暗く冷たい場所で、一人横たわっていた。
何も見えない。何も聞こえない。自身の姿すら曖昧だ。
ここはどこなのだろう。込み上げる疑問は、けれどすぐに解けて消えていく。
何も感じない。穏やかさに似た微睡みが、何もかもを沈めていく。
底にいるのに、これ以上沈むのか。
浮かぶ思いに、口元が笑む。けれどそれもすぐに沈んで、静かに目を閉じた。
「どうしたの?」
急に顔を覗き込まれ、ひゅっと息を呑んだ。
「驚かさないでよ」
「驚かしたつもりはないけど、ごめん」
眉を下げて謝る彼女に、何も言えなくなってしまう。
自分も謝るべきだろうか。そんなことを思いながらも黙っていれば、彼女はへらりと笑ってみせた。
「ごめんね。なんか悩んでいるみたいだったから気になって……大丈夫そうだし、私帰るね」
ばいばい、と手を振り、彼女は止めるまもなく去っていく。
作った笑顔だった。彼女がいなくなった後で、気が付いた。
追いかけるべきだろうか。心配してくれただろうに、ありがとうの一言も言えなかった。自分の態度も悪かった気がする。謝って、心配してくれてありがとうと言うべきではないだろうか。
色々なことが思い浮かぶも、結局動けない。いつもそうだ。忙しなく動く周りに、自分一人だけがついていけない。
彼女がいた場所に視線を向ける。誰もいないその場所が、とても冷たく感じられた。
「ごめんなさい」
今更な謝罪が虚しく響く。
気づけばとっくに下校時間は過ぎている。誰もいない教室で一人、のろのろと帰る準備をし始めた。
暗い場所で、一人佇んでいた。
辺りに灯りはなく、何も見えない。空を見上げるも月も星も見えなかった。
一人きり。けれど酷く心地の良い場所だ。当てもなく歩きながら、ぼんやりと思う。
とても静かだ。小さく吐く息の音すら聞こえない。温かくはないが寒くもないこの場所は、どこなのだろう。
浮かぶ疑問は、吐息と共に上へと浮かんでいく。
届かない場所。そんなことを思いながら上へと視線を向けて、ふと気づく。
ここは、外ではないのだろう。そもそも地上ですらない。
ほぅ、と吐息を溢す。目を凝らせば、微かに気泡が浮かんでいく。
ここは、海の底だ。
かつての故郷に帰ってきているのだ。
気づいて、途端に心細くなった。
何故帰ってきてしまったのか。どうやって戻ってきたのかも思い出せない。
手を伸ばす。けれど水面は遠く、手は届かない。
寂しいと呟く声は、音の代わりに気泡となって浮かんでいく。溢れた涙は海に混じり、残らない。
これでいいのかもしれない。自分の中の何かが囁いた。
憧れた地上は忙しない。行き交う人々。目まぐるしく変わる空の色。
立ち止まることのない自分以外に、ついていくのだ大変だろう。
確かにそうだ。囁く声に頷いた。認めた途端心が酷く痛んだが、仕方がないことなんだと力なく笑う。
彼女の側にいたいけれど、彼女を悲しませるだけなら側にいない方がいい。
涙は海に混じると分かっていても、唇を噛んで泣くのを堪える。目を伏せて、伸ばしたままの手をゆっくりと下ろしていく。
その手が何かに掴まれた気がした。驚いて顔を上げれば、暗闇に白銀のような白の翼が煌めく。
声も出せず、逃げ出すこともできずに、体が浮かび上がっていく。瞬きの間に周囲が明るくなり、水面越しに青い空が見えてきた。
あぁ、そう言えば。
近づく水面を、その向こう側の空を見ながら思い出す。
初めて地上に出た時も、こうして手を掴まれ連れて行かれたのだった。
ばしゃん、と水音がした。
鳥のなく声が、波の音がする。煌めく陽の光が眩しい。思わず目を閉じれば、一際高く鳥の鳴く声がした。
「大丈夫?」
彼女の声がして、目を開けた。
「あれ?」
辺りを見回す。そこは海の上ではなく、夕暮れに染まる教室の中だった。
夢でも見ていたのだろうか。困惑しながらも彼女を見る。
「どうしたの?」
首を傾げて彼女は問いかける。
なんでもないと首を振ろうとし、ふと彼女の髪に絡まる白を認めて、目を瞬いた。
「羽根……?」
「ん?……あぁ、絡まっちゃってたんだ」
苦笑しながら彼女は絡まる羽根を取る。白く、美しい羽根。
何かを思い出しかけて、けれどその前にくすくす笑う彼女に頭を撫でられ、消えてしまう。
「ごめんね」
突然謝られ、困惑する。彼女が謝る理由が分からない。
「今度はちゃんと合わせるから。もう少しここにいてね……海の底よりずっと鮮やかで、楽しい所なんだよ」
羽根を髪に差され、彼女は言う。訳が分からないけれども頷いた。
彼女が言うのだから、悪いことではないのだろう。
「そろそろ帰ろうよ」
そう言われ、慌てて鞄を取る。いつの間にか帰る準備ができていたことに驚くが、彼女は気にする様子はない。
手を繋いで、彼女と共に教室の外に出る。廊下を歩きながら、浮かび出した思いを気づけば口にしていた。
「忙しないけど、いい所だって私も思う。迷惑じゃないなら、これからも一緒にいたい。後、もう少し、浮かび上がる間分、立ち止まってほしい。置いて行かれるのは嫌だ」
「うん。ごめんね。ちゃんと気をつける」
不思議な感覚だ。気泡のように次々に浮かぶ言葉は止まらない。自分は言葉の意味を正しく理解できていないのに、彼女はすべて分かっているように頷いてくれる。
「静かなのも、一人なのも好きだったけど、今は少し違うから、こうして手を繋いでてほしい……私を食べようとしたことは忘れるから、海から出した責任はちゃんと取って」
「分かってます。だからもう、それは完全に忘れて!……ほら、帰りに美味しいもの、食べに行こう!」
慌てて話題を変えようとする彼女に、何故か楽しくなって小さく笑う。
彼女も笑い、繋いだ手を揺らしながら外に出た。
見上げた空は、段々と紺色に染まっていく。すぐに辺りは暗くなり、月や星が煌めくのだろう。
とても綺麗だ。見慣れているはずなのに初めて見る気がして、胸が高鳴る。
「今、とっても楽しいから、帰りたくない。だから帰らせないで。帰ったらきっと、もっと深く沈んで、底の底まで行くから」
「じゃあ、ちゃんと手を繋いでないとね」
きゅっと手を握られ、同じように手を握り返す。
世界はとても綺麗だ。憧れた地上は、想像など比べ物にならないくらいにきらきらと煌めいている。
ふと、そんなことを思う。不思議には思わない。
その内、忘れてしまうのだろう。
そんな予感がした。
繋いだ手から伝わる熱が、忘れさせると答えているみたいだった。
20260120 『海の底』
会いたい。
込み上げる衝動に、気づけば走り出していた。
会えないことは分かっている。伸ばした手が届かないことなど、最初から気づいていた。
それでも走らずにはいられない。自分の気持ちを隠して何もない振りができるほど、器用ではなかった。
息が切れて、足がふらつく。苦しさに視界が歪むが、それでも足を止めようとは思わない。
いっそ風になれたのなら。こうして走るよりも早く会いに行けるのに。姿が見えなければ、形がなければ、側にいることも許されるような気がした。
所詮は夢。それでも考えてしまうのは、きっと自分が弱いからだ。
疲れを誤魔化すように、力強く地面を蹴り上げる。俯きそうになる顔を上げて、前だけを見つめた。
会えないことは分かっている。手を伸ばしても、棘のようなギザギザした葉が触られるのを拒むのだろう。
でも、会いたい。幼い頃に見た、怖いモノから守ってくれた大きな背に触れてみたい。
夕暮れから逃げ出すように、傾く陽を背に只管に走る。
息が苦しい。体が痛い。目が眩んで、前が見えない。
それでも、もう一度だけ。
不意に、風向きが変わった。背を押されて、速度を上げる。
会いたい。ただそれだけを願い。
残る力を振り絞り、地面を蹴って飛び上がった。
風が葉を揺する。
今の時期には珍しく、控えな風が吹いていた。服の裾や髪に触れるかのような弱い風に、男は僅かに目を細めた。
「――帰ってきたのね」
いつの間にか、男の背後には女の姿があった。赤い着物を身に纏い、辺りで漂う風に手を伸ばす。
「おかえりなさい。皆、あなたを待っていたわ」
柔らかく微笑む女の裾が、ふわりと揺れる。まるで戯れるように女の周りを風がぐるりと回っているのを、男は表情を変えずただ見つめていた。
ざわりと、周囲の木々が騒めいた。風に揺すられたのではない。女の元に在る風以外には、そよ風ひとつ起こってはいない。
ざわざわと、草木が音を立てる。まるで風の戻りを喜ぶかのように。
「南天」
「なぁに?柊」
女に呼びかけながら、男はそれ以上何も言わなかった。
目を逸らし、咲かせた白の花を見る。ただ一人のために咲かせた花は、今年もまた愛でられることなく散っていくのだろう。
「ようやく帰ってきてくれたのに、相変わらずね」
「あいつは人間だ。風ではない」
「そうね。人間だったから、隠されて帰れなくなった……人間ではなくなったから、こうして帰ってこられたのよ」
穏やかでありながらも、無慈悲な言葉。強く握りしめた手を不安がるように、風が男の周りをくるりと周り離れていく。
「このお庭から出ては駄目よ。いい子だから、これからはお庭とお屋敷の中で遊びなさいね」
過ぎていく風に、女が微笑み声をかけた。
了承するように、風が枯草を舞い上げる。庭の木々と遊ぶ風を見つめ、女はふっと吐息を溢した。
「あの子は戻ってきたの。どんな形であれ戻ってきたのだから、それを喜ばなくては」
男を見つめる赤い目は、静かな悲しみに染まっている。
男は何も言わない。女の目を見返しながら、在りし日の賑やかであった庭を思う。
風がただの娘であった頃。庭も屋敷も、とても賑やかだった。
毎日のように、娘の笑い声が響いていた。両親を愛し、庭の草木を愛した娘。その笑顔を、誰もが愛していた。
一度だけ、男の姿を娘は見た。あれは山から吹いた邪気が庭に入り込もうとした時だったか。
驚いたような丸い目と綻ぶ笑顔を、男が忘れたことはない。
「ここにいる限り守ってあげられる。そうでしょう?」
「――あぁ」
どこか願うような女の言葉に、男は無感情に呟いた。
柊と南天。鬼門、裏鬼門にそれぞれ植えられた木は魔を払う。この庭にいる限りは、確かに守られはするのだろう。
だが、今更守った所で何になるというのか。
胸の内で呟く。娘の笑顔も、弾む声も戻りはしない。長く無人の屋敷はひっそりと朽ちかけ、人の手の入らない庭は荒れ果てている。
元には戻らない。なくなってしまったものが帰るなど、決してありはしないのだ。
沈黙する男と女の間を、風が吹き抜けていく。泣くのを堪えて俯いた女は、慰めのように髪を揺する風に顔を上げ微笑む。
その頬を濡らす滴を、風が拭い去っていく。風となっても、娘の優しさは変わらないらしい。短く息を吐き、男は咲いた白い花に指先を触れさせた。
「今年もまた花が咲いた。南天の実も、赤く色づいているだろう……お前が愛したものはお前を待ち続け、残っていた。ここはお前のための場所だ」
花が揺れる。男の指を掠めて、風が過ぎる。
花の香りの混じり、微かに懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。娘の匂い。見えないけれど、ここに娘はいるのだ。
だが風に娘を感じるほど、男は娘に会いたい気持ちが募っていく。ここにいるのに触れられない。姿も声もないことが、苦しかった。
おかえり、とは言えない。
女のように、すべて受け入れることが男にはできない。
過ぎる風を追いかけ、手が彷徨う。かつては痛みを与えるからと触れるのを拒んでいたはずの男が、今は娘に触れたいと求めている。その滑稽さに男の口元が歪んだ。
会いたい。
会いたくて、寂しくて、苦しくて。
ただ感じる娘の気配が、愛おしくて堪らなかった。
20260119 『君に会いたくて』
押入れから出てきた日記帳には、鍵がかかっていた。
「こんな日記帳、持ってたかな?」
首を傾げながら、入っていた箱の中を探る。けれども鍵は見つからなかった。
他の箱の中だろうか。すぐには使わないものを押入れの中に詰め込んだ、過去の自分を少しだけ恨む。
「ないなぁ」
押入れから別の箱を取り出し、中を探るが見つからない。箱だけでなく押入れの中も確認したが、それらしい鍵はなかった。
小さく溜息を吐く。
押入れの整理は捗らず、見覚えのない日記帳には鍵がかかっていて中を確認できない。
机の上に置いた日記帳に視線を向ければ余計に疲れを感じて、目を逸らし肩を落とした。
鍵を探すため箱から出したものを戻し、押入れの中に箱を押し込む。押入れを閉めた後で日記帳を片付けていないことに気づいたが、これ以上何もする気力が起きず、ベッドに倒れ込むように横になるとそのまま目を閉じた。
空腹を感じ、目が覚めた。
辺りは暗い。窓の外には夜が広がり、空には星が煌めいている。
どうやらあのまま眠ってしまったらしい。
溜息を吐き、ベッドから抜け出し電気をつける。サイドテーブルに置かれた時計を見れば、十時を過ぎている。夕飯には遅すぎる時間だが、軽く何か食べようとキッチンに向かった。
何かあっただろうかと、冷蔵庫の中を覗く。水やお茶などのペットボトルと調味料がいくつか。そして空いた袋の中に残る食パンが一枚。
溜息を吐いて、パンとジャムを取り出した。
「一人暮らしって自由だけど、こういう所が不便」
パンを焼く気にもなれず、そのままジャムを塗る。行儀が悪いと思いながらもパンを咥えつつ、ジャムを戻してお茶のペットボトルを取り出した。
パンをお茶で流し込み、息を吐く。ペットボトルを冷蔵庫に入れながら風呂に視線を向けるが、今から入る気力はなかった。
そのまま部屋に戻り、何気なく机の上を見る。鍵のかかった日記帳。何故かそれが気になって、机に近寄り手に取った。
「いつ書いたんだろう?」
記憶を辿るが、思い出せない。けれど、日記帳は自分のものだ。
そう確信することを不思議に思いながら、日記帳を手にベッドに横になる。鍵はかかったまま。いっそ壊してしまおうかなどと物騒なことを思いながら、少し色あせた表紙をそっと撫でた。
――1月10日。
ふと、頭の中で声がした。
子供の声。びくり、と肩が揺れるが、手は日記帳から離れない。
――お年玉で日記帳を買った。かわいいお花の、カギのついた特別な日記帳。
声は語る。嬉しそうに、どこか恥ずかしそうに、日記を読み上げる。
――カギはふたつ。わたしとあの子のためのカギ。ふたりだけの秘密の日記にしよう。
これはこの日記帳に書かれていることなのか。弾む声が一日おきの日々の出来事を語っていく。
学校のこと。勉強のこと。あの子とどこへ行って、何をしたのか。
一日おきなのは、あの子という誰かとの交換日記だからだろうか。どれもが楽しい思い出のようで、ささいな出来事もすべて特別なことのように語っていた。
恐怖はない。ただ疑問ばかりが浮かんでくる。
この声は自分のものなのか。あの子とは誰なのか。
声はあの子の名前を語らない。僅かに記憶に残る日々を綴り感情が揺さぶられるのに、あの子の顔だけは出てこない。
声が語る内容は一月を過ぎ、二月へと続いていく。一日おきは欠かさず、あの子との日記が綴られる。
そして、日記は三月になった。
――三月。
そこで声は止まる。
何かあったのだろうか。声は沈黙を続け、不安に日記帳に触れたままの手が震えた。
――あの子はいない。
酷く淡々とした声だった。今まで弾むように感情を露にしていた声の突然の変化に、息を呑む。
――日記帳も、カギもない。全部流されて、連れていかれてしまった。だから、わたしたちの秘密はここでおしまい。
感情が抜け落ちた声が告げ、それきり何も聞こえなくなる。
ゆっくりと日記帳から手を離す。体を起こし、頭を押さえた。
「なに……今の……?」
目眩がする。頭が痛い。聞こえた声も、その内容も、自分の記憶も、色々なことがいっぺんに押し寄せて、訳が分からない。
強く目を閉じる。眉間に刻まれた皺を指で伸ばし、深呼吸を繰り返す。
「あの子は、いない……」
確かめるように呟いた。それだけで、浮かぶあの子という輪郭がぼやけていく。
これは、思い出してはいけないものだ。思い出してしまったら、戻ることはできない。
理由も分からないのに、理解できる。その正反対の感覚か苦しい。
「あの子はいない」
何度も繰り返す。言い聞かせるように、祈るように声に出す。
もう一度深呼吸をしてから、恐る恐る目を開けた。
見慣れた自分の部屋。ぐるりと部屋を見回し手元に視線を落とした。
「っ……!?」
日記帳が濡れていた。表紙がふやけ、紙が捲れている。
錆びついた鍵穴に触れれば、その途端にぼろりと崩れ、外れてしまう。まるで枷が外れたことを喜ぶかのように、濡れているはずの紙の端が僅かに膨らんだ。
今ならば、中身を見ることができる。
内側から囁く誘惑に、肩を揺らして頭を振った。
思い出してはいけないと思ったばかりだというのに、思い出したいと思う衝動が恐ろしかった。
あの子はいない。
言葉にしようとして、けれど声が喉に張り付き掠れた吐息しか溢れない。じわりと涙で視界が滲むのが唯一許された抵抗のように思えて、それが無性に悲しいと感じていた。
不意に、背中を撫でられる感覚がした。小さなその手に優しさを感じて、困惑と共に涙が溢れ落ちていく。
苦しい。悲しい。寂しい。会いたい。
たくさんの感情に、押し潰されてしまいそうだ。
「――ごめんなさい」
気づけば、背を撫でる手に謝っていた。
次から次に涙が溢れ、しゃくりあげながら、何度もごめんなさいを繰り返す。
「何もできなくて、ごめんなさい。弱くて、ごめんなさい……こうしなきゃ前を向けなくて、ごめんなさい」
優しい手は、ただ背を撫で続ける。
微かに香る海の匂い。二度と繋ぐことのできない手。それに痛みを覚えて日記帳を抱きしめ、声を上げて泣き続けた。
気がつけば、朝を迎えていた。
重たい頭に眉を寄せながら、体を起こす。ベッドや周りを見るが、日記帳はどこにも見当たらなかった。
「夢……?」
どこからが夢だったのだろう。痛む頭を押さえながら考えるが、何も分からなかった。
深く溜息を吐く。気持ちを切り替えるため、顔を洗おうと立ち上がった。
いっそシャワーを浴びれば、すっきりするのかもしれない。お湯と共に、夢の名残りなどすべて流してしまえるだろう。
そう思いながら、何気なく机の上に置かれたままの新しいスケジュール帳の表紙を指でなぞった。
新年だからと、新しく買ったスケジュール帳。簡単な日記帳としても使えるものだが、日記として使うことはないだろう。
一度閉ざされた日記を、もう一度開ける勇気はない。
「まだ、頭が眠っているみたい」
思わず苦笑する。何故そんなことを思うのか、分からなかった。
「ごめんね」
無意識に溢れた言葉。きっと、夢から抜け出せていないのだろう。
準備を整え、足早に風呂に向かう。
早く目を覚まさなければ。夢など忘れなければ。
夢にしなければ、戻れない。
前を見ることなど、二度とできなくなってしまうのだろうから。
20260118 『閉ざされた日記』
過ぎる凍てついた風に、身を震わせた。
くしゅん、とくしゃみをひとつ。身に染みる寒さに、足早に街路樹を抜けていく。
「寒い」
思わず呟いた。口にすることで、余計に寒さが増した気がして眉が寄る。溜息一つでさえ今は熱を奪っていくようで、白いマフラーに顔を埋める。俯き身を縮めながら、只管に家路を急いだ。
「おかえり。早かったね」
こたつに入り、みかんを剝きつつ姉は笑う。
「ただいま」
それに少しばかり拍子抜けしながら、おざなりに挨拶をしてこたつの中に入り込んだ。
暖かい。足元からじんわりと熱が伝わり、体の力が抜けていく。
「どうしたの?随分疲れているみたい」
「別に……ただ、今日は寒かった」
足だけでは足りず、温もりを求めてこたつの中に潜り込む。
不思議そうに問いかけられ、感じた寒さを訴える。目を瞬いた姉は窓の外に視線を向け、あぁ、と小さく声を上げた。
「木枯らしか」
「木枯らし?」
眉を寄せ、窓の外を見る。枯れた木々には葉が一枚も残ってはおらず、枝には僅かに雪が積もっていた。
年が明けて、一月も経っていないのだから当然だ。春はまだ遠く、況して木枯らしが吹く晩秋はとうに過ぎ去ってしまった。
「玉風じゃないの?」
「木枯らしだよ……きっとどこかに残っていた秋を見つけて、冬が奪い去っていったんだね」
目を細めて呟く姉は、どこか切なげだ。もぞもぞと体を起こし、姉と同じ目線で窓の外を見る。
外では枯れた木々の枝を、風が揺らしている。積もる雪を散らし、まるで何かを探しているようにも見えた。
秋を奪い去る冬。荒れる風と、枯れて何も残っていないはずの木々。
まだ残っているのだろうか。一つ残さず見つけ出そうとする冬を思い浮かべ、その執着にふるりと肩を震わせた。
「何だか、恐ろしい」
「確かにね。春を迎えるためには必要なことではあるのだけれど」
こたつの上のみかんに手を伸ばし、姉は小さく息を吐く。
「残っている秋は、去年のものだから。新しい年の、新しい春には必要ないからね」
そういうものなのか。姉のようにみかんを手に取り、皮を剥きながら考えた。
去年。そして今年。何もかもが変わらないように見えるが、やはり何かは違っているのだろう。
皮の剥かれたみかん。一房食べれば瑞々しい甘さが口に広がっていく。口元を緩めながら、このみかんは去年育ったみかんだな、と取り留めのないことを思った。
かたん、と窓が鳴る。視線を向ければ、外では変わらず風が木々を揺らすほど強く吹いていた。
「荒れてるね」
「そうね。きっとまだ全部見つかってないのでしょうね」
こたつで姉と二人、黙々とみかんを食べる。
ふと、喉の渇きを覚えた。名残惜しげにこたつを出て、台所へと向かう。
ひやりとした床や空気が、容赦なく熱を奪っていく。ふるりと肩を震わせ、手早くやかんに水を入れ火にかけた。
湯が沸く間に湯飲みや急須、茶筒を盆に乗せる。甲高いやかんの音を合図に、火を止めた。
不意に、冷たい風が吹き抜けた。誰かの視線を感じて振り返れば、いつの間に戻ってきていたのか、兄が台所の入口に佇んでいた。
「あ、おかえり」
「ただいま」
僅かに目を細めて微笑み、兄が台所に入ってくる。外から帰って来たばかりの兄の周囲は、まだ外の冷えた空気が残っているような気がした。
「お仕事はもう終わり?」
「あぁ。今日は終いにした」
「そう」
湯飲みを一つ新たに盆に乗せ、沸かした湯を保温ポットに入れる。茶請けも必要かと戸棚に視線を向ければ、兄が察して茶請けを取り出し盆に乗せて台所を出て行った。
ポットを持って後に続く。兄のいた場所はどこか冷えていて、吐き出した息がうっすらと白くなるのに、また小さく体を震わせた。
「今日は早かったのね」
こたつに置かれた茶請けに早速手を伸ばしながら、姉は首を傾げて問いかけた。
兄は肩を竦めるだけで何も答えない。黙々と茶を淹れて、姉の前へ湯飲みを置いた。
同じように目の前に湯飲みを置かれ、そっと手を伸ばす。湯飲みから伝わる熱で冷えていた手を温めながら、湯飲みを覗き込んだ。
「あ、茶柱」
「相変わらず、お茶を淹れるのが上手よね」
くすくすと姉は笑う。それに同意しながら、湯気に息を吹きかけた。
湯呑みに口をつける。まだ冷めていない茶の熱さに舌が痛むが、それが気にならないほどの美味しさに笑みが浮かぶ。誰かといるぬくもりと幸せに、段々と意識が微睡んでいく。
「寝ちゃいそうね。じゃあ、ちょっと早いけど、夕ご飯の支度をしてくるわ」
優しく頭を撫でられる感覚。離れていく姉の気配に、手伝いをしなければと閉じかけている目を擦る。
「今日は鍋だから、それまで寝てなさい」
姉の声が遠くなり、肩を抱かれ、そのまま横になる。薄く目を開ければ、膝枕をする兄と目が合った。
「寝ていろ。そう言われただろう」
大きな手が、目を塞ぐ。暗闇と冷たさに、ほぅ、と吐息が溢れ落ちた。
いつの間にか、風が止んでいる。何故かそれが気になって、目を塞ぐ兄の手に触れた。
「木枯らしは止んだの?残っていた秋は見つかった?」
「何だ、それは」
「だって……秋が残ると、春が……」
頭を撫でられる。冷たい手に、浮かんだ疑問が消えていく。
「担がれたのだろう。秋が残るなどあり得ない……冬が秋を置いていくことなどないのだから」
声が遠い。疑問も、記憶も、何もかも遠くなって、どこまでも沈んでいく。
そういえば。
眠りに抗うように、疑問が込み上げる。
兄と姉。家族であるはずの二人の名は、何だっただろうか。
本当に彼らは自分の家族だっただろうか。
両親の顔を、自分の名さえ、思い出せない。
「眠れ。心配せずともここにいよう。一人でないのだから、泣くことはないだろう」
意識が沈む。
思い出せないことすら忘れて、暖かな眠りへと落ちていく。
かたん、と風が窓を揺らす。
冬に移り変わる前の、秋の風が呼んでいる。
けれどもう、冬の腕の中の自分には。
その呼び声は聞こえなかった。
20260117 『木枯らし』
獣に似た鳴き声が、夜の街に響く。
藁蓑を纏い俵を背負った影。足を擦り、ふらつきながら歩くのは、小さな靴が見え隠れする俵の中身が原因だろうか。
異形の面の奥に見える目が、一軒の家へと向けられる。手にした切り刃《きりは》を握り、ゆっくりと歩み寄っていく。
「すごい。迫力が違う」
目を輝かせ、睦月《むつき》は燈里《あかり》の服の裾を握り締めながら呟いた。
「そうだね。来訪神は豊穣や幸福をもたらしてくれる神様だけど、怠ける人を戒める存在でもあるからね。あれくらいの怖さがあると、子供たちに響くだろうな」
睦月の頭を撫で、燈里は微笑んだ。
荒々しく戸を叩く音に、燈里はカメラを構えた。レンズの向こう側、鍵のかけられていない引き戸を開けて来訪神たちが切り刃を構え、家の中に入り込む。
「泣ぐわらしはいねがぁ!」
響く来訪神の声。遅れて泣きわめく子供の声が聞こえて、睦月はびくりと肩を震わせた。
手に力が籠り、服に皺を作っていく。
「わたし、ここの来訪神が家に来たら、燈里ねぇの背中に隠れて泣いてしまいそう」
「睦月はいい子だから、大丈夫だよ」
ふふ、と燈里は小さく笑い声を上げ、服を掴む睦月の手を繋ぐ。伝わる手のぬくもりが戻ってきたことを伝え、それだけで泣きたいほどに嬉しくなった。
地蔵菩薩が消えた後。家に戻った燈里たちは、睦月と遅くまで語り合った。
両親が事故で亡くなったこと。ヒガタと、ヒガタに連れていかれた子供たちの夢を見るようになったこと。
夢の中のヒガタは、子供たちに優しかったのだという。あの欅の根元で、ヒガタはついてきた子供に寄り添っていた。何も語らず、けれど子供たちの終わりを酷く悲しんでいるように見えたと睦月は語る。
「顔は見えなかったけれど、とっても寂しそうだったのよ。誰もいなくなってしまった木の下で、ヒガタの隣に座っているとね、時々村から声が聞こえるの。苦しい、悲しい、痛い……わたしの声も聞こえたわ。あれはきっと、心の声だったのね」
燈里の隣で、睦月は静かに笑う。
「その声が強く聞こえるとね、ヒガタは山を下りるの。そしてヒガタを見た泣けない子供はね、ヒガタについていくのよ」
「その子たちはもしかしたら、感情が削がれた子供はヒガタに連れていかれる認識ではなく、ヒガタの中の地蔵菩薩に救いを見たからついていったのかもしれないね」
「救い?」
首を傾げる睦月の頭を撫で、燈里は優しく呟いた。
「そう。地蔵菩薩は人々を救い、導いてくれる存在だから」
ぱちん、と火が爆ぜた。
囲炉裏を囲み、揺れる火を見つめる。ややあって、今まで黙って話を聞いていた冬玄《かずとら》が、小さく息を吐いた。
「あれにとって、子供がついてくることは呪いでしかなかった」
「冬玄?」
「往生のために生きてほしいと、あれは願い続けていた。だからこそ山を下りる来訪神と習合してまで、声の元へと向かった……尤も、その願いは叶うことはなく、残された言葉を誰かに託す日が来るまで守り続けることしかできなかったがな」
障子戸に視線を向ける冬玄を見て、楓《かえで》は茶を啜りながら苦笑する。
「泣かない子供の認識が呪いとなり、だけど呪われた子供にとっては救いとなった……皮肉な話だね」
茶請けの金平糖をいくつか取り、手のひらで転がしながら楓は呟く。
「生きているのに、生きてはいけないという感覚も、残された側の感情も、僕には分からないな……燈里と同じものが見えても、それだけは分からなかった」
「俺もだ。人間の心など、妖である俺らには分かりようがない……だが、分かる時が来るのかもしれないな」
緩く頭を振り、冬玄は燈里を見つめた。楓は手のひらの金平糖を握り締め、静かに口を開く。
「ならば、その時の傷を深くしないためにも、後悔のない選択をしないといけないよ」
「――そうだな」
楓の言葉に、冬玄は淡く笑みを浮かべた。
眠そうに目を擦る睦月の頭を膝に乗せながら話を聞いていた燈里の傍らに寄り、冬玄は静かに燈里の名を呼んだ。
「燈里」
「どうしたの?冬玄」
「――戻ったら、指輪を贈らせてくれ」
息を呑み、泣くのを耐える燈里の手を取り、冬玄は祈るように目を閉じた。
「燈里ねぇ。どうしたの?」
立ち止まったままの燈里を心配し、睦月が声をかける。それに燈里は何でもないと首を振り、さりげなく自身の指に視線を落とす。
翌朝。燈里たちは源護《げんご》の元を訪れ、祖先が元々暮らしていたという港町の話を聞いた。そして来訪神の取材を兼ねて、こうして今その港町を訪れている。
今はまだ何も嵌められていない指に、燈里は本日何度目かの溜息を吐く。家に戻るのが待ち遠しいような、恐ろしいような、そんな相反する気持ちに昨夜はあまり眠れなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫。何でもないよ……それよりも、本当に良かったの?私たちと一緒に来るのは不安じゃない?」
話を逸らす燈里に、だが睦月は気にすることなく首を振る。
「ううん。燈里ねぇたちと一緒にいたかったから、全然平気……燈里ねぇの方こそ、本当にいいの?わたし、燈里ねぇの家に住むの邪魔じゃない?」
不安げに見つめる睦月に、今度は燈里が首を振った。
村を出る際に、燈里は久子《ひさこ》に睦月のことを頼まれた。
両親が亡くなり、それ以来睦月は村から出られなかったらしい。そのため今まで通っていた麓の学校にも通えず、近所の人や久子に対しても、どこか距離を取って暮らしていたようだ。
そんな睦月が、燈里の側から離れようとはしない。それを見て、久子は睦月のためにと何度も燈里に頭を下げたのだった。
「邪魔なんかじゃないよ。私も睦月ちゃんと一緒にいれるのは嬉しいから」
「本当?よかった!」
燈里の言葉に睦月は破顔し、繋いだ手を大きく振る。安堵したように息を吐くのを見て、燈里は繋いだ手をきゅっと握りしめた。
「泣ぐわらしはいねがぁ!」
家々を巡り終えたのだろう。数人の来訪神が燈里たちを取り囲み、切り刃を手に声をかける。睦月は燈里の腕にしがみつきながらも、来訪神たちを見つめ声を上げた。
「泣かないよ!でも、燈里ねぇがいるから、ちゃんと泣けるようになったのよ!」
何人かの来訪神から、息を呑む音が聞こえた。睦月の言葉の裏に潜む、深い悲しみに気づいたのだろう。
「そうか。泣ぐことさ、できるようになったか。良がった、良がった」
「姉ちゃんさ、大事にな。無理すんでねぇぞ」
切り刃を持たない方の手で、来訪神たちが睦月の頭を撫でる。その力強さに体をふらつかせながら、睦月はあ、と小さく声を上げた。
「どうした?」
「泣く子はいないけど、怠け者《かばねやみ》はいるよ!ぐずらもずらして、ずっと燈里ねぇのこと、待たせてるの!」
睦月が指差す方には、離れて燈里たちの様子を伺う冬玄と楓の姿があった。気を利かせて離れていた冬玄は、突然に指をさされ眉を寄せる。
睦月の言葉で大方の理解はしたらしい来訪神が、切り刃を掲げ、冬玄の元へと歩み寄る。戸惑う冬玄を囲み、どこか楽しげに声を上げた。
「あんちゃん。あんな別嬪さんを待たせんのはよくねぇべ」
「おい、何を言って……」
「さっさと捕まえとかんと、よその男さにかっさらわれちまうぞ」
「確かに。いつまでも待たせて、ようやく指輪の話が出てくるようなのより、身持ちのしっかりした男の方がいいのかも」
「お前まで何言ってやがる!燈里は誰にもやるつもりはねぇぞ!」
賑やかに騒ぐ冬玄たちを見て燈里は小さく笑うと、カメラを構えて写真を撮る。助けを求めるようにこちらを見る冬玄に手を振って答えていれば、控えめに睦月が服の裾を引っ張った。
「睦月?」
「燈里ねぇ。あそこ……」
冬玄たちとは正反対の方へ、睦月は指を差す。視線を向けて、燈里は思わず息を呑んだ。
そこには、一人の来訪神がいた。獣に似た青い異形の面。割れてはいないその見覚えのある面に、燈里は無意識に居住まいを正し深く礼をする。
隣で同じように頭を下げる睦月を感じながら、ゆっくりと頭を上げる。すでにその場には誰もいない。頭を上げた睦月と目を合わせ、どちらともなく笑みを浮かべた。
「今年は豊かな年になりそう」
「うん。何ていうか、春が来そうな感じがした」
目を細めて、睦月は来訪神がいた場所を見つめた。燈里と手を繋ぎ、ねぇ、と小さく呟いた。
「浜吉のおじちゃんにお願いしたら、村でもう一度来訪神の祭りを行ってくれるかな?」
「そうだね。今度戻る時に頼んでみようか」
村にも実り豊かな春が来るように。笑顔が溢れるように。
「寒くない?そろそろ戻ろうか?」
「手があったかいから平気……それにこうしていると、世界がとてもきらきらしているように見えるの。嫌いだったはずの雪も、とっても綺麗」
ほぅ、と息を吐いた。
白く曇る息すら煌めいて見えて、睦月は微笑む。
「世界って、こんなにも綺麗で、美しいんだね」
心からの笑顔に、言葉に、燈里は答える代わりに睦月を強く抱きしめた。
雪のちらつく、寒い夜。
春はまだ遠い。
けれども繋いだ手には、確かに春の木漏れ日のように柔らかなぬくもりがあった。
20260116 『美しい』