sairo

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彼女が姿を消したのは、まだ辺りを雪が白く染めていた頃のこと。
家に帰ってくると、まだ幼い弟妹たちがどこか不安そうに家や庭で何かを探し回っていた。

「どうした?」

庭にいた上の弟に声をかけると、途端に泣きそうに顔を歪める。そのまま抱き着かれ、背を撫で落ち着かせながらもう一度何があったのかを尋ねると、どうやら彼女の姿がどこにも見当たらないのだという。

「――弟とけんかをしたんだ」

あぁ、そういえばと、数日前のことを思い出す。
出かける前に、弟たちの部屋が騒がしいことには気づいていた。しかし同じく彼女の声も聞こえていたから、どうにかなると然程気にも留めてなかった。
実際に夕方帰った時には、何も変わらなかったように思う。彼女はいつも通り笑みを浮かべ、弟妹たちも落ち着いていたはずだった。

「その時に、酷いことを言っちゃって」

泣きながら弟が訴える。それを辺り障りのない言葉で慰めながら、彼女ならばどんな言葉をかけるかを考えた。
きっと陽だまりのように優しい言葉なのだろう。穏やかに微笑みを浮かべ、大丈夫だよと頭を撫でてくれるのかもしれない。
そんなことをすぐに思いついてしまうほど、彼女は優しい子だった。怒っている所など一度も見たことはない。理不尽な八つ当たりでさえも、少し困ったように笑うだけで何も言うことはなかった。

「帰ってくるよね……?」

縋るような弟の言葉に、けれど何を返せばいいのか分からず曖昧に笑う。
彼女の優しさを知っているからこそ、自分たちに何も言わずにいなくなることはないと思っている。けれど彼女の在り方を思うと、突然消えてしまったかもしれない可能性を否定できない。
彼女は、例えるのならば座敷童のような存在なのだろう。家が何かと恵まれているのは、彼女が自分たちの知らない所で何かと助けてくれているからだ。彼女がいるからこそ両親が仕事で長く家を空けている状態でも、自分たちだけで生きていける。

「本当にいなくなってしまったのなら、この庭は枯れてしまうよ」

雪に埋もれた庭を見ながら、それだけを答えた。
誰も手入れをしていないはずなのに、美しく整えられた庭。春になるといつも色とりどりの花が咲き、甘い香りが庭や家を満たしていた。

「っ、そう、だよね。いなくなったりするはずない、よね」

無理矢理に作った笑みを浮かべ、弟は体を離すと家の中へと駆けこんでいく。おそらく他の弟妹たちに伝えに行ったのだろう。
小さく息を吐く。家に入る前に庭を見渡した。

けれどいくら目を凝らしても、彼女の痕跡を見つけることはできなかった。



冬が過ぎ、春が訪れても、彼女は姿を見せなかった。
誰もが不安に思いながらも、彼女のことについて何も言わない。気づかない振りをして、作った笑顔を浮かべ穏やかに過ごしている。
仲良くしていれば彼女はまた戻ってくると、願をかけているかのように。

「桜、散っちゃったね」

縁側に座り、庭を駆け回る弟妹たちを見るともなしに見る。

「でも梅は実をつけ始めたよ」
「そうだよ。それに薔薇や藤が咲き始めているよ」

その言葉に、庭へと視線を巡らせた。桜や梅は青々とした葉を茂らせ、藤棚では白や紫の花房が見事に垂れている。
奥では鮮やかな薔薇や牡丹が咲き始めており、庭に美しい色を添えていた。

「今年も、皆綺麗に咲いたね」

妹の小さな呟きが、吹き抜けた風に攫われていく。葉が擦れる音を聞きながら、静かに目を伏せた。

春が来ても、庭は枯れなかった。
暖かな家も、いつの間にか作られている食事も、彼女がいなくなった後も何一つ変わらない。
それがただ悲しい。
彼女がいてくれた時は、感謝の言葉を伝えられた。何も言わず、けれど嬉しそうにはにかむ彼女の顔を見るのが好きだった。
彼女のいない今、誰に感謝を伝えればいいのだろう。この恵まれている状況がいつしか当たり前に感じてしまいそうで、恐ろしくて堪らない。

家の中に戻り、一番奥の部屋へと向かう。
彼女がよく過ごしていた部屋。薄暗く、どこか湿っぽさを感じるのは、彼女がいなくなった後からだった。
窓を開け、空気を入れ替える。そっと押入れを開け、中から箱を取り出した。
中を開ければ古びた書物や巻物がいくつも収まっている。そこから巻物を一つ取り出した。
以前父が教えてくれた、この家の家系図。紐解いて、畳の上に広げていく。
その中で目を引くのは、墨で塗りつぶされた部分だった。何人かいる子供の中の一人。一番右側に書かれていることから、長子だったのだろう。
男か女かも分からない誰か。何故その子だけが消されているのかは分からない。
ただ、何となくではあるが、これが彼女なのだと思う。
いなかったことにされている彼女。彼女は何を思ってこの家に留まっているのだろうか。
不意に、窓から柔らかな風が吹き込んだ。広げた家系図を控えめにはためかせていく。
控えめな主張は、まるで彼女のようだ。笑おうとして失敗し、泣くのを耐えた顔で家系図を元の通りに片付けていく。

「ここに、いるんだね」

答えはない。けれど一瞬だけ、ふわりと土の匂いがした。

「弟が優しくするなと言ったから、見えなくなってしまっただけなんだね」

弟が言っていた。宥めようとしてくれた彼女に、八つ当たりをしたのだと。
その時の弟たちは、優しさが欲しかった訳じゃない。
叱ってほしかったのだ。くだらないことで争っている自分たちを、親のように窘めてほしかった。
けれど彼女にはそれができなかった。唯一与えられる優しさを否定され、そのせいで見えなくなってしまったのだろう。

「きっと皆がまた優しさを求めたら、見えるようになるんだろう」

根拠はないがそう思う。
けれどそれを弟妹たちに伝えられてはいない。伝えれば、皆は喜んで求めるはずだ。だがそれが本当に正しいことなのか、分からないでいる。
彼女が知っているのは優しさだけで、きっとその他は何も分からない。そしてその優しさが、彼女をこの家に縛り付けている。

「怒っていいんだ。勝手に存在しなかったことにされていることを、こうしていつまでも利用されていることを悲しんで、憎んでほしい」

きつく握り締めた手が震える。込み上げてくる感情に突き動かされるまま、願った。

「そうすればきっと、この家から解放されるはず。自分を犠牲に優しさを与えるならいっそ、憎んで恨んで自由になってほしい」

彼女が優しさ以外を知って本当にいなくなった後、この家は朽ちていくのだろう。
世話をしなくなった庭は荒れ、家の中も立ち行かなくなるはずだ。
けれどそれでいい。いつまでも彼女の優しさに甘えるよりもずっと、正しいことだと強く想う。
風が吹く。髪を揺らし、包み込むような温もりを感じた。
部屋を見回しても、誰の姿もない。開いた窓からは、微かに弟妹達の声が聞こえている。
この部屋には、自分一人しかいない。

――あなたが優しさ以外を与えてくれたら、私はそれを知ることができるわ。

声がした。懐かしくて、どこまでも優しい声音。

「優しさ以外を……与える……」

繰り返して、眉を寄せる。何が与えられるかを考えて途方に暮れた。

「どうしよう……」

風がそっと頬を撫でていく。誰かに頭を撫でられている懐かしい感覚に泣きそうになった。
自分には、彼女に悲しみや怒りを与えることができない。

与えられるものなど優しさだけで、きっとそれ以外に与えたいものなど愛しかない。




20260502 『優しさだけで、きっと』

5/3/2026, 12:00:30 PM