見上げる空には、綿菓子のような雲が浮かんでいる。
「今日……だったよ、ね?」
何度目かの不安の言葉が溢れ落ちる。視線を下ろし周囲を見るが、待ち人の姿はどこにも見えない。
溜息を吐いて、凭れていた榎の幹を撫でた。ごつごつとした表面は、記憶の中のそれよりも逞しい。
当然だ。あれから十年もの長い時間が過ぎている。木も、恐らくは待ち人も成長しているはずだ。
「忘れちゃったのかな」
十年前の今日、友達と約束をした。ここに埋めた宝箱を一緒に掘り出すという、二人だけの秘密。
あの時、自分は宝箱の中に何を入れたのだったか。忘れてしまった思い出の答え合わせを楽しみにこの日を待っていたというのに、肝心の友達が訪れる様子はない。
けれどそれは仕方がないことだと諦めてもいた。
友達と一緒にいたのは、宝箱を埋めた時が最後だ。次の日には友達は引っ越してしまっていて、今まで連絡一つも取ってはいなかった。
「もう少し待って、来ないようなら一人で開けてもいいよね」
誰もいないと分かってはいるが、それでも声に出して確認する。
寂しいなと思いながらも、幹に凭れかかり目を閉じた。
肌寒さを感じて目を開ける。
気づけば夕暮れ時。赤く染まる周囲は、段々と暗い影を落とし始めている。
「やっちゃった」
溜息を吐きながら体を起こす。何気なく隣に視線を向け、目を瞬いた。
気のせいだろうか。一瞬だけ、木の向こう側に誰かが立っていたように見えた。
立ち上がり、ゆっくりと近づく。幹の裏を覗くものの、やはり誰の姿もない。
「あれ……?」
しかし何か違和感があった。周囲を見、幹を見て、そしてそのまま視線を下ろし、息を呑む。
土が盛り上がっている部分がある。屈んでそこに触れれば、明らかに周りの土と違い柔らかさを感じた。
つい先ほど掘り起こされたみたいだ。何故、と思いながらも、興味を引かれ土を掘り起こしていく。
その近くの根に、うっすらと何かが刻まれているのに気づいた。目を凝らして見てみると、それは小さな三角形の図形だった。
三角の図形は友達が宝箱を埋めた場所の目印だ。あぁ、と納得すると同時に、友達がここに来ていた可能性に困惑する。
何故声をかけてくれなかったのだろう。いくら寝ていたとはいえ、起こしてくれればよかっただろうに。
無意識に眉間に皺を刻みながら、地面を掘り返していく。不思議と友達の宝箱はまだここにあると確信していた。
「――あった」
指先が固いものに触れ、土を払っていく。現れた箱を取り出して、そっと蓋に手をかけた。
けれど自分の宝箱を、まだ掘り返していないことを思い出し、立ち上がる。急いで宝箱を埋めた場所まで戻り、地面を掘り返し始めた。
「疲れた」
額に滲む汗を拭いながら、荒い呼吸を整えていく。
固い地面は簡単には掘ることができず、近くの枝を探して必死に掘り起こした。それでも中々宝箱は見つからず、気づけば辺りは夜の暗がりに沈んでしまっている。
「何を埋めたんだったかな」
目の前の二つの箱に視線を落とす。
十年経っているとは思えぬほど、箱はとてもきれいな状態で残っていた。そのことを少し不思議に思うが、それよりも箱の中身が気になって仕方がない。
記憶は曖昧だが、この箱が宝箱だとは分かる。けれど箱を見ても、やはり中身は思い出せない。
本当に、自分は何を埋めたのだろう。
「まぁ、思い出せなくても、開ければいいだけか」
思い出せないもどかしさに眉を寄せながら、箱の蓋に手を伸ばした。
「――瓶?」
抵抗なく開いた箱の中身。手のひらほどの小瓶を見て、首を傾げた。
透明な瓶の中で、青白い何かが揺らめいているのが見える。取り出して月の光に翳すと、それは小さな焔だった。
「提灯。忘れてきちゃった……」
無意識に出た言葉に驚くが、すぐに納得する。
この焔は提灯に入れて使うものだ。一つ思い出して、次々に約束したことを思い出す。
友達と二人でお参りに行く約束。帰りは暗くなるだろうからと、自分は灯りをいれたのだ。
けれどここに友達はいない。置いて行かれてしまったことに肩を落とす自分の横を、不意に風が吹き抜けていく。
その冷たさに思わず体を震わせた。暖かくなってきたとはいえ、この辺りは日が暮れるとまだ寒い。辺りも暗く、お参りに行くなら明日にしよう。
そんなことを思っていると、風に葉が揺れる音に紛れてくすくすと小さく笑う声がした。
上の方。顔を上げると、枝に座りこちらを見下ろす楽しげな目と視線が合った。
「あ……」
懐かしさを感じるその笑顔。十年という時間が過ぎても変わらない。
どうして、と問おうとした喉は震えて吐息しか出てこない。懐かしさと、疑問と、嬉しさが体中を駆け巡り、思考が停止する。
硬直する自分の横にふわりと降り立って、彼はもう一つの――友達が埋めた箱の蓋に手を伸ばした。
自分のものよりも大きな箱。中には萌黄色の布が入っているようだった。
それを取り出し広げると、彼はまだ動けない自分の肩にそっと羽織らせる。ちょうど今の自分に合わせたような大きさの羽織物。さらに困惑していると、彼は耐えきれなくなったように声を上げて笑い出した。
「笑わないでよ」
「笑わずにいられるか。起こしても起きない。起きても気づかない。気づいたと思えば、いつまでもお間抜けな顔をしてるんだから」
一つ一つ指摘され、思わず頬が熱くなる。視線を逸らして俯くと、いつの間にか彼の手に明かりのない提灯が握られていることに気づく。
しっかりしている。自分が提灯を忘れてしまうこともお見通しだったようだ。
少しだけ悔しく思いながら、瓶の蓋を開ける。こちらに手渡された提灯に焔を入れ、手に持った。
「準備は整ったな。それじゃあ、行くぞ」
「これから?」
すっかり夜も更けている。明日の方がいいのではと思ったが、彼は大丈夫だと意味ありげに笑う。
「遅くなることは、約束した時から分かってたからな。宝箱を埋めた後、しっかりとお参りが遅くなることは伝えてある」
「うわ……」
準備の良過ぎる彼に、何とも言えない声が出る。けれども彼は気にかけることもなく、提灯を取り、先を歩き出した。
「ここまで察しが良過ぎると、さすがに少し気持ち悪いかも」
「何か言ったか?」
慌てて何でもないと首を振り、彼に少し遅れて歩き出す。
十年前の約束。二人だけの秘密。
そっと胸を手で押さえた。
「どうした?胸が痛いのか?」
「大丈夫。ちょっと苦しいだけ」
途端に心配そうに立ち止まる彼の横を擦り抜け、先を行く。慌てて隣に並ぶ彼の視線に気づかない振りをして、心の中だけでこっそりと笑った。
ようやく今日を迎えられたことが嬉しくて胸が苦しいなんて、流石の彼にも察することができないようだ。
この秘密は、もう少しだけ自分の中に隠しておくことにしよう。
20260503 『二人だけの秘密』
「ねぇ」
微かな呼ぶ声に、本のページを捲る手が一瞬だけ止まった。
すぐに何もなかった振りをして、ページを捲る。けれどもう本の内容など頭には入らず、体は勝手に耳を澄ませ始めた。
耳から入り込む外の音。遠くで電車が過ぎていき、それを掻き消すように風が窓を叩いていく。
「ねぇ」
しかしどんなに強い風が周囲の音を掻き消しても、呼ぶ声ははっきりと聞こえてくる。
位置的に、右側の壁の向こう側。二階にある部屋はここだけで、壁の向こうに部屋はない。
「ねぇ」
耐えきれずに立ち上がる。がたがたと椅子が揺れ倒れそうになるが、気にする余裕などはなかった。
机の上の時計を一瞥する。まだ祖母が起きている時間だと確認すると、足は部屋の外へと向かいだした。
これ以上は駄目だ。我慢できそうにない。
階段を駆け下り、祖母の部屋へ足早に歩いていく。いつもの廊下の暗がりですら何か得体のしれないものが潜んでいるような気がして、必死に前だけを見つめていた。
「お祖母ちゃん!」
すぱん、と声もかけずに襖戸を開ければ、祖母はちょうど寝るために電気を消そうとしていた所だった。
「どうしたんだい?こんな時間に血相を変えて」
不思議そうに祖母は首を傾げているが、何も言わずに部屋へと足を踏み入れる。
どうしてそんなに呑気にしていられるのか。そんな理不尽な思いが沸き上がってくるのを抑えながら祖母の前に立ち、一度深く呼吸をした。
「私、明日の朝一で帰るから」
きょとん、と祖母の目が瞬く。
少しだけ眉を寄せ、壁掛けのカレンダーに視線を向けながら口を開いた。
「お迎えは明後日だったはずじゃあなかったかい?あたしには何の連絡もなかったよ」
「自分で帰る。絶対に帰るから」
両親の迎えなど、待ってなどいられない。叶うのならば、今すぐにでも家に帰りたいくらいだ。
前々から、この家は何かがおかしいとは思っていた。
誰もいないはずの部屋から聞こえる笑い声。振り返るとほんの少しだけ開いている、閉めたばかりの扉。
夜に白い手が廊下の奥から手招いていることもあった。全部気のせいなんだと誤魔化し続けてきたが、それもそろそろ限界だ。
「もう耐えられない!ねぇ、ねぇってずっとそれだけ繰り返してさ!気が散るし、怖いしで、ほんっとにサイアク!」
今までの鬱憤も込めて祖母に今までの恐怖体験を語るものの、彼女は何故か穏やかに微笑みを浮かべて、うんうんと頷きながら話を聞いている。どこか楽しそうに見えることを不思議に思いながら、同時に理不尽さも感じてさらに不満が止まらなくなった。
祖母は長くここに住んでいるから、当たり前になってしまったのだろうか。そう思い眉を寄せると、祖母はまるで秘密を打ち明けるように手を口元に持っていき、囁いた。
「呼びかけられる時にはね、三回目に返事をしなさい」
「三回目?どうして三回じゃないとダメなの?」
「それがちょうどいいからね」
ふふ、と笑う祖母は少女のように無邪気で可愛らしい。思わず毒気を抜かれてしまい、段々と何に怒っていたのかさえも分からなくなってくる。
小さく溜息を吐く。言いたいことはまだあったものの、そうやって笑えるくらいであるならば、大げさに怖がるほどでもないのかもしれない。布団に入り出した祖母のため部屋の電気を消しながら、何となく思う。
「おやすみ」
「はい。おやすみ。帰るのは返事をしてからにしてあげてちょうだいね」
念を押されるように繰り返され、そういえば帰ると話したことを思い出した。何も言えず、曖昧に笑いながら電気を消す。
帰る前に一度くらいは試してもいいのかもしれない。そう思いつつ、来た時とは違い軽い気持ちで部屋を出た。
「ねぇ」
その機会は、案外すぐに訪れた。
朝食の時間。祖母と向き合いながらご飯を食べていると、不意に背後から声がした。
振り返りそうになるものの、祖母の言葉を思い出し耐える。
まだ一回目だ。返事をするのに、あと二回待たなくては。
「ねぇ」
二回目。心の中で数を数える。
目の前の祖母に変わった様子はない。聞こえていないのか、それとも気にしていないだけなのかは分からなかった。
耳を澄ます。今日も朝から風が強いのか、かたかたと窓が揺れている音がする。
トラックが過ぎていく音。食器が立てる音。
まだ声は聞こえない。
「――ねぇ」
躊躇うように声がした。控えめな、おずおずとした声音。
かちゃ、と手にしていた食器を置く。
かたん、と椅子を引いて立ち上がり。
「あのさぁ、言いたいことがあるなら、はっきり言いなよね!」
勢いよく振り返れば、ずっと後ろにいたらしい小さな少年の驚きに見開かれた目と視線があった。
「――つまり、庭で藤が咲いたから、それを見せようと声をかけてたと」
こくこくと頷く少年の純粋さに、込み上げた溜息を飲み込む。
朝食後。少年と祖母から話を聞いた所、彼はどうやらこの家の屋敷神らしい。
小さい頃から度々祖母の家を訪れる自分のことを気にかけてくれていたようで、今回花が綺麗に咲いたから見せたくて声をかけていたのだと、主に祖母が教えてくれた。
「え?じゃあ、夜中の白い手とか、誰もいない部屋の笑い声も神様の仕業?」
「それはきっと、別の子たちだろうねぇ。この家は古いから色々と集まってくるんだよ」
お茶を飲みながら呑気に答える祖母の言葉に、思わず口元が引きつってしまう。
やはりこの家には、よく分からないモノがたくさんいるようだ。その事実が確かになり、頭の隅に今すぐ帰りたいという選択肢が浮かぶのを感じた。
「悪戯好きな子もいるけれど、皆いい子だよ。仲良くしてあげておくれね」
正直に言わせてもらえれば、無理である。
今まで気のせい、見間違いで何とか耐えてきたのだ。祖母のように恐怖を恐怖と思わない、強い人と同じ扱いをしないでほしい。
「よろしく」
くい、と袖を引かれた。視線を向けると小さな屋敷神と目が合い、にこりと微笑まれる。
可愛い。
直前の怖いという感情が掻き消えていく単純さに、自分のことながら呆れつつも屋敷神に対して小さく頷いた。
袖を引かれるままに立ち上がり、藤棚の所へ向かうのだろう屋敷神に続いて歩き出す。
「楽しんでおいで。皆、あんたが好きで、喜んでもらおうと庭の手入れは欠かさないからねぇ」
自分のため、という言葉に悪い気はしない。
怖がり帰ろうとしたことなどすっかり忘れて、上機嫌でいってきますと祖母に告げた。
外に出て、耳を澄ますと聞こえてくる車や電車の日常の音。
けれど今朝はやけに遠い。代わりに耳を澄まさなくとも聞こえてくる、誰かの楽しげな声。
「こっち」
屋敷神が笑顔で手招く。周囲の花や木が風もないのに揺れている。
「こういうのなら、結構悪くないかも」
ざわり、と嬉しそうに揺れる周囲に、自分まで嬉しくなってしまう。
本当に単純だなと、美しい庭を見渡して思った。
20260504 『耳を澄ますと』
5/4/2026, 10:47:34 PM