解。
多数決で決まる世の中。
それが最善。見えていないのか、はたまた見て見ぬふりなのか。明るく単純な方だけを見て暗く複雑な方には目を向けたがらないのは人間の性。
理解できないものへの理解はあまりに難しいから見たくない。
誰だって知ってか知らずか自分の殻に閉じこもっているだろう。

“輪を乱すのは悪”
“個人の尊厳を侵害するのは悪”
目を凝らして見てみると、
“輪を乱す(自己主張)は悪”
“個人の尊厳(の一部)を損害するのは悪”
全体を思ってのことだと見せかけて、実はごく一握りの人々にとってのご都合主義で固められた法則だったり?


『普通みんなそうじゃんか』
『それをいちいち難しく言うお前は、』

『悪だよ。』

なんか、そう言われるたびに、

汚いなぁ って思うんだ。

多数に少数を述べるのは、みんな同じの中に異物混入。そういう感じで。
少数が多数より多くなり、立場が逆転すれば、するっと手のひら返しで元少数の意見が善とされる。
そんなのしているうちに思うけど、世の中に真理もクソも無いんだなと。

俺に何かを聞いたとしても、誰かに何かを聞いたとしても、人々から返ってくるのはあくまでも偏った主観での答えなわけで。
その人にとって答えとされているだけで
人間という生物が人間視点で勝手に名前をつけているだけで
最善といいながら何を持ってしてなのかは曖昧で
誰もがよく知りもしない誰かの思想を被って生きている

自分の犯した間違い
他人と絡みつくいざこざ
それらはよく咀嚼しても喉に詰まりがちだから
大体手元に水は無いから
息続けるには吐くしかなくなる
そうして吐き出されたものはやっぱり綺麗なものなんかじゃ無い。なんならより一層汚くなっていて。
結局全てを自責にすれば楽だから
ゴミはゴミ箱にやって
臭いものには蓋を。
そうして時効で消え去るのを耐え凌ぐしかない。


別に一人がいい、寂しくなんかない、そんなわけじゃないけど。表面上の意思疎通、そんなのも困難な自分は人と関わるのは億劫だ。
考えてしまう。考え続けている。考えたい時に思いっきり考えている。

いちいち真摯で誠実で、真っ直ぐいようとする姿勢は尊いものだけど、あるだけ苦しいだけだ。
そんなつもりはないけれど。
誰かにそうだと言われたらそれもありとしなければいけない時代だし、偉い人にそうだと言われたらそうだということにしなければいけない。


特に嫌がらせをされたわけじゃないけど、極力もう二度と会いたくない人とか結構いるし。

いい人だなと思う人でも、
初対面は普通にやり過ごして
次の機会には良い感じで
その次の三回目の交流になると急に相手への距離感を生み出してしまう。

なんだろう。

人とどうやって仲良くなっていたのか忘れた。
そもそも仲が良かったのかも定かじゃ無い。

馴れ合いに意味をもたらすのは悪循環の元なんだろう。
そうなんだろ。

人と人は分かり合えるなんて主張は、世間知らずとでも言われあしらわれる。
期待するだけ無駄。そう切り捨てた方がいいのか、
分かっていても、希望は捨てずに信じることを貫き通す方がいいのか。

良いというのは何を持ってして?
もう、分からない。
何も、分からない。

ぐちゃぐちゃで、
「わっ」
気づいたら自分が泥まみれになっている
息苦しい
虚言で塗り固めてできた笑顔の鉄仮面を持つ人。それが世渡り上手って称号。
こんなの誰が言ったんですか

誰だって だとか
こうだ。 とかさ
理屈云々 なんて、
そんなことを言えば正しく見えるね


どうせ小さい箱の中では求められることだらけで、あくせくしているんだから、箱の外にいる時くらい自分で自分に求めたりするのはやめてどうにかなるくらいになってないと
死にはしないけど生きた心地もしなくなりそうだ




よくわかんないし
まぁなんでもいいし
どうでもいいなんて投げ出してはいけないのかもしれないけど

涼やかな風の匂いが鼻腔をくすぐる。ブルーライトばかりを与えられる眼に、青空の色はあまりにも眼に優しく心地良い。
もうどうでもいい気がして、ちっぽけな人間として見るどこまでも広がるような空を見ているだけで。
有意義だとかそういう云々は関係無しに、ただこの空と風に気分を乗せていたい。

2/12/2025, 12:22:06 AM

じぶんを振り返るのは、もうたくさんだ。

往生際の悪い。

捨てたものに執着せずに、

ただ前を見ろとも言わないが、

堂々としてろよ



永遠や無償の愛だなんて言う類のものは所詮でまかせで幻想だ。
ただ、それに縋らなくてはやっていけない時があるから、こんな言葉が存在して、なくならないんじゃないか?



物語の主人公は、暗い過去を抱えながらも大体報われてたりする。
現実でも世の中そうできていると信じたい。
でも自分の生きる世の中が冷え切っているのは分かっている。それが世の中だけのせいじゃないことも。まぁ、何にせよ信じたくとも信じるには及ばない。保身が働く。余計な期待するだけ痛手を負うだろう。
世間的に風当たりのいい、それとなくまとめ上げられたハッピーエンドのストーリーは意外と腐るほどあって。
そういうのに当たってしまう度、あぁやっぱ人間が描いてるなぁとしみじみ思う。

クリエイティブって別に自由でもない



優しさって何だろう。

優しさ、すなわち高級ワイングラスに入った青酸カリとはよく言ったものだ。
私も優しいと言われてもそんな風に、言わば卑屈に受け取ってしまうから、頷ける言葉だ。

曖昧なものだ。

優しさとは相手にとって都合が良いとか、理想に沿った言動をしたということで、
「優しいね」とは「我は満足したぞよ。」とでも言った私への評価なのだ。

自己犠牲に対し一個人のご都合から語り「優しい」なんて響きのいい歪んだことを言うから、それに侵されてしまうような人はバタバタとドミノ倒しになっていく世界なんだろうと私は思う。

恋人、友人、仕事、宗教、お金、時間、嗜好、etc…

何にも執着せず生きる世界は、どんな風に映るんだろうな。

1/29/2025, 3:39:33 PM

ここに綴っても続きが見えない文字たちに、なかったことしてしまいたいと言葉をそっとどこかに残して隠す
時効で消え去るといい

夏の日陰は好んで歩く。避暑地だ。
冬の日陰は避けて歩く。できるだけ温かい陽を。

日向は疲れる
日陰は虚しい

日向は暑い
日陰は寒い

日向は明るい
日陰は暗い

日向は温かい
日陰は涼しい



思い出すのは嫌なことばかりで
あぁなんでこんな人が…と思いかけて、今こうして生きられているだけで随分と恵まれたことじゃないか。衣食住揃っていて、なんの文句もないだろう。
そう言い聞かせる。こんなことばっかだ
世の中どうやったって糞みたいなことばっかで…でもだからこそ優しさや喜びが感じられて、そう思うとそんな糞にも感謝したくなる。

確かにそうだよ。そうだけどさ、もうそういうのいいよ。もうたくさんだ。お腹いっぱいで苦しいよ。
そんな感情から目を背けるために言い訳とか綺麗事並べて
そんなわけないじゃん
恵まれてるからなんだよ
恵まれてるから幸せだとは限らない
不幸と比べて幸だというのは苦し紛れだと分かってたんだ
糞はどうやったって糞でその事実は揺らぐことなくて、嫌なもんは嫌だよ

あの人がこんな風なこと言ってた。言い訳とか綺麗事とか全部引き算していって残った感情は本心で、そうやって本心を見つけて認める
こういうのが必要なんだよな多分

この師ブームもまたいつ終わんのかなとか
明日とか?笑


1/29/2025, 3:47:40 AM

雪が降った日、私は麦わら帽子をかぶった

快晴の空の下、私は鼻唄うたいながら蛇の目傘をさして町を歩いた


気まぐれな人間なんだから
それでいいんじゃない?
それが、いいんじゃない。


              
               題:帽子をかぶって

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