sairo

Open App

「返す」

そう言って渡された、小瓶に入った黄色の絵の具。

「気に入らなかった?」

受け取りながら、尋ねた。
絵の具を貸し出す期間として約束した時間には、まだ十分に時間がある。何かあったのかと困惑しながら、彼の顔を見上げた。

「――別に、そういう訳ではない」

答えるまでの、一瞬の間。時間にしてたった数秒にも満たない短い時間。
それだけで十分だった。

「他の色がよかった……という訳でもないよね」
「あぁ」

頷く彼を横目に、手の中の絵の具を転がした。小瓶の中で黄色の粉末が、陽の光を浴びながらさらさらと零れ落ちていく。
カナリーイエロー。カナリアの羽根のような明るい緑みを帯びた鮮やかな黄色は、見る者の心を温かくする。色を知らない彼が春を知るのに相応しいと思ったが、喜んではもらえなかったようだ。

「参考までに、色を見た時の感想を教えてもらえるかな」

問いかけるものの、はっきりとした答えを求めていた訳ではない。
ただの興味本位。先程のような、ほんの僅かな反応でも見られたらという軽い気持ちだった。

「――美しかった」

けれど予想に反して、彼は真っすぐにこちらの目を見据えて告げる。
嘘偽りのない、彼の本心。どこか苦しげにも聞こえる声音に、思わず眉が寄った。

「たった一色。色づくだけで、何もかもが変わった。世界がこんなにも明るく、美しいものだったと思い出すことができた」

目を細めて彼は微笑む。
やはりその笑みは、泣くのを耐えているような、そんな悲しみが浮かんでいた。

「幸せだった」

声を震わせ、彼は言う。

「記憶の中にあるものよりも鮮やかで、愛おしい色。美しく囀る鳥が、黄色に煌めく羽を広げて飛ぶのを見た。甘く爽やかで、それでいて青臭い黄色の花が一面に広がる光景が目に焼き付いて離れない……だから、駄目だった」

気づけば、彼は手をきつく握り込んでいた。
何かを耐えている時の癖。手を解くことは簡単だけれども、想いを解くことは難しい。
彼から目を逸らさず、ただ静かに待つ。
話すことを強要はしない。話したくないものを無理に聞き出したとして、お互いに苦しくなるだけだ。けれど話したいと本心では思っていることを話せないというのも、同じくらいに苦しいことを知っている。
ひとつ、彼は深呼吸をした。俯いて、握り締めていた手を解く。
そして次に顔を上げた時、彼は何もかもを諦めたような目をして笑った。

「返したくないと、思った。このままずっとこの美しい色を見ていたいと、欲が沸き上がってくるんだ。ここに来なければそれが叶う。もう灰色の世界を置いていけると、そんな囁きが離れない」

自分自身に負けてしまう前に返しに来た。
そう告げられて、呆れてしまう。
なんて馬鹿正直な男なのだろう。その囁きに従った所で誰も――それこそ自分だって、咎めることはないというのに。
本当は返してもらえなくても良かったのだ。色彩に溢れた世界を見れたとして、今の自分には何の意味もない。
事故で色を失った彼と、眠り続ける体から追い出されてしまった自分。
渡した色は、生きている彼のためにこそ相応しいものだというのに。

「馬鹿だねぇ」

思わず口をついて出た言葉に、彼は眉を顰めた。
何かを言いかける彼を制して、もう一度絵の具を差し出す。途端に戸惑いを見せる彼の手を掴み、無理矢理に握らせた。

「あげると言っても受け取らないだろうから、貸すと言ったんだけど。くれないか、の一言だけで解決するのに、何でこうも悩むかな」
「っ、そんな簡単に……!」

押し返そうとする彼に益々呆れながら、小瓶の蓋を取ってその手に中身を撒いた。
きらきらと煌めく陽の光のような粉。手に触れて、それは雪のように溶けて彼の中に取り込まれていく。突然のことに反応できず、呆然と手を見つめる彼は次第に泣きそうに顔を歪めた。

「私が持っていても仕方のないものだよ。どうせここから動けないんだ。それに私には一色だけあれば、それでいい」

苦笑しながら、別の絵の具を取り出した。
アザーブルー。晴れ渡った青空のような、明るくて鮮やかな青。
瓶の蓋を取り、彼の手の中に中身を撒いていく。消えていく空の色を視界の端で感じながら、彼の頬を伝い落ちていく滴に見とれていた。
無色透明。けれどカラフルな世界のどんな景色よりも美しい。手を伸ばし滴を拭うが何の温度も感じられず、それが少しだけ寂しかった。

「こんな勝手なことをして……目が覚めた後、どうするんだ」
「どうもしないよ。なるようになる」

それに、きっともう目覚めない。
心の中でだけ、付け加える。悲壮な顔をする彼に気づかない振りをして、また一つ絵の具を取り出した。
カーマイン。鮮やかで深みのある赤。命を思わせる、聖なる色。
怯えたように、彼は手を引いた。明確な拒絶が事故の悪夢から、彼が今も抜け出せていないことを雄弁に語っていた。

「大丈夫」

彼の目を見て微笑む。手を差し出せば迷うように彼の目が揺れ、そしてゆっくりと閉じられていく。
小さな溜息。
少しして目を開けた彼は、何かを決めたようにこちらを見据えて口を開いた。

「戻ってくるなら、受け入れる」

息を呑んだ。
無理だと言おうとして、彼の目の強さに口を噤む。手の中の絵の具を強く握り、俯いた。

「生きることを諦めるな。逃げずに最後まで藻掻くなら、俺もお前の意志を尊重する」

声が痛い。そう感じたのは初めてだ。
込み上げる想いが溢れそうで、きつく目を閉じた。それでも止められず、溢れたものが滴として頬を伝っていくのを感じる。
久しぶりに感じる熱。空気に冷やされた滴を拭う指の熱が、彼に答えを返そうと急かしている。

「頼む。俺を置いていかないでくれ。一人で見る色に溢れた世界に慣れさせようなんて、残酷なことはしないでほしい」

目を開けて、彼の顔を見た。滲む視界で、彼が同じように泣いているのがぼんやりと見える。
震える指先で絵の具の蓋を開けた。何も言わず差し出された大きな手のひらにそっと小瓶を傾け、絵の具を撒いていく。
煌めく赤。降り積もり、溶けて彼の中に吸い込まれて彼の一部になっていく。

「私はここから動けない」

自分がいるのは病室ではなく、庭で彼と植えたオリーブの木の下だ。互いに支え合い、いつまでも平穏に暮らせるように願いを込めた、幸せの象徴。カラフルな世界よりも煌めいていた、愛しい日々。
自分では抜け出せない。

「だから――」

彼に手を伸ばす。

「あなたが、連れて行って」

それが自分が彼に返せる、精一杯の答えだった。




20260501 『カラフル』

5/3/2026, 3:53:30 AM