突然の光に目が眩む。
強い光に、目を開けていられない。目を閉じ、光から顔を背けた。
光から離れたいが、目が開けられないため動けない。早く光が消えることを願いながら、身を縮めていた。
「大丈夫?」
ふと声がした。閉じた瞼の向こうの光が、少しだけ和らいだ気がして薄目を開ける。
光が消えた訳ではない。ただ、光を背に誰かが立っていたから、和らいだように感じられただけだった。
誰だろうか。逆光で陰になり、その姿は輪郭しか分からない。けれども先程かけられた声は柔らかく、悪い人ではなさそうだった。
「おいで。もう大丈夫だよ」
そう言って手を差し出される。
大きな手だ。けれどその手も影になって、誰のものなのかは分からない。
一緒に行ってもいいのだろうか。動けないでいれば、影はゆっくりと近づいてくる。
顔が見えない。真っ黒で、どんな表情をしているのかが分からない。
「怖がらなくてもいい。一緒に外に行こう」
優しい声。見えない表情。
悩んで、ゆっくりと手を伸ばした。ここにいることと、目の前の誰かと共に行くこと。
どちらを選んでも、行く先はそれ程変わらないだろう。
「安心して、もう怖くないよ。よく頑張ったね」
伸ばした手を取り、真っ黒な誰かに抱き上げられる。
褒めるように、背を撫でられる。
近くで見る、誰かの顔。
優しい微笑みに安堵の息を吐き、一筋涙を溢した。
「大丈夫?」
ぼんやりと外を眺めていたら、心配そうに眉を顰めた友人に顔を覗き込まれた。
今朝見た夢と同じ言葉に、目を瞬く。何が、と言いかけて、苦笑する。
何でもないと首を振れば、どこか納得がいっていない表情をしながらも、友人はそれ以上何も言うことはなかった。
「何かあった?」
逆に問いかければ、友人は小さく息を吐く。どこか呆れたように、前の席に座って顔を寄せる。
「最近ぼんやりしているけど、悩み事でもあるのかなって思っただけ」
そう言って、頬を膨らませながら顔を背ける。その幼い子供のような仕草に、小さく笑みが溢れ落ちた。
「心配してくれてありがとう。何ていうか、最近変な夢を見ている気がして」
今朝見た夢の内容を思い浮かべながら告げる。途端に不機嫌さがなくなり、心配そうに友人はこちらを見つめた。
相変わらず、友人は優しい。心配される気恥ずかしさと嬉しさに、少しだけ落ち着かなくなりながら、大丈夫だと笑って見せる。
「目が覚めたらほとんど覚えてないんだ。ただ起きた時に、変な夢を見たなあって思うから、それがちょっと気になって」
「そうなの?覚えてたら話を聞いてあげられるのに」
眉を寄せる友人が、もう一度気にしないでほしいと笑う。
日が暮れ始めた外に視線を向け、近づいてくる見慣れた影に席を立った。
夕日を背にしているため、逆光で陰になってよく見えない。けれど自分が父のことを見間違えるはずはなかった。
「お迎えが来たから帰るね」
鞄を掴んで外に向かう自分を見ながら、友人は小さく笑い声を上げた。どこかからかい交じりの顔をして、こちらに手を振ってくれる。
「本当にお父さんのことが好きだよね。ばいばい、また明日」
「また明日!」
頬が赤くなるのを感じながら、手を振り返すこともなく外へ出る。
玄関で靴を履き替えて、ちょうど玄関先まで来た父に抱きついた。
「おかえりっ!」
「ただいま。元気にしてたかな」
優しく微笑む父に、笑顔で頷いた。手を繋いで、急ぐように家へと帰る。
「今日は美味しいものでも食べにいこうか」
「やった!私、ハンバーグが食べたい」
嬉しくなって繋いだ手を大きく振る。今日あったことを話せば、父は笑いながらしっかりと聞いてくれている。そんなささいなことが幸せで堪らない。
途中、友人の父とすれ違った。小さく息を呑んで作った笑顔を浮かべるこの人のことは、少しだけ苦手だった。
「こんばんは」
「こんばんは」
挨拶をされて会釈をする。挨拶を返す父の手を引いて早く帰りたがる自分に父は苦笑し、友人の父に会釈をした。
父は何も聞かない。ただ優しく頭を撫でてくれる。温かな手に擦り寄りながら自分も父に何も言わず、聞かなかった。
友人の父を見る時の、どこか悲しそうな、苦しそうな表情の理由を。
「早く行こう!」
代わりに笑顔を浮かべ父の手を引く。
「帰りにお線香と、あとお母さんのお花も買わないといけないんだよ。だから早く!」
そう言って急かせば父も笑って、手を繋いで歩き出した。
「ごめん。ごめんね」
泣きながら自分を抱きしめる目の前の青年を見ながら、ぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。
悲しい声も涙もはっきりと見えるのに何も感じない。何もかもが嘘のようで、信じられない。
いつまでこのやり取りが続くのだろうか。いつになったら、彼の元へと行けるのだろうか。
「無事でよかった」
嘘つき。手を離したというのに、白々しい。
青年が何かを言うたびに、気持ちが冷めていくのを感じる。早く離れてしまいたい。
それを伝えることすら億劫で、余計に面倒なことになると理解して、内心で溜息を吐いた。
ふと、背後から光が差し込むのを感じた。
身じろいで後ろを振り返る。遠くに光を背に立つ彼の姿を見て、絡みつく腕を解いて走り出した。
「待って!」
後ろから呼び止める声は聞こえるものの、引き留められる気配はない。
結局は形だけなのだろう。一瞬だけ表情が歪むが、さらに速度を上げて彼の腕に飛び込んだ。
「後悔は、しない?」
逆光で見えない彼の顔。けれど柔らかな声音が、心から心配してくれているのだと伝えている。見えなくても、自分のことを案じてくれるのが分かる。
青年とは大違いだ。首を振って強くしがみつけば、優しく頭を撫でられた。
「お兄ちゃん、きらい。みんな、だいきらい」
「分かった。何も言わないよ」
苦笑して、彼が手を差し伸べる。
笑顔でその手を取って、彼に寄り添いながら歩き出した。
一度だけ後ろを振り返る。無言で佇む青年に向けて、声には出さずさようならと呟いた。
青年からは逆光になって見えてないだろう。でもそれでいい。
伝わっても、伝わらなくても変わらない。
光に向かって歩いていく足は止まらないのだから。
「夢……?」
不思議な夢を見た。
体を起こして、まだ消えない夢の内容に首を傾げる。今までは目が覚めた瞬間から忘れてしまっていたというのに、何故こんなにもしっかりと覚えているのだろうか。
「変な夢」
夢を覚えていることもそうだが、内容も変だった。見知らぬ青年に泣き疲れ、その手を振り解いて誰かの元へ走っていく。その誰かも、逆光で顔が見えなかった。
それでも、その誰かを良く知っている気がした。そしてあの青年。彼もどこかで見たような覚えがある。だいぶ若いが、友人の父に似ていなかっただろうか。
「でもまあ、夢だしな」
小さく笑って、ベッドを抜け出した。
夢を真剣に考えていることがおかしくて堪らない。現実ではないのだから、あまり真剣に考えなくてもいいだろう。
笑いながら準備を整える。
今日は自分が料理当番の日だ。パンをトースターにかけて、卵を焼かなくてはいけない。
時計を見れば、いつもより早い時間だった。この時間なら、父へ弁当も作れるかもしれない。
冷蔵庫の中身を思い出しながら、部屋を出る。優しい父のために何かができるこの瞬間が、とても嬉しい。
「そういえば」
ふと思い出す。
夢の中で誰かに抱き付いたこと。繋いだ手の温もり。
「案外、お父さんだったりして」
そうだったらいい。夢でも父に会えるなんて、なんて幸運なのだろう。
気分よく、台所に向かう。
今日はいい日になりそうだ。
そんなことを思いながら鼻歌を歌いつつ、朝食を作り始める。
今日見た夢の名残など、パンと一緒に焦げてどこかに消えてしまっていた。
20260124 『逆光』
こんな夢を見た。
そう言って君は見た夢を、楽しそうに語り出す。
柔らかな風に舞い上がる花びら。
青と白のコントラストが美しい空。
赤や黄に色づく色鮮やかな山々。
瞬きの音すら聞こえそうな煌めく星々。
特別な何かが起こる訳ではない。ただ過ぎ行く季節のほんのひと時を夢に見て、言葉として紡いでいく。
弾んだ声音が、静かな部屋に満ちていく。
「こんな夢を見た」
誰もいない、小さな公園に立っていた。
見上げた空の向こう側には、重い灰色の雲が広がっている。
雨雲だろうか。薄い青空を覆い隠して、雲は少しずつこちらに近づいてきているようだった。
はぁ、と息を吐いた。途端に息は白く曇り、空に昇って雲になっていく。
ゆっくりと雲が広がっていく。辺りは陰り、冷たい風が吹き抜けていく。
広がる雲を見ていると、息の代わりに空から細かな白い何かが落ちてきた。
手に触れた途端に溶けて、水になる白い雪。急に寒さを感じて、ふるりと肩を震わせた。
雨雲ではなくて、雪雲だったのか。
振り出す雪を見ながら、ぼんやりと思った。
体が冷えて、手足が悴んでくる。
早く戻らなければ。このままでは風邪を引いてしまう。
そう思うのに空を見上げたまま、体は少しも動かない。まるで雪に魅入られてしまったかのようだ。
立ち尽くす体に、雪が降り積もる。やがて寒さも感じなくなり、穏やかな微睡みにゆっくりと瞼が落ちていく。
体が雪に埋まっていく。冷たい雪に抱かれて、不思議と温もりを感じていく。
触れれば痛みを感じるほどに冷たいというのに、包まれればとても温かだ。
ふふ、と笑みを浮かべた。正反対の感覚が、楽しくて仕方がない。
視界が白に染まる。何も見えなくなり、瞼の力を抜いて目を閉じる。
暗いのに明るい。やはり正反対の感覚に、夢の中で眠りについた。
「夢を見ているって分かっているのに、眠くなるの。おかしいよね」
くすくす笑いながら、君は語る。
それに何かを言うことはない。何も言われないことを、君も気にすることはなかった。
「何だかまた、眠くなってきちゃった」
笑っていたはずが、次の瞬間には眠そうに目を擦っている。
いつものこと。また夢の世界へと落ちていくのだろう。
「今度はどんな夢が見れるだろう」
笑みを浮かべながら、穏やかに意識が沈んでいく。
次に目覚める時には、いつものように見た夢を語るのだろう。
どこか浮かない顔をして、君は目を瞬かせた。
口を開き、閉じる。いつもとは違い、言葉にするか否かを悩んでいるようだ。
目を閉じる。一度だけ深く呼吸をして、ゆっくりと目を開けた。
「こんな夢を見た」
いつもと同じ語り口。けれども淡々とした声音は、明らかに違う。
まるで人形のように、無表情で語り出した。
こんな夢を見た。
誰もいない旅館の入口で、一人佇んでいる。
客として女将を待っているのではない。況して女将として客を待っている訳でもなかった。
進むべきか、まだ止まっているべきかを悩んでいる。
旅館の中に入り奥を目指せば、もう後戻りはできない。進むための対価は決して軽いものではなかった。
迷いながらも、一歩旅館に足を踏み入れた。静まり返った館内はどこか虚ろで、無人であるからなのか、酷く恐ろしいもののように思えた。
立ち尽くす背を、風が押す。奥に進めと、半ば強引に足を進ませた。
旅館の奥にあるものは、とても恐ろしいものだ。それでいて、とても大切なものだった。
足は迷うことなく、旅館の奥へと進んでいく。入り組んだ通路を進み、階段を上り、そして下りていく。
そうして辿り着いた先には、大きな白くて黒い、ぼろぼろの扉があった。
少しだけ戸惑い、扉に手をかける。
熱くはない。ただざらざらとした手触りと、鼻をつく匂いがとても気持ちが悪かった。
鍵がかかっていないことは知っている。必要なのは扉をくぐり抜けて進む覚悟だと理解して、扉に触れる手が小さく震えた。
ここまで来てしまったのならば、後戻りはできない。だがこのまま進み続ける覚悟があるのかは分からなかった。
目を閉じ、深く呼吸をする。進みたいのか、止まったままでいたいのか。
触れる扉に熱はなく、ただの残骸だ。答えを求めても、何も得られることはないのだろう。
呼吸を繰り返す。悩みながらも目を開けて、扉を見据えたまま触れる手に力を込めた。
「そこで目が覚めた」
冷たさすら感じる無感情な声音で、君は語る。
「決めないと。次に夢を見る時までに」
決めないとと言いながらも、悩んでいる様子はない。決めてしまっているのだろうか。その表情からは感情は読み取れず、何を考えているのか分からなかった。
扉の向こうには、何があるのだろうか。所詮は夢だと思いながらも、気になって仕方がない。
「そこにいるの?」
小さな呟き。今まで淡々としていたのが嘘のように、悲しげな声だった。
ここにいるよ。泣きそうな顔をする君に、そっと囁いた。
「進めば会えるのかもしれないけど、一人はとても怖い」
手が伸ばされる。迷子の子供のように彷徨う手を繋ぐ代わりに、枕元に置かれたウサギのぬいぐるみを寄り添わせる。
怖くはないよ。ぬいぐるみを抱きしめる君に伝えるけれど、言葉が届くことはないのだろう。
君の目は誰も見ない。その耳は何の音も聞かない。
夢の光景を現実で感じることは、二度とない。
「寂しいよ」
ぽつりと呟く声に、ごめんねと言葉を返す。
寄り添えなくてごめん。擦り抜ける手で、頭をそっと撫でる。
「進めば、会える?」
分からない。眉を寄せて、首を振る。
見ているのが夢なら、会えないのだろう。けれど眠っている間に、心が現実の世界を彷徨っているのなら会えるのかもしれない。
瞼が落ちていく君の手に触れる。擦り抜けても、温もりが感じられるような気がした。
目を閉じる。君の気配が遠くなり、代わりに今はないはずの、冷たく暗い場所が近くなる。
目は閉じたまま。開いた所で何も見えず、何も聞こえない。
それならばもう少し夢の余韻に浸っていたかった。大切な人の側にいる夢。とても幸せな夢だった。
ふと、微かに音が聞こえた。静かなその場所に響く、軽い足音。
近づいてくる。迷いのないその足取り。もしかしたらの期待は、違っていたらの落胆が怖くて確認することができない。
足音が近づく。すぐ側で立ち止まり、膝をつく音がした。
手を取られ、何かを渡される。長い耳。ふわふわとした手触り。
大切なウサギのぬいぐるみ。
「やっと会えた」
嬉しそうな声と共に、強く抱きしめられた。
「ただいま。遅くなってごめんね」
二度と離れないように。しがみつく背に、重たい腕をそっと回す。
「おかえり」
見つけてくれてありがとう。
ようやく触れることができたことに、その温もりに笑みが浮かんだ。
20260123 『こんな夢を見た』
「例えばさ、過去とか未来に行けたとして」
急に話しかけられ、ぴくりと肩が跳ねた。
視線を向けるが、彼女はテレビを見たまま。テレビを見れば、ちょうどタイムマシーンで過去や未来に行くドラマが流れている所だった。
「どうしたの?」
問いかけるが、返事はない。それきり彼女は何も言わずにテレビを見続けていた。
それほど引き込まれる話なのだろうか。そんなことを思いながら、手早く洗い物を終えて彼女の隣に座る。けれど彼女の表情は、テレビから目を逸らさずにいるものの、とても退屈そうに見えた。
「つまんないね。この話」
「見てないから分からないけど、つまらないなら見なければいいのに」
「だって退屈だから」
退屈を紛らわそうとして、退屈なテレビを見ている。そんな矛盾した行動に苦笑しながら、テレビを消した。
それに彼女が何かを言うことはない。ただぼんやりと、消えたテレビの黒い画面を見つめ、何度か瞬きをしてこちらに視線を向けた。
「過去とか未来に行って何かを変えた所で、意味はあると思う?」
問われて首を傾げる。仮想の話を気にするなど、彼女にしては珍しい。
「意味があるから、過去や未来に行くんじゃないの?」
意味がないのなら、行く必要はないはずだ。そう答えると、彼女は僅かに眉を寄せ画面の消えたテレビを一瞥する。
「そっか。意味があるって信じてる場合もあるのか……」
「どういう意味?」
「だって何を変えたって、今は変わらないじゃない」
今は変わらない。その意味を分かりかねて眉を寄せれば、彼女は例えば、と宙を見ながら告げた。
「テレビの話だけれど、過去に行って恋人の危機を救うとするでしょ。テレビの中じゃ、きっとこの後元の時間に戻って二人は結ばれるんだろうけど、そんな奇跡なんて起きないから。過去にいなくなる誰かをその時点で救っても、別の時間で同じことが起きるだけ。未来も同じ……というか、未来に干渉した所で、今に影響はないでしょ?」
「そうなの?」
「そうなの……運命っていうのかな。人には、そういった初めから決められたものがあるみたい」
どこか遠くを見る彼女の横顔は寂しげで、泣くのを耐えているようにも見える。話題を変えるべきかと口を開きかけ、けれども何かを言う前に彼女はこちらを向いて微笑んだ。
「ね?それを知っていると、過去や未来に行く話なんてつまらなく感じるでしょ?」
「まあ、確かに。干渉しても変わらないなら、空しいだけかもね……じゃあさ、干渉するんじゃなくて、干渉されるとしたら?予知や宣託を受けて、訪れるはずの結果を変えることもあるだろう?」
それも意味がないことなのだろうか。静かに目を見返すと、きょとりと幼く瞬いた目が、次第に楽しげに細められていく。
くすくすと笑う声。小首を傾げ、彼女は当然のように囁く。
「見たもの、告げられたものが、本当に未来の出来事なんて、誰にも分からないよ。夢で見たものは所詮は夢。現実にとてもよく似ているから、そうなりたければ行動を近づけて、逆になりたくないのならば、遠ざけるように行動する。誰かから告げられた言葉もそう……行動を起こすための理由に使われる、都合のいいものってだけ」
「え……?」
思わず、彼女を凝視する。今までの彼女からは、出てくるはずがないと思っていた言葉だった。
「何?変な顔して」
「いや。だって、宣託を大事にしていただろ」
「大事だよ。とっても大事……前に進むことができる理由になるもの」
小さく呟かれた言葉に、息を呑んだ。
彼女が過去を見ず、前を向いている。その変化がすぐには信じられない。
彼女は長い間、過去から抜け出せずにいた。ここにいる理由でさえ、その過去から宣託を受けたのだと言っていたはずだった。
――未来で再会するために、今を生きる。
彼女はそれ以上を語らない。それ以上の理由が必要だとも思わなかった。
幼い頃から一緒にいた幼馴染が、もう一度隣にいてくれる。過去だけでなく、今を見ている。
自分にとっては、それが重要だった。
「あんまり、じろじろ見ないでよ」
「だって……まるで、過去よりも今の方が大切に聞こえるから」
「聞こえるんじゃなくて、そう言ってるの。過去を忘れたわけじゃない。でも未来にまで過去を引き摺ることが苦しい時がある……過去や未来のような遠いものに手を伸ばすより、今と手を繋いでいる方が幸せなんだって、気づいちゃったから」
目を逸らしながら彼女は言う。落ち着きなく手が服の裾を弄っている。
何かを誤魔化す時の、彼女の昔からの癖だ。じわじわと赤くなっていく顔を見ると、途端に悪戯心が沸き上がってくるのは、自分の悪い癖でもあった。
「今気づいたの?それとも大分前から?」
「い、いつだっていいじゃないっ!」
耳まで真っ赤になってしまった彼女の頬を、笑いながらつつく。ぺしりと指を払いのけ、拗ねた顔で背を向けられて、耐えきれずくすくすと笑い声が漏れた。
「っ、ばか!最低!」
「ごめんごめん。お詫びにさ、明日どこかに出かけようか」
背を向けたままの彼女に声をかけるが返事はない。
またやってしまった。悪い癖だと自覚しながらも治らないことに、密かに嘆息する。静かに立ち上がりながら何気なくテレビに視線を向け、彼女との話を思い出す。
もしもタイムマシーンがあったのなら。それで過去に行けたのなら。
確かに意味はないのだろう。過去に行き、彼女と初めからやり直しても意味はない。傷をつけないように動いた所で、きっと彼女は別のどこかで過去に手を伸ばし出すのだろう。
「――なら、いいよ」
「え?」
不意に小さく聞こえた声に、彼女を見る。微かに涙を張った目をして、彼女はこちらを睨みながら呟いた。
「だから、明日水族館に連れて行ってくれるなら許してあげるって言ってるの!」
彼女の言葉に目を瞬き、しっかりと頷いた。手を出せば当然のように繋いでくれることが嬉しい。
「分かった。じゃあ、明日は朝から水族館に行こうか。せっかくだから他にも色々な所に行こう」
「仕方ないから付き合ってあげる」
素直でない彼女に、小さく笑う。まだ拗ねた顔をしながら彼女はこちらを見つめ、同じように笑った。
「なら、明日は寝坊しないでね。タイムマシーンなんてないんだから、過去に戻ってやり直しなんてできないよ」
「そっちこそ寝坊しないでよ!タイムマシーンがあったとしても、使わせてなんかあげないんだから」
目を合わせ、笑い合う。繋ぐ手が暖かい。
この温もりを離してまで、過去に戻る意味は確かにないだろう。
そんなことを思いながら、繋いだ手を離さないようにきゅっと握りしめた。
20260122 『タイムマシーン』
戸を叩く音がした。
「どちら様ですか?」
玄関越しに声をかけるが、返事はない。
恐ろしい感じはしなかった。戸越しに何かを迷い、気にしているのが伝わってくる。
戸惑いがちにもう一度、戸が叩かれる。
「夜分に、申し訳ありません。少々宜しいでしょうか」
控えめな声。やはり、何かが気にかかるのだろうか。
そんなことを思いながら戸を開けた。ひゅうと、冷たい風が吹き込んで、玄関先を雪が染めていく。
「よかった。あなた様が受け継がれたのですね」
戸の向こうにいた小柄な誰かが、安堵の息を吐く。その顔は深く被った笠に遮られ、見ることはできない。
「ご用件は何でしょうか」
首を傾げ、問いかける。それに慌てた様子で、誰かはそっと手を差し出した。
「申し訳ありません。こちらをどうぞ」
手袋に包まれた手に乗せられていたのは、たくさんの種類の花の種。
「えっと……これは?」
「遅ればせながら、贈り物にございます。正式に継がれたと話をお聞きしたのがつい先日のことでした故、挨拶が遅れまして大変申し訳ありませんでした」
「あ、その……お気になさらず?」
深々と頭を下げられ、内心で焦る。受け取ればいいのだろうかと、手を出した。
手に乗せられた花の種。自分でも知っているような特徴のある種や、見知らぬものまで様々だ。
嬉しくなって、口元が緩む。どんな花が咲くのだろう。どこに植えようか。そう考えるだけで、楽しくて堪らない。
「ありがとうございます。大切に育てます」
頭を下げれば、笠の向こう側でふふ、と小さく声がした。
顔を上げ、目の前の誰かを見つめる。相変わらず顔は見えない。それでも穏やかに微笑んでいる気配が伝わってくる。
「いえ。礼を言うのはこちらです……この度は受け継いで頂き、ありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願い致します。」
居住まいを正し、目の前の誰かが再び頭を下げる。慌てて同じように頭を下げ、次に頭を上げた時、そこにはもう誰の姿もなかった。
「誰だったんだろう?」
何も聞けなかったことを残念に思う。
相手が誰だか分からなければ、お礼をすることもできない。種を見ながら溜息を吐く。
玄関から顔を出すが辺りは暗く、人影は見えない。冷たい風に押し戻されるようにして中に戻り、戸を閉めた。
いないのであれば仕方ない。頭を振って、薄く積もった雪を散らした。
種を育てていれば、また会いにきてくれるかもしれない。その時に改めて礼をしよう。そう思い、手の中の種に視線を落とす。
不意に吹き込んだ隙間風に、ふるりと肩を震わせる。すっかり体が冷えてしまった。風邪を引く前に暖まらなければと、足早に部屋へ向かった。
「誰が来てたんだい?」
部屋に戻ると、待っていた彼が不思議とそうに首を傾げた。
どう伝えればいいのか分からず、ただ首を振る。誰だったのか、性別も年齢も分からなかった。小柄ではあったが、落ち着いた声からは判断できない。
無言で手の中の花の種を見せる。種だけでは相手も分からないだろうとも思ったが、しかし彼には誰が来たのか大体の予想はついたらしい。種を受け取り手のひらで転がし目を細めて、あぁ、と小さく呟いた。
「誰が来たか、分かったの?」
「まぁね。お祝いにくれたのだろう?庭に植えてあげると、きっと喜んでくれるよ」
誰が、とは教えてはくれない。彼のことだ。聞いても、いつか分かると、笑って何も言わないのだろう。
彼は特にこの家のことに関しては、何も教えてくれない。後で分かることだと、気になって仕方ない自分に穏やかに笑いかけるだけだ。
密かに溜息を吐きながら、彼と向かい合う位置でこたつに入る。こたつの中でもどこか冷たい彼の足を、八つ当たり気味に蹴って天板に突っ伏した。
「そんなに怒らないで。楽しみはとっておいた方がいいじゃないか」
客人が誰なのか知りたいと思うのは、楽しみなのだろうか。顔を伏せたまま、眉間に皺を刻む。
「春になれば、また会いに来てくれるよ。この家は色々と賑やかになるからね。一気に知るよりも、相手が名乗った時に少しずつ知っていく方が混乱しないと思うよ」
「――賑やかなの?」
想像がつかなくて、半分だけ顔を上げて彼を見た。
自分が継いだこの家は、親戚が寄りつくことはない。立地もそうだが、ある日突然押しつけられる形で相続した時のことが頭を過ぎる。
取り壊し、土地を売ると決まっていたはずだった。自分とは関係のない相続の話し合いで終わっていたと言うのに、家を継げと言った親戚はどこか青ざめた顔をしていたように思う。
「賑やかだよ。だから、ここを継ぐことになったんだろう?」
「知らない。何か言う前に、全部決まってたし」
自分以外の大人たちが、夜遅くまで話し込んでいたのは知っているが、話し合いには参加をさせて貰えなかった。次の日に疲れた顔の両親から家を継げと言われここに来てから、そろそろ半年が過ぎようとしている。
そう言えば、あの日は今日と違いとても暑い夜だったなと、ぼんやり思う。季節が違うのだから当然ではあるが、なんだか実感が薄い。数日前の出来事のようで、寒い今が不思議に思えた。
「何だか、夏の夜から一気に冬の夜になったみたい」
「ここは静かだから、時間の流れがゆっくりに感じられるんだろう。ぼんやりしていたら、一年なんてあっという間に過ぎていくよ」
「やだなぁ。家の管理をしているうちに、どんどん年をとっていくのか……」
はぁ、と溜息を吐きながら、目を閉じる。冷えた体がこたつと石油ストーブで暖まり、眠くなってきてしまった。
「寝るなら、ちゃんと布団に入らないと駄目だろう」
「ちょっとだけ寝たら起きるから大丈夫……おやすみ、叔父さん」
きっと起きないだろう。そうは思ったが、眠いのだから仕方ない。
今夜だけ、特別。心の中で言い訳をして、そのまま意識は夢の中へと落ちていった。
柔らかな朝の日差しに、目が覚めた。
こたつではなく、自室のベッドで寝ていることに驚く。起き上がりながら、机の上に置かれた種を見て、思わず苦笑した。
「また叔父さんが来てたんだ」
この家を継いでから、時折現れる彼の幻。いつも違和感なく受け入れて、後になり幻だったと思い出す。
彼と過ごす夜に、特別な何かがあるわけではない。ありふれた日常の延長線。そこに彼が入り込んでいるだけ。
けれど、こうして一人で朝を迎える度に思う。
彼と過ごす夜は、何よりも特別で大切な夜だったと。
「せっかく貰ったし、今日は種を植えようかな」
種を手に、窓の外を見る。
快晴。薄い青がどこまでも続く空の下、種を植えたら、きっと綺麗な花が咲いてくれるだろう。
今から春が待ち遠しい。
花の咲き乱れる庭を思い浮かべながら、机の上の少し色褪せた彼の写真を突いた。
20260121 『特別な夜』
暗く冷たい場所で、一人横たわっていた。
何も見えない。何も聞こえない。自身の姿すら曖昧だ。
ここはどこなのだろう。込み上げる疑問は、けれどすぐに解けて消えていく。
何も感じない。穏やかさに似た微睡みが、何もかもを沈めていく。
底にいるのに、これ以上沈むのか。
浮かぶ思いに、口元が笑む。けれどそれもすぐに沈んで、静かに目を閉じた。
「どうしたの?」
急に顔を覗き込まれ、ひゅっと息を呑んだ。
「驚かさないでよ」
「驚かしたつもりはないけど、ごめん」
眉を下げて謝る彼女に、何も言えなくなってしまう。
自分も謝るべきだろうか。そんなことを思いながらも黙っていれば、彼女はへらりと笑ってみせた。
「ごめんね。なんか悩んでいるみたいだったから気になって……大丈夫そうだし、私帰るね」
ばいばい、と手を振り、彼女は止めるまもなく去っていく。
作った笑顔だった。彼女がいなくなった後で、気が付いた。
追いかけるべきだろうか。心配してくれただろうに、ありがとうの一言も言えなかった。自分の態度も悪かった気がする。謝って、心配してくれてありがとうと言うべきではないだろうか。
色々なことが思い浮かぶも、結局動けない。いつもそうだ。忙しなく動く周りに、自分一人だけがついていけない。
彼女がいた場所に視線を向ける。誰もいないその場所が、とても冷たく感じられた。
「ごめんなさい」
今更な謝罪が虚しく響く。
気づけばとっくに下校時間は過ぎている。誰もいない教室で一人、のろのろと帰る準備をし始めた。
暗い場所で、一人佇んでいた。
辺りに灯りはなく、何も見えない。空を見上げるも月も星も見えなかった。
一人きり。けれど酷く心地の良い場所だ。当てもなく歩きながら、ぼんやりと思う。
とても静かだ。小さく吐く息の音すら聞こえない。温かくはないが寒くもないこの場所は、どこなのだろう。
浮かぶ疑問は、吐息と共に上へと浮かんでいく。
届かない場所。そんなことを思いながら上へと視線を向けて、ふと気づく。
ここは、外ではないのだろう。そもそも地上ですらない。
ほぅ、と吐息を溢す。目を凝らせば、微かに気泡が浮かんでいく。
ここは、海の底だ。
かつての故郷に帰ってきているのだ。
気づいて、途端に心細くなった。
何故帰ってきてしまったのか。どうやって戻ってきたのかも思い出せない。
手を伸ばす。けれど水面は遠く、手は届かない。
寂しいと呟く声は、音の代わりに気泡となって浮かんでいく。溢れた涙は海に混じり、残らない。
これでいいのかもしれない。自分の中の何かが囁いた。
憧れた地上は忙しない。行き交う人々。目まぐるしく変わる空の色。
立ち止まることのない自分以外に、ついていくのだ大変だろう。
確かにそうだ。囁く声に頷いた。認めた途端心が酷く痛んだが、仕方がないことなんだと力なく笑う。
彼女の側にいたいけれど、彼女を悲しませるだけなら側にいない方がいい。
涙は海に混じると分かっていても、唇を噛んで泣くのを堪える。目を伏せて、伸ばしたままの手をゆっくりと下ろしていく。
その手が何かに掴まれた気がした。驚いて顔を上げれば、暗闇に白銀のような白の翼が煌めく。
声も出せず、逃げ出すこともできずに、体が浮かび上がっていく。瞬きの間に周囲が明るくなり、水面越しに青い空が見えてきた。
あぁ、そう言えば。
近づく水面を、その向こう側の空を見ながら思い出す。
初めて地上に出た時も、こうして手を掴まれ連れて行かれたのだった。
ばしゃん、と水音がした。
鳥のなく声が、波の音がする。煌めく陽の光が眩しい。思わず目を閉じれば、一際高く鳥の鳴く声がした。
「大丈夫?」
彼女の声がして、目を開けた。
「あれ?」
辺りを見回す。そこは海の上ではなく、夕暮れに染まる教室の中だった。
夢でも見ていたのだろうか。困惑しながらも彼女を見る。
「どうしたの?」
首を傾げて彼女は問いかける。
なんでもないと首を振ろうとし、ふと彼女の髪に絡まる白を認めて、目を瞬いた。
「羽根……?」
「ん?……あぁ、絡まっちゃってたんだ」
苦笑しながら彼女は絡まる羽根を取る。白く、美しい羽根。
何かを思い出しかけて、けれどその前にくすくす笑う彼女に頭を撫でられ、消えてしまう。
「ごめんね」
突然謝られ、困惑する。彼女が謝る理由が分からない。
「今度はちゃんと合わせるから。もう少しここにいてね……海の底よりずっと鮮やかで、楽しい所なんだよ」
羽根を髪に差され、彼女は言う。訳が分からないけれども頷いた。
彼女が言うのだから、悪いことではないのだろう。
「そろそろ帰ろうよ」
そう言われ、慌てて鞄を取る。いつの間にか帰る準備ができていたことに驚くが、彼女は気にする様子はない。
手を繋いで、彼女と共に教室の外に出る。廊下を歩きながら、浮かび出した思いを気づけば口にしていた。
「忙しないけど、いい所だって私も思う。迷惑じゃないなら、これからも一緒にいたい。後、もう少し、浮かび上がる間分、立ち止まってほしい。置いて行かれるのは嫌だ」
「うん。ごめんね。ちゃんと気をつける」
不思議な感覚だ。気泡のように次々に浮かぶ言葉は止まらない。自分は言葉の意味を正しく理解できていないのに、彼女はすべて分かっているように頷いてくれる。
「静かなのも、一人なのも好きだったけど、今は少し違うから、こうして手を繋いでてほしい……私を食べようとしたことは忘れるから、海から出した責任はちゃんと取って」
「分かってます。だからもう、それは完全に忘れて!……ほら、帰りに美味しいもの、食べに行こう!」
慌てて話題を変えようとする彼女に、何故か楽しくなって小さく笑う。
彼女も笑い、繋いだ手を揺らしながら外に出た。
見上げた空は、段々と紺色に染まっていく。すぐに辺りは暗くなり、月や星が煌めくのだろう。
とても綺麗だ。見慣れているはずなのに初めて見る気がして、胸が高鳴る。
「今、とっても楽しいから、帰りたくない。だから帰らせないで。帰ったらきっと、もっと深く沈んで、底の底まで行くから」
「じゃあ、ちゃんと手を繋いでないとね」
きゅっと手を握られ、同じように手を握り返す。
世界はとても綺麗だ。憧れた地上は、想像など比べ物にならないくらいにきらきらと煌めいている。
ふと、そんなことを思う。不思議には思わない。
その内、忘れてしまうのだろう。
そんな予感がした。
繋いだ手から伝わる熱が、忘れさせると答えているみたいだった。
20260120 『海の底』