彼女が姿を消したのは、まだ辺りを雪が白く染めていた頃のこと。
家に帰ってくると、まだ幼い弟妹たちがどこか不安そうに家や庭で何かを探し回っていた。
「どうした?」
庭にいた上の弟に声をかけると、途端に泣きそうに顔を歪める。そのまま抱き着かれ、背を撫で落ち着かせながらもう一度何があったのかを尋ねると、どうやら彼女の姿がどこにも見当たらないのだという。
「――弟とけんかをしたんだ」
あぁ、そういえばと、数日前のことを思い出す。
出かける前に、弟たちの部屋が騒がしいことには気づいていた。しかし同じく彼女の声も聞こえていたから、どうにかなると然程気にも留めてなかった。
実際に夕方帰った時には、何も変わらなかったように思う。彼女はいつも通り笑みを浮かべ、弟妹たちも落ち着いていたはずだった。
「その時に、酷いことを言っちゃって」
泣きながら弟が訴える。それを辺り障りのない言葉で慰めながら、彼女ならばどんな言葉をかけるかを考えた。
きっと陽だまりのように優しい言葉なのだろう。穏やかに微笑みを浮かべ、大丈夫だよと頭を撫でてくれるのかもしれない。
そんなことをすぐに思いついてしまうほど、彼女は優しい子だった。怒っている所など一度も見たことはない。理不尽な八つ当たりでさえも、少し困ったように笑うだけで何も言うことはなかった。
「帰ってくるよね……?」
縋るような弟の言葉に、けれど何を返せばいいのか分からず曖昧に笑う。
彼女の優しさを知っているからこそ、自分たちに何も言わずにいなくなることはないと思っている。けれど彼女の在り方を思うと、突然消えてしまったかもしれない可能性を否定できない。
彼女は、例えるのならば座敷童のような存在なのだろう。家が何かと恵まれているのは、彼女が自分たちの知らない所で何かと助けてくれているからだ。彼女がいるからこそ両親が仕事で長く家を空けている状態でも、自分たちだけで生きていける。
「本当にいなくなってしまったのなら、この庭は枯れてしまうよ」
雪に埋もれた庭を見ながら、それだけを答えた。
誰も手入れをしていないはずなのに、美しく整えられた庭。春になるといつも色とりどりの花が咲き、甘い香りが庭や家を満たしていた。
「っ、そう、だよね。いなくなったりするはずない、よね」
無理矢理に作った笑みを浮かべ、弟は体を離すと家の中へと駆けこんでいく。おそらく他の弟妹たちに伝えに行ったのだろう。
小さく息を吐く。家に入る前に庭を見渡した。
けれどいくら目を凝らしても、彼女の痕跡を見つけることはできなかった。
冬が過ぎ、春が訪れても、彼女は姿を見せなかった。
誰もが不安に思いながらも、彼女のことについて何も言わない。気づかない振りをして、作った笑顔を浮かべ穏やかに過ごしている。
仲良くしていれば彼女はまた戻ってくると、願をかけているかのように。
「桜、散っちゃったね」
縁側に座り、庭を駆け回る弟妹たちを見るともなしに見る。
「でも梅は実をつけ始めたよ」
「そうだよ。それに薔薇や藤が咲き始めているよ」
その言葉に、庭へと視線を巡らせた。桜や梅は青々とした葉を茂らせ、藤棚では白や紫の花房が見事に垂れている。
奥では鮮やかな薔薇や牡丹が咲き始めており、庭に美しい色を添えていた。
「今年も、皆綺麗に咲いたね」
妹の小さな呟きが、吹き抜けた風に攫われていく。葉が擦れる音を聞きながら、静かに目を伏せた。
春が来ても、庭は枯れなかった。
暖かな家も、いつの間にか作られている食事も、彼女がいなくなった後も何一つ変わらない。
それがただ悲しい。
彼女がいてくれた時は、感謝の言葉を伝えられた。何も言わず、けれど嬉しそうにはにかむ彼女の顔を見るのが好きだった。
彼女のいない今、誰に感謝を伝えればいいのだろう。この恵まれている状況がいつしか当たり前に感じてしまいそうで、恐ろしくて堪らない。
家の中に戻り、一番奥の部屋へと向かう。
彼女がよく過ごしていた部屋。薄暗く、どこか湿っぽさを感じるのは、彼女がいなくなった後からだった。
窓を開け、空気を入れ替える。そっと押入れを開け、中から箱を取り出した。
中を開ければ古びた書物や巻物がいくつも収まっている。そこから巻物を一つ取り出した。
以前父が教えてくれた、この家の家系図。紐解いて、畳の上に広げていく。
その中で目を引くのは、墨で塗りつぶされた部分だった。何人かいる子供の中の一人。一番右側に書かれていることから、長子だったのだろう。
男か女かも分からない誰か。何故その子だけが消されているのかは分からない。
ただ、何となくではあるが、これが彼女なのだと思う。
いなかったことにされている彼女。彼女は何を思ってこの家に留まっているのだろうか。
不意に、窓から柔らかな風が吹き込んだ。広げた家系図を控えめにはためかせていく。
控えめな主張は、まるで彼女のようだ。笑おうとして失敗し、泣くのを耐えた顔で家系図を元の通りに片付けていく。
「ここに、いるんだね」
答えはない。けれど一瞬だけ、ふわりと土の匂いがした。
「弟が優しくするなと言ったから、見えなくなってしまっただけなんだね」
弟が言っていた。宥めようとしてくれた彼女に、八つ当たりをしたのだと。
その時の弟たちは、優しさが欲しかった訳じゃない。
叱ってほしかったのだ。くだらないことで争っている自分たちを、親のように窘めてほしかった。
けれど彼女にはそれができなかった。唯一与えられる優しさを否定され、そのせいで見えなくなってしまったのだろう。
「きっと皆がまた優しさを求めたら、見えるようになるんだろう」
根拠はないがそう思う。
けれどそれを弟妹たちに伝えられてはいない。伝えれば、皆は喜んで求めるはずだ。だがそれが本当に正しいことなのか、分からないでいる。
彼女が知っているのは優しさだけで、きっとその他は何も分からない。そしてその優しさが、彼女をこの家に縛り付けている。
「怒っていいんだ。勝手に存在しなかったことにされていることを、こうしていつまでも利用されていることを悲しんで、憎んでほしい」
きつく握り締めた手が震える。込み上げてくる感情に突き動かされるまま、願った。
「そうすればきっと、この家から解放されるはず。自分を犠牲に優しさを与えるならいっそ、憎んで恨んで自由になってほしい」
彼女が優しさ以外を知って本当にいなくなった後、この家は朽ちていくのだろう。
世話をしなくなった庭は荒れ、家の中も立ち行かなくなるはずだ。
けれどそれでいい。いつまでも彼女の優しさに甘えるよりもずっと、正しいことだと強く想う。
風が吹く。髪を揺らし、包み込むような温もりを感じた。
部屋を見回しても、誰の姿もない。開いた窓からは、微かに弟妹達の声が聞こえている。
この部屋には、自分一人しかいない。
――あなたが優しさ以外を与えてくれたら、私はそれを知ることができるわ。
声がした。懐かしくて、どこまでも優しい声音。
「優しさ以外を……与える……」
繰り返して、眉を寄せる。何が与えられるかを考えて途方に暮れた。
「どうしよう……」
風がそっと頬を撫でていく。誰かに頭を撫でられている懐かしい感覚に泣きそうになった。
自分には、彼女に悲しみや怒りを与えることができない。
与えられるものなど優しさだけで、きっとそれ以外に与えたいものなど愛しかない。
20260502 『優しさだけで、きっと』
「返す」
そう言って渡された、小瓶に入った黄色の絵の具。
「気に入らなかった?」
受け取りながら、尋ねた。
絵の具を貸し出す期間として約束した時間には、まだ十分に時間がある。何かあったのかと困惑しながら、彼の顔を見上げた。
「――別に、そういう訳ではない」
答えるまでの、一瞬の間。時間にしてたった数秒にも満たない短い時間。
それだけで十分だった。
「他の色がよかった……という訳でもないよね」
「あぁ」
頷く彼を横目に、手の中の絵の具を転がした。小瓶の中で黄色の粉末が、陽の光を浴びながらさらさらと零れ落ちていく。
カナリーイエロー。カナリアの羽根のような明るい緑みを帯びた鮮やかな黄色は、見る者の心を温かくする。色を忘れた彼が春を知るのに相応しいと思ったが、喜んではもらえなかったようだ。
「参考までに、色を見た時の感想を教えてもらえるかな」
問いかけるものの、はっきりとした答えを求めていた訳ではない。
ただの興味本位。先程のような、ほんの僅かな反応でも見られたらという軽い気持ちだった。
「――美しかった」
けれど予想に反して、彼は真っすぐにこちらの目を見据えて告げる。
嘘偽りのない、彼の本心。どこか苦しげにも聞こえる声音に、思わず眉が寄った。
「たった一色。色づくだけで、何もかもが変わった。世界がこんなにも明るく、美しいものだったと思い出すことができた」
目を細めて彼は微笑む。
やはりその笑みは、泣くのを耐えているような、そんな悲しみが浮かんでいた。
「幸せだった」
声を震わせ、彼は言う。
「記憶の中にあるものよりも鮮やかで、愛おしい色。美しく囀る鳥が、黄色に煌めく羽を広げて飛ぶのを見た。甘く爽やかで、それでいて青臭い黄色の花が一面に広がる光景が目に焼き付いて離れない……だから、駄目だった」
気づけば、彼は手をきつく握り込んでいた。
何かを耐えている時の癖。手を解くことは簡単だけれども、想いを解くことは難しい。
彼から目を逸らさず、ただ静かに待つ。
話すことを強要はしない。話したくないものを無理に聞き出したとして、お互いに苦しくなるだけだ。けれど話したいと本心では思っていることを話せないというのも、同じくらいに苦しいことを知っている。
ひとつ、彼は深呼吸をした。俯いて、握り締めていた手を解く。
そして次に顔を上げた時、彼は何もかもを諦めたような目をして笑った。
「返したくないと、思った。このままずっとこの美しい色を見ていたいと、欲が沸き上がってくるんだ。ここに来なければそれが叶う。もう灰色の世界を置いていけると、そんな囁きが離れない」
自分自身に負けてしまう前に返しに来た。
そう告げられて、呆れてしまう。
なんて馬鹿正直な男なのだろう。その囁きに従った所で誰も――それこそ自分だって、咎めることはないというのに。
本当は返してもらえなくても良かったのだ。色彩に溢れた世界を見れたとして、今の自分には何の意味もない。
事故で色を失った彼と、眠り続ける体から追い出されてしまった自分。
渡した色は、生きている彼のためにこそ相応しいものだというのに。
「馬鹿だねぇ」
思わず口をついて出た言葉に、彼は眉を顰めた。
何かを言いかける彼を制して、もう一度絵の具を差し出す。途端に戸惑いを見せる彼の手を掴み、無理矢理に握らせた。
「あげると言っても受け取らないだろうから、貸すと言ったんだけど。くれないか、の一言だけで解決するのに、何でこうも悩むかな」
「っ、そんな簡単に……!」
押し返そうとする彼に益々呆れながら、小瓶の蓋を取ってその手に中身を撒いた。
きらきらと煌めく陽の光のような粉。手に触れて、それは雪のように溶けて彼の中に取り込まれていく。突然のことに反応できず、呆然と手を見つめる彼は次第に泣きそうに顔を歪めた。
「私が持っていても仕方のないものだよ。どうせここから動けないんだ。それに私には一色だけあれば、それでいい」
苦笑しながら、別の絵の具を取り出した。
アザーブルー。晴れ渡った青空のような、明るくて鮮やかな青。
瓶の蓋を取り、彼の手の中に中身を撒いていく。消えていく空の色を視界の端で感じながら、彼の頬を伝い落ちていく滴に見とれていた。
無色透明。けれどカラフルな世界のどんな景色よりも美しい。手を伸ばし滴を拭うが何の温度も感じられず、それが少しだけ寂しかった。
「こんな勝手なことをして……目が覚めた後、どうするんだ」
「どうもしないよ。なるようになる」
それに、きっともう目覚めない。
心の中でだけ、付け加える。悲壮な顔をする彼に気づかない振りをして、また一つ絵の具を取り出した。
カーマイン。鮮やかで深みのある赤。命を思わせる、聖なる色。
怯えたように、彼は手を引いた。明確な拒絶が事故の悪夢から、彼が今も抜け出せていないことを雄弁に語っていた。
「大丈夫」
彼の目を見て微笑む。手を差し出せば迷うように彼の目が揺れ、そしてゆっくりと閉じられていく。
小さな溜息。
少しして目を開けた彼は、何かを決めたようにこちらを見据えて口を開いた。
「戻ってくるなら、受け入れる」
息を呑んだ。
無理だと言おうとして、彼の目の強さに口を噤む。手の中の絵の具を強く握り、俯いた。
「生きることを諦めるな。逃げずに最後まで藻掻くなら、俺もお前の意志を尊重する」
声が痛い。そう感じたのは初めてだ。
込み上げる想いが溢れそうで、きつく目を閉じた。それでも止められず、溢れたものが滴として頬を伝っていくのを感じる。
久しぶりに感じる熱。空気に冷やされた滴を拭う指の熱が、彼に答えを返そうと急かしている。
「頼む。俺を置いていかないでくれ。一人で見る色に溢れた世界に慣れさせようなんて、残酷なことはしないでほしい」
目を開けて、彼の顔を見た。滲む視界で、彼が同じように泣いているのがぼんやりと見える。
震える指先で絵の具の蓋を開けた。何も言わず差し出された大きな手のひらにそっと小瓶を傾け、絵の具を撒いていく。
煌めく赤。降り積もり、溶けて彼の中に吸い込まれて彼の一部になっていく。
「私はここから動けない」
自分がいるのは病室ではなく、庭で彼と植えたオリーブの木の下だ。互いに支え合い、いつまでも平穏に暮らせるように願いを込めた、幸せの象徴。カラフルな世界よりも煌めいていた、愛しい日々。
自分では抜け出せない。
「だから――」
彼に手を伸ばす。
「あなたが、連れて行って」
それが自分が彼に返せる、精一杯の答えだった。
20260501 『カラフル』
甘い香りが鼻腔を擽る。
穏やかな日差し。足元に咲いた花々が風に吹かれ、鮮やかな花弁を空に舞い上げていく。
誰かが、この場所を楽園だと言った。今では誰もがここを楽園だと信じている。
訪れる者を拒まない、暖かな庭園。傷つき、彷徨った果てに辿り着いた安息の地。
いつまでもここにいたいと、皆口を揃えて言う。自分もそう思っている。そして、あの子たちもそれは変わらなかったはずだった。
「まだ気にしているの?」
不意に声をかけられ、振り向いた。自分と同じく古くからここにいる彼女が、微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「楽園を追放された子たちは誰も戻らない。今までだってそうでしょう?」
「そうだけど……」
追放、という言葉に胸が苦しくなった。そっと胸に手を当て、あの子たちを思う。
何の前触れもなく、ある日突然いなくなってしまった子たち。楽園のどこを探しても見つからず、きっと楽園から追い出されてしまったのだと誰かが呟いたことから、いつしかいなくなることを追放されたと囁くようになった。
ここを追い出されてしまう理由は誰にも分からない。だなら余計に、どうしてという疑問が頭の中でぐるぐると渦を巻く。
また明日と、昨日別れたあの子との叶わない約束が、ただ悲しかった。
「いつまでも気にしてたって仕方ないよ。それよりも遊びに行こう?」
そんな自分とは違い、彼女は気にする素振りもない。
冷たいわけではなく、受け入れているのだと気づいたのはつい最近だった。
「追放される時が来ても、後悔のないように楽しもう?」
彼女のような考えを持つ人は案外多い。ここに長くいる人ほど、すべてを受け入れる考えに至るように感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。
自分だけが取り残されていく。
漠然とした不安を抱きながら、それを隠して差し出された彼女の手を取った。
ふと、目が覚めた。
何故だか落ち着かない。目を閉じていても一向に眠気は訪れず、密かに息を吐いて体を起こした。
仕方がない。少し外の空気を吸おうと、ベッドから抜け出した。
「――あ」
当てもなく歩き続け、そうして辿り着いたのは庭園の入り口だった。
緑のアーチがあるだけで、門扉はない。外から来る者を拒まない、優しい入り口。
今も開いているはずなのに、閉じているように見えた。
どうしてか気になって、一歩近づく。目を細めて入り口を見つめて、また一歩近づいた。
「もう、いいの?」
声がした。
振り返ると、こちらを見つめる彼女の姿。ただ静かに、立っていた。
どういう意味だろうか。首を傾げるものの、彼女はそれ以上を語る様子はない。
もう一度入り口に視線を向ける。先の暗がりを見つめ、込み上げる思いに従って頷いた。
「いいよ。もう十分」
「そっか」
近づく足音。するりと手を繋がれて、視線を向けた。
「じゃあ、また始められるね」
「――うん」
思わず首を振りそうになり、必死に踏み止まる。繋いだ手を強く握って頷いた。
「次も一緒にいてあげる。だから前を向きなさい」
厳しいけれども優しい声音。
何をまた始めるのかは分からない。ただそれか怖くて、不安で動けなくなりそうな自分に、彼女は大丈夫だと目を合わせて微笑んだ。
「また、手を引いてくれる?」
「引くよ。離すと、きっとまた迷子になって泣いてしまうもの」
「手を離したりしない?」
「ちゃんと繋いでいるわ。あなたが離したいと思うまでは側にいる」
甘やかす言葉に、小さく笑う。
繋いだ手に視線を向ける。しっかりと繋がれた手。愛しい温もり。
気づけば不安も怖さもない。彼女の目を見返して、今度は迷いなく頷いてみせた。
「じゃあ、行こうか」
そう言って彼女は前を向く。同じように自分も楽園の入り口に向き直った。
ゆっくりと歩き出す。立ち止まらずにアーチを潜り抜ける。
「――っ」
その瞬間、空気が変わった。
甘いだけの香りに、冷たさが混じる。水を含んだ土。腐った果実。生きた獣の生臭さが鼻をつく。
踏みしめた地面は固く冷たい。剥き出しの地面の荒い感触が足から全身に伝わってくる。
見上げた空は曇天。ただ暗いだけの空に、温もりは感じない。吹き抜ける風の冷たさに、小さく体が震えた。
生々しい景色。楽園の中とは違い、ここには生の厳しさが広がっていた。
思わず立ち止まる。
彼女は何も言わない。静かに自分がまた歩き出すのを待っている。
強く手を握り、一度だけ後ろを振り返った。口を開いたままのアーチ。戻ろうと思えば戻れるはずなのに、何故かもう引き返せないのだと感じる。足が戻ることを許さない。
「――お姉ちゃん」
そっと彼女を呼んだ。溢れた言葉に息を呑み、彼女を見つめ笑う。
「また、お姉ちゃんになってくれたんだ」
「そうね。また少しだけ先に行って、あなたを待ってるわ」
目を合わせて笑い合った。
彼女がいれば怖くない。繋いだ手から伝わる温もりがある限り、自分はまた世界を楽しむことができる。
どちらからともなく歩き出す。道の先は暗がりが広がっているが、怖いとは感じない。
その先に待つものを知っている。甘いだけではない、厳しい世界。
「楽園から追放されたって、皆思うんだろうな。そんなことないのに」
ふと、自分たちがいなくなった後のことを考えた。最近来たばかりの子たちは、そのことにまた怯えてしまうのだろう。
追放されたのではない。自分から出て行ったのだと伝えてあげられないことが、少しだけ心残りだった。
「案外、追放されたっていうのは間違いではないかもね。ここで怖くなって引き返しても、楽園の中には入れない。二度と戻れないことは変わらないんだから」
確かに。振り返った時に感じたことを思い出す。
もう戻れない。今更泣いて後悔しても、先に進むしかない。
「後悔してる?」
「してない。少し怖いけど、一緒なら大丈夫」
前を向いたまま、そう答えた。それは偽りのない本心だ。
「そっか」
それ以上お互い何も言わず、ただ歩いていく。
道の先。微かに光が見えて、無意識に繋いだ手に力を込めた。
この先がどんな世界であれ、自分は一人ではない。
だからきっと、大丈夫だ。
20260430 『楽園』
風に乗って、微かに花の香りがした。
何の花だっただろうか。ぼんやりと記憶を辿る。
仄かに甘く、それでいて澄みきった清々しい香り。思い出せそうで思い出せないもどかしさに、少しだけ眉が寄った。
視線を巡らせる。青々とした葉をつける木々のどれかに咲く花を探して目を凝らした。
「――懐かしいな」
ふと、誰かの声がした。目を瞬き後ろを振り返れば、同じ年頃に見える少年が佇んでいる。
いつからそこにいたのか。問いかけようとして、その目に浮かぶ寂しさに気づいて思わず口を噤んだ。
「花が咲き綻ぶような笑顔。白のワンピース……あの子はずっと、俺のために何も言わなかった」
泣いている。涙は見えなかったけれど、何故かそう思った。
「あの子の季節が来た。忘れてしまったものが、また帰ってくる」
風が吹き抜けた。さっきよりも強く花の香りが漂っている。
視界の端で、白が過ぎていくのが見えた。視線を向け手を伸ばすと、白の花びらが指先に絡みつく。
「梅……白梅だ」
白の花びらを見つめ、呟いた。先ほどから香っているのは、どうやら白梅だったらしい。
「その白梅は、特別なんだ」
穏やかな声がした。振り返ると、少年が立っていた場所に、男性が立っていた。
少年とよく似た面立ち。まるで少年が一瞬で成長して男性になってしまったみたいだ。
「特別で、離れたくなかった。諦めたくなくて毎日通い詰めて……そうしたら、最後には折れてくれたよ。とても嬉しかったけど信じられなくて、全部都合のいい夢なんじゃないかって怖くて……でも、娘がこれは本当なんだって、大きな声で泣いて教えてくれた」
その目にはもう、寂しさはなかった。穏やかで柔らかな微笑みは幸せを噛み締めているようで、自分のことではないのに気恥ずかしくなってしまう。
「娘はあの子にそっくりだった。笑い方も、微かに白梅の香りがするところも全部。好奇心旺盛で、お転婆で……でも真っすぐに育ってくれた」
どこか誇らしげな声と共に、また風が吹き抜けていく。
空に舞う白の花びら。甘酸っぱい匂いが広がって、白梅の木の前に立っているような気持ちになってくる。
一際強い風に、反射的に目を閉じた。ざあざあという風に揺れる葉の音に紛れて、一瞬だけ、楽しそうに笑う小さな女の子の笑い声が聞こえた気がした。
「娘が彼氏を連れて来た時には、こっそり落ち込んだよ。反対するつもりでいたのに、話してみるととても穏やかで真面目な青年だったから、何も言えなくなってしまった」
風が止んで、目を開けた。
目の前には、初老の男性の姿。やはり先程の男性とよく似た面立ちをしていた。
「彼なら娘を幸せにしてくれる。そうあの子にも言われて、青年に娘を託した。離れていくことに寂しさはあったが、娘の晴れ姿に嬉しい気持ちの方が勝っていたな」
優しい目。親として、心から子供の幸せを喜んでいるのだろう。その目の中には寂しさは欠片も浮かばず、愛しさに満ちていた。
「娘は、白梅が咲き誇る春先に生まれたんだ。そして、娘の子も白梅が満開の頃に生まれてきてくれた。娘とそっくりで、小さくて、白梅の香りがしたのを覚えているよ」
穏やかに微笑んで、彼はゆっくりとこちらに近づいてくる。目の前で立ち止まり、優しく頭を撫でてくれた。
「――っ」
会いに行く度、こうして頭を撫でてくれていたのを思い出す。目を細め、大きくなったなと笑ってくれていた時と変わらない眼差しに、目の奥がつんと熱くなるのを感じた。
「こうして、風に乗ってあの子の匂いが届くと忘れていたものが戻ってくる。あの子が抱えて守ってくれていた記憶を、この時だけは思い出せる」
泣いてしまいそうだ。頭を撫でる彼も、泣きそうに笑っている。
「また大きくなったな。小さな頃はあんなに泣き虫だったのに、我慢できるようになったのか」
「だって……もう、子供じゃないし……」
俯いて、いつまでも子供扱いされることに不満を漏らす。
親という存在はそういうものなのだと、前に母が言っていた。特に祖父は母を最期まで子供扱いし、孫である自分も同じように接して、いってしまった。
風が吹く。白梅の花を散らし、香りを散らして、風が過ぎていく。
「お母さんによろしく伝えてくれ。忘れてしまっても、お前たちの幸せを心から願っているよ」
「分かってる。祖父ちゃんも、ふらふらしてないで、しっかりしている間に、いくべき所に行ってよね」
心からそう思っている。自分だけでなく、両親も心配していた。
「それは大丈夫だよ。あの子が一緒に来てくれたからね。あの子の香りがちゃんと導いてくれた」
それを聞いて安心した。顔を上げて祖父の目を見て、笑ってみせる。
泣くよりも、笑って別れたい。まだ記憶をなくしていなかった祖父と約束したことだ。
風に舞う白梅が祖父の姿を隠していく。頭を撫でていた手の感覚が薄くなり、祖父が静かに消えていく。
「ばいばい。祖父ちゃん」
白梅が空高く舞った。それを目で追いかけ、もう一度目の前を見ると、そこに祖父の姿はなかった。
まるで最初から誰もいなかったかのように。
「やっぱりこの時期だけは、はっきりしてるんだな……もう、花は咲かないのに」
祖父が愛した白梅は、祖父が亡くなった後、花を散らして枯れてしまった。
両親は祖父と共にいったのだと話していた。自分もそう思っている。
「会えるとは思ってなかったけど、会いに来てよかった」
ふふ、と笑う。何だか得した気分で、家に帰るため歩き出す。
「私も、祖父ちゃんや母さんたちみたいな恋ができればいいな」
風に乗って運ばれた愛しい人の香りで記憶を取り戻すような、そんな素敵な恋。
不意に風が吹いた。
白梅の香りはしない。けれどそっと背中を押された気がした。
20260429 『風に乗って』
朝の柔らかな光を感じて目を開けた。
濡れた土の匂いが、昨夜の雨の名残を感じさせる。葉を濡らす雨の滴が陽の光を反射して、宝石のように煌めいた。
未だぼんやりとする意識を切り替えるように目を瞬き、視線を巡らせる。
生き物の姿はない。見上げる空は澄んだ青が広がり陽も高く昇っているが、まだ目覚めには早いのだろう。
かさりと風が葉を揺らす。雨の滴が跳ねて、ぱたりと地に落ち、跡を残す。
静かだ。暖かく穏やかで、このまま眠ってしまいそうなほどに。
それはとても勿体ないことだ。微睡みに揺蕩いながら思う。
煌めく景色を、まだ見ていたい。暖かな陽射し。吹き抜ける風の冷たさ。滴の跳ねる音。
美しい雨上がりの朝を堪能しきれていないのだからと、緩く頭を振って目を覚ました。
不意に、風とは違う音がした。
かさりと草を踏みしめる音。大人とは違う軽いその響き。
こんな朝早くから誰だろうか。興味を引かれて視線を向けた。
段々と音がはっきりと聞こえてくる。どうやらこちらに近づいてくるようだ。
かさかさ、かさり。
草をかき分けるようにして顔を覗かせたのは、まだ幼さの抜け切れていない少女。陽よりも輝く笑顔を浮かべ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「おはよう!」
思わず肩が跳ねた。
こうして、誰かに挨拶をされたのは初めてだ。困惑しながらも軽く会釈をしてみる。
「お、おはよう……ございます……」
「今日も綺麗な滴ができてるね」
にこにこと、少女は笑う。
今日もという言葉と、合わない視線にあぁ、と納得する。
この子は雨上がりの朝に、名残の滴を見に来ているのだろう。
思わず視線を逸らす。挨拶を返したことが、少しだけ恥ずかしくなった。
「一枚、くださいな」
歌うように少女は告げ、葉の一枚に手を伸ばす。
滴が零れてしまわないよう、そっと葉を包む手の温もりに、視線を戻して彼女の真剣な横顔を見た。
記憶にはないのに、その温もりを覚えている。少女を知らないはずだというのに、知っている気がした。
以前に来た時も、こうして滴をつけた葉を取ったのだろうか。記憶のない自分が覚えているものがあるほど繰り返す、その理由は何なのだろう。
不思議に思いながら、どこかへ向かう少女の顔を見上げる。
笑っている。けれどよく見ると、その目が赤いことに気づいて何故か胸が苦しくなった。
着いたのは、小さな一軒家。静かに家の中に入った少女は、迷わず一番奥の部屋へと向かう。
扉を開けて中に入ると、窓辺に置かれたベッドに誰かが寝ているのが見えた。
「ただいま」
囁く声に、寝ている誰かがこちらを向く。
少女とよく似た、けれども彼女よりも幼い子。少女を見つめ、淡く微笑んだ。
「おかえりなさい、お姉ちゃん」
か細い声。少女が近づいたことではっきりと見えた妹の顔は青白く、体は皮と骨だけと言えるほどにやせ細っていた。
「ほら見て。昨日雨が降ったから、雨の滴を持ってこれたよ」
微かに震える手で妹へと差し出された。起き上がることもできず視線だけを向ける妹は、緩慢に目を瞬かせた。
「――きれいね」
その声の響きを聞いたことがあった。
細い腕がゆっくりと持ち上がる。かさついた指先に触れられた瞬間、思い出した。
姉の祈り。姉妹との刹那のひと時を、自分は何度も繰り返してきた。
「これでまた元気になるよ。今度こそ元気になるから……っ」
姉の声が震えている。元気になると繰り返しながらも、妹のことを正しく理解しているのだろう。
一番最初の自分が出会った姉は、ただ綺麗だったからという理由で自分を妹に見せた。
綺麗だと笑う二人の言葉が気恥ずかしくて、それでもとても嬉しかったのを覚えている。だからこそ消える前にほんの少し、妹を蝕むものを引き受けたのだ。
それからも何も知らない自分は、刹那の出会いのお礼に、ただそれだけを繰り返してきた。その度に妹は僅かに元気を取り戻すが、刹那に消えるだけの自分が抱えられるものなど僅かでしかない。妹の終わりは理解しているつもりだった。
「お姉ちゃん」
「なぁに?」
妹の呼ぶ声に、姉は赤い目を誤魔化すように笑う。
「ありがとう」
姉の作った笑顔とは違い、妹は心からの笑顔を浮かべた。
「きれいなもの……たくさん見れて、うれしい……ありがとう」
穏やかな声音。嘆くでもなく、妬むわけでもない。
いつだって妹は、優しい子だった。
触れている指先から抱えられる分を吸い上げる。
けれど足りない。たかが雨の一滴では、人間の代わりになれるはずもない。
小さく息を吐いた。二人を見つめ、仕方ないと笑う。
外にはまだ陽に消されることのない滴がいる。そしてこの先、雨が降る度に滴は生まれる。
一滴はとても小さいモノでも、集まれば小さな子供の代わりくらいにはなれるだろう。
迷いはない。ただ、今後自分を綺麗だと言ってくれることがないのが、少しだけ寂しかった。
目を閉じる。外にいる滴、そしてこれから先生まれる滴へと意識を広げ、妹を蝕むものを吸い上げていく。
ほぅ、と妹が微かに吐息を溢した。かさつき冷たい指先が熱を持ち出したのを感じて、そっと離れていく。
「お姉ちゃん」
先程とは違う、静かだが強い声音。姉が息を呑む音が聞こえた。
「何だか、眠くなってきちゃった」
「――っ、そっか。まだ朝も早いし、もうひと眠りしよっか」
それがいい。
自分に向けられたわけでもない言葉に、心の中でだけ返事を返す。
くすくす笑う。何だかとってもおかしくて、楽しくて堪らない。
陽に照らされて消えていく自分を感じながら、それでもとても満たされていて心地が良かった。
「こっちだよ!」
早朝。まだ多くが眠る時間に、ある姉妹は木々の合間を駆け抜けていく。
「待ってよ、お姉ちゃん」
妹が呼ぶが、姉は止まることはない。早くと急かされて、妹はどこか困ったように笑いながらその後に続いていく。
「この先だよ」
そう言って姉は向かう先に指を差すが、視線を向けて不思議そうに首を傾げた。
示した先には一本の木。他の木々と同じく、青々とした葉を揺らしている。
「あれ、おかしいな?昨日雨が降ったのに、乾いてる」
姉が言うように、昨夜遅くまで雨が降っていたというのに、木や周囲には雨の名残はどこにもない。
「お姉ちゃん?」
遅れてきた妹を振り返り、姉は申し訳なさそうにごめんと呟いた。意味が分からず目を瞬かせる妹の手を繋いで、元来た道を引き返していく。
「え?どうしたの?」
「ここ。いつもなら雨の滴が朝日を反射してとても綺麗なんだけど、乾いてて見られないみたい。だから別の所に行こう」
姉に手を引かれながら、妹は葉の茂る木に視線を向けた。一瞬何かが煌めいたような気がして目を凝らす。
だが、煌めくものは何も見えず。首を傾げながらも、妹は姉へと視線を向けた。
「心配しなくても、見せたいものはたくさんあるんだ。だから大丈夫だよ」
「うん。楽しみにしてる」
目を煌めかせ、姉は笑う。その笑みにつられて妹も微笑んだ。
不意に乾いた葉が、風もないのに僅かに揺れた。
まるで雨の滴が葉を伝い、地に落ちるかのような動き。
振り返らない二人は気づかない。
朝の陽だけが、それを静かに見ていた。
20260428 『刹那』