見上げる空には、綿菓子のような雲が浮かんでいる。
「今日……だったよ、ね?」
何度目かの不安の言葉が溢れ落ちる。視線を下ろし周囲を見るが、待ち人の姿はどこにも見えない。
溜息を吐いて、凭れていた榎の幹を撫でた。ごつごつとした表面は、記憶の中のそれよりも逞しい。
当然だ。あれから十年もの長い時間が過ぎている。木も、恐らくは待ち人も成長しているはずだ。
「忘れちゃったのかな」
十年前の今日、友達と約束をした。ここに埋めた宝箱を一緒に掘り出すという、二人だけの秘密。
あの時、自分は宝箱の中に何を入れたのだったか。忘れてしまった思い出の答え合わせを楽しみにこの日を待っていたというのに、肝心の友達が訪れる様子はない。
けれどそれは仕方がないことだと諦めてもいた。
友達と一緒にいたのは、宝箱を埋めた時が最後だ。次の日には友達は引っ越してしまっていて、今まで連絡一つも取ってはいなかった。
「もう少し待って、来ないようなら一人で開けてもいいよね」
誰もいないと分かってはいるが、それでも声に出して確認する。
寂しいなと思いながらも、幹に凭れかかり目を閉じた。
肌寒さを感じて目を開ける。
気づけば夕暮れ時。赤く染まる周囲は、段々と暗い影を落とし始めている。
「やっちゃった」
溜息を吐きながら体を起こす。何気なく隣に視線を向け、目を瞬いた。
気のせいだろうか。一瞬だけ、木の向こう側に誰かが立っていたように見えた。
立ち上がり、ゆっくりと近づく。幹の裏を覗くものの、やはり誰の姿もない。
「あれ……?」
しかし何か違和感があった。周囲を見、幹を見て、そしてそのまま視線を下ろし、息を呑む。
土が盛り上がっている部分がある。屈んでそこに触れれば、明らかに周りの土と違い柔らかさを感じた。
つい先ほど掘り起こされたみたいだ。何故、と思いながらも、興味を引かれ土を掘り起こしていく。
その近くの根に、うっすらと何かが刻まれているのに気づいた。目を凝らして見てみると、それは小さな三角形の図形だった。
三角の図形は友達が宝箱を埋めた場所の目印だ。あぁ、と納得すると同時に、友達がここに来ていた可能性に困惑する。
何故声をかけてくれなかったのだろう。いくら寝ていたとはいえ、起こしてくれればよかっただろうに。
無意識に眉間に皺を刻みながら、地面を掘り返していく。不思議と友達の宝箱はまだここにあると確信していた。
「――あった」
指先が固いものに触れ、土を払っていく。現れた箱を取り出して、そっと蓋に手をかけた。
けれど自分の宝箱を、まだ掘り返していないことを思い出し、立ち上がる。急いで宝箱を埋めた場所まで戻り、地面を掘り返し始めた。
「疲れた」
額に滲む汗を拭いながら、荒い呼吸を整えていく。
固い地面は簡単には掘ることができず、近くの枝を探して必死に掘り起こした。それでも中々宝箱は見つからず、気づけば辺りは夜の暗がりに沈んでしまっている。
「何を埋めたんだったかな」
目の前の二つの箱に視線を落とす。
十年経っているとは思えぬほど、箱はとてもきれいな状態で残っていた。そのことを少し不思議に思うが、それよりも箱の中身が気になって仕方がない。
記憶は曖昧だが、この箱が宝箱だとは分かる。けれど箱を見ても、やはり中身は思い出せない。
本当に、自分は何を埋めたのだろう。
「まぁ、思い出せなくても、開ければいいだけか」
思い出せないもどかしさに眉を寄せながら、箱の蓋に手を伸ばした。
「――瓶?」
抵抗なく開いた箱の中身。手のひらほどの小瓶を見て、首を傾げた。
透明な瓶の中で、青白い何かが揺らめいているのが見える。取り出して月の光に翳すと、それは小さな焔だった。
「提灯。忘れてきちゃった……」
無意識に出た言葉に驚くが、すぐに納得する。
この焔は提灯に入れて使うものだ。一つ思い出して、次々に約束したことを思い出す。
友達と二人でお参りに行く約束。帰りは暗くなるだろうからと、自分は灯りをいれたのだ。
けれどここに友達はいない。置いて行かれてしまったことに肩を落とす自分の横を、不意に風が吹き抜けていく。
その冷たさに思わず体を震わせた。暖かくなってきたとはいえ、この辺りは日が暮れるとまだ寒い。辺りも暗く、お参りに行くなら明日にしよう。
そんなことを思っていると、風に葉が揺れる音に紛れてくすくすと小さく笑う声がした。
上の方。顔を上げると、枝に座りこちらを見下ろす楽しげな目と視線が合った。
「あ……」
懐かしさを感じるその笑顔。十年という時間が過ぎても変わらない。
どうして、と問おうとした喉は震えて吐息しか出てこない。懐かしさと、疑問と、嬉しさが体中を駆け巡り、思考が停止する。
硬直する自分の横にふわりと降り立って、彼はもう一つの――友達が埋めた箱の蓋に手を伸ばした。
自分のものよりも大きな箱。中には萌黄色の布が入っているようだった。
それを取り出し広げると、彼はまだ動けない自分の肩にそっと羽織らせる。ちょうど今の自分に合わせたような大きさの羽織物。さらに困惑していると、彼は耐えきれなくなったように声を上げて笑い出した。
「笑わないでよ」
「笑わずにいられるか。起こしても起きない。起きても気づかない。気づいたと思えば、いつまでもお間抜けな顔をしてるんだから」
一つ一つ指摘され、思わず頬が熱くなる。視線を逸らして俯くと、いつの間にか彼の手に明かりのない提灯が握られていることに気づく。
しっかりしている。自分が提灯を忘れてしまうこともお見通しだったようだ。
少しだけ悔しく思いながら、瓶の蓋を開ける。こちらに手渡された提灯に焔を入れ、手に持った。
「準備は整ったな。それじゃあ、行くぞ」
「これから?」
すっかり夜も更けている。明日の方がいいのではと思ったが、彼は大丈夫だと意味ありげに笑う。
「遅くなることは、約束した時から分かってたからな。宝箱を埋めた後、しっかりとお参りが遅くなることは伝えてある」
「うわ……」
準備の良過ぎる彼に、何とも言えない声が出る。けれども彼は気にかけることもなく、提灯を取り、先を歩き出した。
「ここまで察しが良過ぎると、さすがに少し気持ち悪いかも」
「何か言ったか?」
慌てて何でもないと首を振り、彼に少し遅れて歩き出す。
十年前の約束。二人だけの秘密。
そっと胸を手で押さえた。
「どうした?胸が痛いのか?」
「大丈夫。ちょっと苦しいだけ」
途端に心配そうに立ち止まる彼の横を擦り抜け、先を行く。慌てて隣に並ぶ彼の視線に気づかない振りをして、心の中だけでこっそりと笑った。
ようやく今日を迎えられたことが嬉しくて胸が苦しいなんて、流石の彼にも察することができないようだ。
この秘密は、もう少しだけ自分の中に隠しておくことにしよう。
20260503 『二人だけの秘密』
「ねぇ」
微かな呼ぶ声に、本のページを捲る手が一瞬だけ止まった。
すぐに何もなかった振りをして、ページを捲る。けれどもう本の内容など頭には入らず、体は勝手に耳を澄ませ始めた。
耳から入り込む外の音。遠くで電車が過ぎていき、それを掻き消すように風が窓を叩いていく。
「ねぇ」
しかしどんなに強い風が周囲の音を掻き消しても、呼ぶ声ははっきりと聞こえてくる。
位置的に、右側の壁の向こう側。二階にある部屋はここだけで、壁の向こうに部屋はない。
「ねぇ」
耐えきれずに立ち上がる。がたがたと椅子が揺れ倒れそうになるが、気にする余裕などはなかった。
机の上の時計を一瞥する。まだ祖母が起きている時間だと確認すると、足は部屋の外へと向かいだした。
これ以上は駄目だ。我慢できそうにない。
階段を駆け下り、祖母の部屋へ足早に歩いていく。いつもの廊下の暗がりですら何か得体のしれないものが潜んでいるような気がして、必死に前だけを見つめていた。
「お祖母ちゃん!」
すぱん、と声もかけずに襖戸を開ければ、祖母はちょうど寝るために電気を消そうとしていた所だった。
「どうしたんだい?こんな時間に血相を変えて」
不思議そうに祖母は首を傾げているが、何も言わずに部屋へと足を踏み入れる。
どうしてそんなに呑気にしていられるのか。そんな理不尽な思いが沸き上がってくるのを抑えながら祖母の前に立ち、一度深く呼吸をした。
「私、明日の朝一で帰るから」
きょとん、と祖母の目が瞬く。
少しだけ眉を寄せ、壁掛けのカレンダーに視線を向けながら口を開いた。
「お迎えは明後日だったはずじゃあなかったかい?あたしには何の連絡もなかったよ」
「自分で帰る。絶対に帰るから」
両親の迎えなど、待ってなどいられない。叶うのならば、今すぐにでも家に帰りたいくらいだ。
前々から、この家は何かがおかしいとは思っていた。
誰もいないはずの部屋から聞こえる笑い声。振り返るとほんの少しだけ開いている、閉めたばかりの扉。
夜に白い手が廊下の奥から手招いていることもあった。全部気のせいなんだと誤魔化し続けてきたが、それもそろそろ限界だ。
「もう耐えられない!ねぇ、ねぇってずっとそれだけ繰り返してさ!気が散るし、怖いしで、ほんっとにサイアク!」
今までの鬱憤も込めて祖母に今までの恐怖体験を語るものの、彼女は何故か穏やかに微笑みを浮かべて、うんうんと頷きながら話を聞いている。どこか楽しそうに見えることを不思議に思いながら、同時に理不尽さも感じてさらに不満が止まらなくなった。
祖母は長くここに住んでいるから、当たり前になってしまったのだろうか。そう思い眉を寄せると、祖母はまるで秘密を打ち明けるように手を口元に持っていき、囁いた。
「呼びかけられる時にはね、三回目に返事をしなさい」
「三回目?どうして三回じゃないとダメなの?」
「それがちょうどいいからね」
ふふ、と笑う祖母は少女のように無邪気で可愛らしい。思わず毒気を抜かれてしまい、段々と何に怒っていたのかさえも分からなくなってくる。
小さく溜息を吐く。言いたいことはまだあったものの、そうやって笑えるくらいであるならば、大げさに怖がるほどでもないのかもしれない。布団に入り出した祖母のため部屋の電気を消しながら、何となく思う。
「おやすみ」
「はい。おやすみ。帰るのは返事をしてからにしてあげてちょうだいね」
念を押されるように繰り返され、そういえば帰ると話したことを思い出した。何も言えず、曖昧に笑いながら電気を消す。
帰る前に一度くらいは試してもいいのかもしれない。そう思いつつ、来た時とは違い軽い気持ちで部屋を出た。
「ねぇ」
その機会は、案外すぐに訪れた。
朝食の時間。祖母と向き合いながらご飯を食べていると、不意に背後から声がした。
振り返りそうになるものの、祖母の言葉を思い出し耐える。
まだ一回目だ。返事をするのに、あと二回待たなくては。
「ねぇ」
二回目。心の中で数を数える。
目の前の祖母に変わった様子はない。聞こえていないのか、それとも気にしていないだけなのかは分からなかった。
耳を澄ます。今日も朝から風が強いのか、かたかたと窓が揺れている音がする。
トラックが過ぎていく音。食器が立てる音。
まだ声は聞こえない。
「――ねぇ」
躊躇うように声がした。控えめな、おずおずとした声音。
かちゃ、と手にしていた食器を置く。
かたん、と椅子を引いて立ち上がり。
「あのさぁ、言いたいことがあるなら、はっきり言いなよね!」
勢いよく振り返れば、ずっと後ろにいたらしい小さな少年の驚きに見開かれた目と視線があった。
「――つまり、庭で藤が咲いたから、それを見せようと声をかけてたと」
こくこくと頷く少年の純粋さに、込み上げた溜息を飲み込む。
朝食後。少年と祖母から話を聞いた所、彼はどうやらこの家の屋敷神らしい。
小さい頃から度々祖母の家を訪れる自分のことを気にかけてくれていたようで、今回花が綺麗に咲いたから見せたくて声をかけていたのだと、主に祖母が教えてくれた。
「え?じゃあ、夜中の白い手とか、誰もいない部屋の笑い声も神様の仕業?」
「それはきっと、別の子たちだろうねぇ。この家は古いから色々と集まってくるんだよ」
お茶を飲みながら呑気に答える祖母の言葉に、思わず口元が引きつってしまう。
やはりこの家には、よく分からないモノがたくさんいるようだ。その事実が確かになり、頭の隅に今すぐ帰りたいという選択肢が浮かぶのを感じた。
「悪戯好きな子もいるけれど、皆いい子だよ。仲良くしてあげておくれね」
正直に言わせてもらえれば、無理である。
今まで気のせい、見間違いで何とか耐えてきたのだ。祖母のように恐怖を恐怖と思わない、強い人と同じ扱いをしないでほしい。
「よろしく」
くい、と袖を引かれた。視線を向けると小さな屋敷神と目が合い、にこりと微笑まれる。
可愛い。
直前の怖いという感情が掻き消えていく単純さに、自分のことながら呆れつつも屋敷神に対して小さく頷いた。
袖を引かれるままに立ち上がり、藤棚の所へ向かうのだろう屋敷神に続いて歩き出す。
「楽しんでおいで。皆、あんたが好きで、喜んでもらおうと庭の手入れは欠かさないからねぇ」
自分のため、という言葉に悪い気はしない。
怖がり帰ろうとしたことなどすっかり忘れて、上機嫌でいってきますと祖母に告げた。
外に出て、耳を澄ますと聞こえてくる車や電車の日常の音。
けれど今朝はやけに遠い。代わりに耳を澄まさなくとも聞こえてくる、誰かの楽しげな声。
「こっち」
屋敷神が笑顔で手招く。周囲の花や木が風もないのに揺れている。
「こういうのなら、結構悪くないかも」
ざわり、と嬉しそうに揺れる周囲に、自分まで嬉しくなってしまう。
本当に単純だなと、美しい庭を見渡して思った。
20260504 『耳を澄ますと』
彼女が姿を消したのは、まだ辺りを雪が白く染めていた頃のこと。
家に帰ってくると、まだ幼い弟妹たちがどこか不安そうに家や庭で何かを探し回っていた。
「どうした?」
庭にいた上の弟に声をかけると、途端に泣きそうに顔を歪める。そのまま抱き着かれ、背を撫で落ち着かせながらもう一度何があったのかを尋ねると、どうやら彼女の姿がどこにも見当たらないのだという。
「――弟とけんかをしたんだ」
あぁ、そういえばと、数日前のことを思い出す。
出かける前に、弟たちの部屋が騒がしいことには気づいていた。しかし同じく彼女の声も聞こえていたから、どうにかなると然程気にも留めてなかった。
実際に夕方帰った時には、何も変わらなかったように思う。彼女はいつも通り笑みを浮かべ、弟妹たちも落ち着いていたはずだった。
「その時に、酷いことを言っちゃって」
泣きながら弟が訴える。それを辺り障りのない言葉で慰めながら、彼女ならばどんな言葉をかけるかを考えた。
きっと陽だまりのように優しい言葉なのだろう。穏やかに微笑みを浮かべ、大丈夫だよと頭を撫でてくれるのかもしれない。
そんなことをすぐに思いついてしまうほど、彼女は優しい子だった。怒っている所など一度も見たことはない。理不尽な八つ当たりでさえも、少し困ったように笑うだけで何も言うことはなかった。
「帰ってくるよね……?」
縋るような弟の言葉に、けれど何を返せばいいのか分からず曖昧に笑う。
彼女の優しさを知っているからこそ、自分たちに何も言わずにいなくなることはないと思っている。けれど彼女の在り方を思うと、突然消えてしまったかもしれない可能性を否定できない。
彼女は、例えるのならば座敷童のような存在なのだろう。家が何かと恵まれているのは、彼女が自分たちの知らない所で何かと助けてくれているからだ。彼女がいるからこそ両親が仕事で長く家を空けている状態でも、自分たちだけで生きていける。
「本当にいなくなってしまったのなら、この庭は枯れてしまうよ」
雪に埋もれた庭を見ながら、それだけを答えた。
誰も手入れをしていないはずなのに、美しく整えられた庭。春になるといつも色とりどりの花が咲き、甘い香りが庭や家を満たしていた。
「っ、そう、だよね。いなくなったりするはずない、よね」
無理矢理に作った笑みを浮かべ、弟は体を離すと家の中へと駆けこんでいく。おそらく他の弟妹たちに伝えに行ったのだろう。
小さく息を吐く。家に入る前に庭を見渡した。
けれどいくら目を凝らしても、彼女の痕跡を見つけることはできなかった。
冬が過ぎ、春が訪れても、彼女は姿を見せなかった。
誰もが不安に思いながらも、彼女のことについて何も言わない。気づかない振りをして、作った笑顔を浮かべ穏やかに過ごしている。
仲良くしていれば彼女はまた戻ってくると、願をかけているかのように。
「桜、散っちゃったね」
縁側に座り、庭を駆け回る弟妹たちを見るともなしに見る。
「でも梅は実をつけ始めたよ」
「そうだよ。それに薔薇や藤が咲き始めているよ」
その言葉に、庭へと視線を巡らせた。桜や梅は青々とした葉を茂らせ、藤棚では白や紫の花房が見事に垂れている。
奥では鮮やかな薔薇や牡丹が咲き始めており、庭に美しい色を添えていた。
「今年も、皆綺麗に咲いたね」
妹の小さな呟きが、吹き抜けた風に攫われていく。葉が擦れる音を聞きながら、静かに目を伏せた。
春が来ても、庭は枯れなかった。
暖かな家も、いつの間にか作られている食事も、彼女がいなくなった後も何一つ変わらない。
それがただ悲しい。
彼女がいてくれた時は、感謝の言葉を伝えられた。何も言わず、けれど嬉しそうにはにかむ彼女の顔を見るのが好きだった。
彼女のいない今、誰に感謝を伝えればいいのだろう。この恵まれている状況がいつしか当たり前に感じてしまいそうで、恐ろしくて堪らない。
家の中に戻り、一番奥の部屋へと向かう。
彼女がよく過ごしていた部屋。薄暗く、どこか湿っぽさを感じるのは、彼女がいなくなった後からだった。
窓を開け、空気を入れ替える。そっと押入れを開け、中から箱を取り出した。
中を開ければ古びた書物や巻物がいくつも収まっている。そこから巻物を一つ取り出した。
以前父が教えてくれた、この家の家系図。紐解いて、畳の上に広げていく。
その中で目を引くのは、墨で塗りつぶされた部分だった。何人かいる子供の中の一人。一番右側に書かれていることから、長子だったのだろう。
男か女かも分からない誰か。何故その子だけが消されているのかは分からない。
ただ、何となくではあるが、これが彼女なのだと思う。
いなかったことにされている彼女。彼女は何を思ってこの家に留まっているのだろうか。
不意に、窓から柔らかな風が吹き込んだ。広げた家系図を控えめにはためかせていく。
控えめな主張は、まるで彼女のようだ。笑おうとして失敗し、泣くのを耐えた顔で家系図を元の通りに片付けていく。
「ここに、いるんだね」
答えはない。けれど一瞬だけ、ふわりと土の匂いがした。
「弟が優しくするなと言ったから、見えなくなってしまっただけなんだね」
弟が言っていた。宥めようとしてくれた彼女に、八つ当たりをしたのだと。
その時の弟たちは、優しさが欲しかった訳じゃない。
叱ってほしかったのだ。くだらないことで争っている自分たちを、親のように窘めてほしかった。
けれど彼女にはそれができなかった。唯一与えられる優しさを否定され、そのせいで見えなくなってしまったのだろう。
「きっと皆がまた優しさを求めたら、見えるようになるんだろう」
根拠はないがそう思う。
けれどそれを弟妹たちに伝えられてはいない。伝えれば、皆は喜んで求めるはずだ。だがそれが本当に正しいことなのか、分からないでいる。
彼女が知っているのは優しさだけで、きっとその他は何も分からない。そしてその優しさが、彼女をこの家に縛り付けている。
「怒っていいんだ。勝手に存在しなかったことにされていることを、こうしていつまでも利用されていることを悲しんで、憎んでほしい」
きつく握り締めた手が震える。込み上げてくる感情に突き動かされるまま、願った。
「そうすればきっと、この家から解放されるはず。自分を犠牲に優しさを与えるならいっそ、憎んで恨んで自由になってほしい」
彼女が優しさ以外を知って本当にいなくなった後、この家は朽ちていくのだろう。
世話をしなくなった庭は荒れ、家の中も立ち行かなくなるはずだ。
けれどそれでいい。いつまでも彼女の優しさに甘えるよりもずっと、正しいことだと強く想う。
風が吹く。髪を揺らし、包み込むような温もりを感じた。
部屋を見回しても、誰の姿もない。開いた窓からは、微かに弟妹達の声が聞こえている。
この部屋には、自分一人しかいない。
――あなたが優しさ以外を与えてくれたら、私はそれを知ることができるわ。
声がした。懐かしくて、どこまでも優しい声音。
「優しさ以外を……与える……」
繰り返して、眉を寄せる。何が与えられるかを考えて途方に暮れた。
「どうしよう……」
風がそっと頬を撫でていく。誰かに頭を撫でられている懐かしい感覚に泣きそうになった。
自分には、彼女に悲しみや怒りを与えることができない。
与えられるものなど優しさだけで、きっとそれ以外に与えたいものなど愛しかない。
20260502 『優しさだけで、きっと』
「返す」
そう言って渡された、小瓶に入った黄色の絵の具。
「気に入らなかった?」
受け取りながら、尋ねた。
絵の具を貸し出す期間として約束した時間には、まだ十分に時間がある。何かあったのかと困惑しながら、彼の顔を見上げた。
「――別に、そういう訳ではない」
答えるまでの、一瞬の間。時間にしてたった数秒にも満たない短い時間。
それだけで十分だった。
「他の色がよかった……という訳でもないよね」
「あぁ」
頷く彼を横目に、手の中の絵の具を転がした。小瓶の中で黄色の粉末が、陽の光を浴びながらさらさらと零れ落ちていく。
カナリーイエロー。カナリアの羽根のような明るい緑みを帯びた鮮やかな黄色は、見る者の心を温かくする。色を忘れた彼が春を知るのに相応しいと思ったが、喜んではもらえなかったようだ。
「参考までに、色を見た時の感想を教えてもらえるかな」
問いかけるものの、はっきりとした答えを求めていた訳ではない。
ただの興味本位。先程のような、ほんの僅かな反応でも見られたらという軽い気持ちだった。
「――美しかった」
けれど予想に反して、彼は真っすぐにこちらの目を見据えて告げる。
嘘偽りのない、彼の本心。どこか苦しげにも聞こえる声音に、思わず眉が寄った。
「たった一色。色づくだけで、何もかもが変わった。世界がこんなにも明るく、美しいものだったと思い出すことができた」
目を細めて彼は微笑む。
やはりその笑みは、泣くのを耐えているような、そんな悲しみが浮かんでいた。
「幸せだった」
声を震わせ、彼は言う。
「記憶の中にあるものよりも鮮やかで、愛おしい色。美しく囀る鳥が、黄色に煌めく羽を広げて飛ぶのを見た。甘く爽やかで、それでいて青臭い黄色の花が一面に広がる光景が目に焼き付いて離れない……だから、駄目だった」
気づけば、彼は手をきつく握り込んでいた。
何かを耐えている時の癖。手を解くことは簡単だけれども、想いを解くことは難しい。
彼から目を逸らさず、ただ静かに待つ。
話すことを強要はしない。話したくないものを無理に聞き出したとして、お互いに苦しくなるだけだ。けれど話したいと本心では思っていることを話せないというのも、同じくらいに苦しいことを知っている。
ひとつ、彼は深呼吸をした。俯いて、握り締めていた手を解く。
そして次に顔を上げた時、彼は何もかもを諦めたような目をして笑った。
「返したくないと、思った。このままずっとこの美しい色を見ていたいと、欲が沸き上がってくるんだ。ここに来なければそれが叶う。もう灰色の世界を置いていけると、そんな囁きが離れない」
自分自身に負けてしまう前に返しに来た。
そう告げられて、呆れてしまう。
なんて馬鹿正直な男なのだろう。その囁きに従った所で誰も――それこそ自分だって、咎めることはないというのに。
本当は返してもらえなくても良かったのだ。色彩に溢れた世界を見れたとして、今の自分には何の意味もない。
事故で色を失った彼と、眠り続ける体から追い出されてしまった自分。
渡した色は、生きている彼のためにこそ相応しいものだというのに。
「馬鹿だねぇ」
思わず口をついて出た言葉に、彼は眉を顰めた。
何かを言いかける彼を制して、もう一度絵の具を差し出す。途端に戸惑いを見せる彼の手を掴み、無理矢理に握らせた。
「あげると言っても受け取らないだろうから、貸すと言ったんだけど。くれないか、の一言だけで解決するのに、何でこうも悩むかな」
「っ、そんな簡単に……!」
押し返そうとする彼に益々呆れながら、小瓶の蓋を取ってその手に中身を撒いた。
きらきらと煌めく陽の光のような粉。手に触れて、それは雪のように溶けて彼の中に取り込まれていく。突然のことに反応できず、呆然と手を見つめる彼は次第に泣きそうに顔を歪めた。
「私が持っていても仕方のないものだよ。どうせここから動けないんだ。それに私には一色だけあれば、それでいい」
苦笑しながら、別の絵の具を取り出した。
アザーブルー。晴れ渡った青空のような、明るくて鮮やかな青。
瓶の蓋を取り、彼の手の中に中身を撒いていく。消えていく空の色を視界の端で感じながら、彼の頬を伝い落ちていく滴に見とれていた。
無色透明。けれどカラフルな世界のどんな景色よりも美しい。手を伸ばし滴を拭うが何の温度も感じられず、それが少しだけ寂しかった。
「こんな勝手なことをして……目が覚めた後、どうするんだ」
「どうもしないよ。なるようになる」
それに、きっともう目覚めない。
心の中でだけ、付け加える。悲壮な顔をする彼に気づかない振りをして、また一つ絵の具を取り出した。
カーマイン。鮮やかで深みのある赤。命を思わせる、聖なる色。
怯えたように、彼は手を引いた。明確な拒絶が事故の悪夢から、彼が今も抜け出せていないことを雄弁に語っていた。
「大丈夫」
彼の目を見て微笑む。手を差し出せば迷うように彼の目が揺れ、そしてゆっくりと閉じられていく。
小さな溜息。
少しして目を開けた彼は、何かを決めたようにこちらを見据えて口を開いた。
「戻ってくるなら、受け入れる」
息を呑んだ。
無理だと言おうとして、彼の目の強さに口を噤む。手の中の絵の具を強く握り、俯いた。
「生きることを諦めるな。逃げずに最後まで藻掻くなら、俺もお前の意志を尊重する」
声が痛い。そう感じたのは初めてだ。
込み上げる想いが溢れそうで、きつく目を閉じた。それでも止められず、溢れたものが滴として頬を伝っていくのを感じる。
久しぶりに感じる熱。空気に冷やされた滴を拭う指の熱が、彼に答えを返そうと急かしている。
「頼む。俺を置いていかないでくれ。一人で見る色に溢れた世界に慣れさせようなんて、残酷なことはしないでほしい」
目を開けて、彼の顔を見た。滲む視界で、彼が同じように泣いているのがぼんやりと見える。
震える指先で絵の具の蓋を開けた。何も言わず差し出された大きな手のひらにそっと小瓶を傾け、絵の具を撒いていく。
煌めく赤。降り積もり、溶けて彼の中に吸い込まれて彼の一部になっていく。
「私はここから動けない」
自分がいるのは病室ではなく、庭で彼と植えたオリーブの木の下だ。互いに支え合い、いつまでも平穏に暮らせるように願いを込めた、幸せの象徴。カラフルな世界よりも煌めいていた、愛しい日々。
自分では抜け出せない。
「だから――」
彼に手を伸ばす。
「あなたが、連れて行って」
それが自分が彼に返せる、精一杯の答えだった。
20260501 『カラフル』
甘い香りが鼻腔を擽る。
穏やかな日差し。足元に咲いた花々が風に吹かれ、鮮やかな花弁を空に舞い上げていく。
誰かが、この場所を楽園だと言った。今では誰もがここを楽園だと信じている。
訪れる者を拒まない、暖かな庭園。傷つき、彷徨った果てに辿り着いた安息の地。
いつまでもここにいたいと、皆口を揃えて言う。自分もそう思っている。そして、あの子たちもそれは変わらなかったはずだった。
「まだ気にしているの?」
不意に声をかけられ、振り向いた。自分と同じく古くからここにいる彼女が、微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「楽園を追放された子たちは誰も戻らない。今までだってそうでしょう?」
「そうだけど……」
追放、という言葉に胸が苦しくなった。そっと胸に手を当て、あの子たちを思う。
何の前触れもなく、ある日突然いなくなってしまった子たち。楽園のどこを探しても見つからず、きっと楽園から追い出されてしまったのだと誰かが呟いたことから、いつしかいなくなることを追放されたと囁くようになった。
ここを追い出されてしまう理由は誰にも分からない。だなら余計に、どうしてという疑問が頭の中でぐるぐると渦を巻く。
また明日と、昨日別れたあの子との叶わない約束が、ただ悲しかった。
「いつまでも気にしてたって仕方ないよ。それよりも遊びに行こう?」
そんな自分とは違い、彼女は気にする素振りもない。
冷たいわけではなく、受け入れているのだと気づいたのはつい最近だった。
「追放される時が来ても、後悔のないように楽しもう?」
彼女のような考えを持つ人は案外多い。ここに長くいる人ほど、すべてを受け入れる考えに至るように感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。
自分だけが取り残されていく。
漠然とした不安を抱きながら、それを隠して差し出された彼女の手を取った。
ふと、目が覚めた。
何故だか落ち着かない。目を閉じていても一向に眠気は訪れず、密かに息を吐いて体を起こした。
仕方がない。少し外の空気を吸おうと、ベッドから抜け出した。
「――あ」
当てもなく歩き続け、そうして辿り着いたのは庭園の入り口だった。
緑のアーチがあるだけで、門扉はない。外から来る者を拒まない、優しい入り口。
今も開いているはずなのに、閉じているように見えた。
どうしてか気になって、一歩近づく。目を細めて入り口を見つめて、また一歩近づいた。
「もう、いいの?」
声がした。
振り返ると、こちらを見つめる彼女の姿。ただ静かに、立っていた。
どういう意味だろうか。首を傾げるものの、彼女はそれ以上を語る様子はない。
もう一度入り口に視線を向ける。先の暗がりを見つめ、込み上げる思いに従って頷いた。
「いいよ。もう十分」
「そっか」
近づく足音。するりと手を繋がれて、視線を向けた。
「じゃあ、また始められるね」
「――うん」
思わず首を振りそうになり、必死に踏み止まる。繋いだ手を強く握って頷いた。
「次も一緒にいてあげる。だから前を向きなさい」
厳しいけれども優しい声音。
何をまた始めるのかは分からない。ただそれか怖くて、不安で動けなくなりそうな自分に、彼女は大丈夫だと目を合わせて微笑んだ。
「また、手を引いてくれる?」
「引くよ。離すと、きっとまた迷子になって泣いてしまうもの」
「手を離したりしない?」
「ちゃんと繋いでいるわ。あなたが離したいと思うまでは側にいる」
甘やかす言葉に、小さく笑う。
繋いだ手に視線を向ける。しっかりと繋がれた手。愛しい温もり。
気づけば不安も怖さもない。彼女の目を見返して、今度は迷いなく頷いてみせた。
「じゃあ、行こうか」
そう言って彼女は前を向く。同じように自分も楽園の入り口に向き直った。
ゆっくりと歩き出す。立ち止まらずにアーチを潜り抜ける。
「――っ」
その瞬間、空気が変わった。
甘いだけの香りに、冷たさが混じる。水を含んだ土。腐った果実。生きた獣の生臭さが鼻をつく。
踏みしめた地面は固く冷たい。剥き出しの地面の荒い感触が足から全身に伝わってくる。
見上げた空は曇天。ただ暗いだけの空に、温もりは感じない。吹き抜ける風の冷たさに、小さく体が震えた。
生々しい景色。楽園の中とは違い、ここには生の厳しさが広がっていた。
思わず立ち止まる。
彼女は何も言わない。静かに自分がまた歩き出すのを待っている。
強く手を握り、一度だけ後ろを振り返った。口を開いたままのアーチ。戻ろうと思えば戻れるはずなのに、何故かもう引き返せないのだと感じる。足が戻ることを許さない。
「――お姉ちゃん」
そっと彼女を呼んだ。溢れた言葉に息を呑み、彼女を見つめ笑う。
「また、お姉ちゃんになってくれたんだ」
「そうね。また少しだけ先に行って、あなたを待ってるわ」
目を合わせて笑い合った。
彼女がいれば怖くない。繋いだ手から伝わる温もりがある限り、自分はまた世界を楽しむことができる。
どちらからともなく歩き出す。道の先は暗がりが広がっているが、怖いとは感じない。
その先に待つものを知っている。甘いだけではない、厳しい世界。
「楽園から追放されたって、皆思うんだろうな。そんなことないのに」
ふと、自分たちがいなくなった後のことを考えた。最近来たばかりの子たちは、そのことにまた怯えてしまうのだろう。
追放されたのではない。自分から出て行ったのだと伝えてあげられないことが、少しだけ心残りだった。
「案外、追放されたっていうのは間違いではないかもね。ここで怖くなって引き返しても、楽園の中には入れない。二度と戻れないことは変わらないんだから」
確かに。振り返った時に感じたことを思い出す。
もう戻れない。今更泣いて後悔しても、先に進むしかない。
「後悔してる?」
「してない。少し怖いけど、一緒なら大丈夫」
前を向いたまま、そう答えた。それは偽りのない本心だ。
「そっか」
それ以上お互い何も言わず、ただ歩いていく。
道の先。微かに光が見えて、無意識に繋いだ手に力を込めた。
この先がどんな世界であれ、自分は一人ではない。
だからきっと、大丈夫だ。
20260430 『楽園』
風に乗って、微かに花の香りがした。
何の花だっただろうか。ぼんやりと記憶を辿る。
仄かに甘く、それでいて澄みきった清々しい香り。思い出せそうで思い出せないもどかしさに、少しだけ眉が寄った。
視線を巡らせる。青々とした葉をつける木々のどれかに咲く花を探して目を凝らした。
「――懐かしいな」
ふと、誰かの声がした。目を瞬き後ろを振り返れば、同じ年頃に見える少年が佇んでいる。
いつからそこにいたのか。問いかけようとして、その目に浮かぶ寂しさに気づいて思わず口を噤んだ。
「花が咲き綻ぶような笑顔。白のワンピース……あの子はずっと、俺のために何も言わなかった」
泣いている。涙は見えなかったけれど、何故かそう思った。
「あの子の季節が来た。忘れてしまったものが、また帰ってくる」
風が吹き抜けた。さっきよりも強く花の香りが漂っている。
視界の端で、白が過ぎていくのが見えた。視線を向け手を伸ばすと、白の花びらが指先に絡みつく。
「梅……白梅だ」
白の花びらを見つめ、呟いた。先ほどから香っているのは、どうやら白梅だったらしい。
「その白梅は、特別なんだ」
穏やかな声がした。振り返ると、少年が立っていた場所に、男性が立っていた。
少年とよく似た面立ち。まるで少年が一瞬で成長して男性になってしまったみたいだ。
「特別で、離れたくなかった。諦めたくなくて毎日通い詰めて……そうしたら、最後には折れてくれたよ。とても嬉しかったけど信じられなくて、全部都合のいい夢なんじゃないかって怖くて……でも、娘がこれは本当なんだって、大きな声で泣いて教えてくれた」
その目にはもう、寂しさはなかった。穏やかで柔らかな微笑みは幸せを噛み締めているようで、自分のことではないのに気恥ずかしくなってしまう。
「娘はあの子にそっくりだった。笑い方も、微かに白梅の香りがするところも全部。好奇心旺盛で、お転婆で……でも真っすぐに育ってくれた」
どこか誇らしげな声と共に、また風が吹き抜けていく。
空に舞う白の花びら。甘酸っぱい匂いが広がって、白梅の木の前に立っているような気持ちになってくる。
一際強い風に、反射的に目を閉じた。ざあざあという風に揺れる葉の音に紛れて、一瞬だけ、楽しそうに笑う小さな女の子の笑い声が聞こえた気がした。
「娘が彼氏を連れて来た時には、こっそり落ち込んだよ。反対するつもりでいたのに、話してみるととても穏やかで真面目な青年だったから、何も言えなくなってしまった」
風が止んで、目を開けた。
目の前には、初老の男性の姿。やはり先程の男性とよく似た面立ちをしていた。
「彼なら娘を幸せにしてくれる。そうあの子にも言われて、青年に娘を託した。離れていくことに寂しさはあったが、娘の晴れ姿に嬉しい気持ちの方が勝っていたな」
優しい目。親として、心から子供の幸せを喜んでいるのだろう。その目の中には寂しさは欠片も浮かばず、愛しさに満ちていた。
「娘は、白梅が咲き誇る春先に生まれたんだ。そして、娘の子も白梅が満開の頃に生まれてきてくれた。娘とそっくりで、小さくて、白梅の香りがしたのを覚えているよ」
穏やかに微笑んで、彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。目の前で立ち止まり、優しく頭を撫でてくれた。
「――っ」
会いに行く度、こうして頭を撫でてくれていたのを思い出す。目を細め、大きくなったなと笑ってくれていた時と変わらない眼差しに、目の奥がつんと熱くなるのを感じた。
「こうして、風に乗ってあの子の匂いが届くと忘れていたものが戻ってくる。あの子が抱えて守ってくれていた記憶を、この時だけは思い出せる」
泣いてしまいそうだ。頭を撫でる彼も、泣きそうに笑っている。
「また大きくなったな。小さな頃はあんなに泣き虫だったのに、我慢できるようになったのか」
「だって……もう、子供じゃないし……」
俯いて、いつまでも子供扱いされることに不満を漏らす。
親という存在はそういうものなのだと、前に母が言っていた。特に祖父は母を最期まで子供扱いし、孫である自分も同じように接して、いってしまった。
風が吹く。白梅の花を散らし、香りを散らして、風が過ぎていく。
「お母さんによろしく伝えてくれ。忘れてしまっても、お前たちの幸せを心から願っているよ」
「分かってる。祖父ちゃんも、ふらふらしてないで、しっかりしている間に、いくべき所に行ってよね」
心からそう思っている。自分だけでなく、両親も心配していた。
「それは大丈夫だよ。あの子が一緒に来てくれたからね。あの子の香りがちゃんと導いてくれた」
それを聞いて安心した。顔を上げて祖父の目を見て、笑ってみせる。
泣くよりも、笑って別れたい。まだ記憶をなくしていなかった祖父と約束したことだ。
風に舞う白梅が祖父の姿を隠していく。頭を撫でていた手の感覚が薄くなり、祖父が静かに消えていく。
「ばいばい。祖父ちゃん」
白梅が空高く舞った。それを目で追いかけ、もう一度目の前を見ると、そこに祖父の姿はなかった。
まるで最初から誰もいなかったかのように。
「やっぱりこの時期だけは、はっきりしてるんだな……もう、花は咲かないのに」
祖父が愛した白梅は、祖父が亡くなった後、花を散らして枯れてしまった。
両親は祖父と共にいったのだと話していた。自分もそう思っている。
「会えるとは思ってなかったけど、会いに来てよかった」
ふふ、と笑う。何だか得した気分で、家に帰るため歩き出す。
「私も、祖父ちゃんや母さんたちみたいな恋ができればいいな」
風に乗って運ばれた愛しい人の香りで記憶を取り戻すような、そんな素敵な恋。
不意に風が吹いた。
白梅の香りはしない。けれどそっと背中を押された気がした。
20260429 『風に乗って』